第6話 初仕事

 恵三は深呼吸した。意図せず歩調が速くなる。ショーウィンドウを見かけ、薄っすら映った自分と睨み合いながら柄にもなく髪型を整えた。多少は恰好をつけようかと迷ったが、結局、チノパンとシャツの上に官給品のフライトジャケットを着こんだバイカー崩れのようなファッションになってしまった。


 昨晩、夜更けまで考えた自己紹介を頭の中で復唱する。無難な挨拶=精一杯がんばりますといった類の。事務所のメンバーはどんな人たちだろうか。自分の経歴は知れ渡っているだろう。奇異な目で見られるに違いない/案外そうでもないかもしれない。何しろ犬や不良品を雇うようなボスだ。似たような連中の集まりである可能性は高い。


 名刺の住所に到着する。大通りに面した煌びやかなオフィス──とはいかなかったが、裏通りにある小ぢんまりした二階建ての事務所の外観は小綺麗だった。まるでつい最近塗装を終えたばかりのように見える。


 センサーでベージュの外壁をチェック=表面に亀裂/擦過痕/弾痕らしき凸凹。軍務中のことを思い出した。前線に設営された臨時の司令部。


 認めたくはなかったが、さっきまで胸が高鳴っていた。新しい環境への緊張と期待──今はそこに別の感情が混じっている。


 インターホンを鳴らす。弥永の声。「どうぞー」


 事務所に入る──発砲音。恵三は思わず床に伏せた。頭の上に降ってくる紙切れと紙テープ。それを指でつまみあげ、恵三はクラッカーを手にした弥永に恨めしげな視線を送った。今日はアイボリーのチェック柄のスーツを着ている。


「すみません……そういう反応をされるとは思わず」弥永がしおらしく頭を下げた。

「いえ、職業病ってやつですので気にしないでください」

「なかなか悪くない反応だったぞ佐藤」


 まるで大物のフィクサーのように客間のソファに寝そべっていたレトリバーが伸びをした。恵三が立ち上がってジャケットについた埃を払う。今のサプライズで何を言おうかなど頭の中からすっかり抜け落ちてしまった。なんとか記憶のピースをつなぎ合わせながら、自分の挨拶を待っているはずの事務所の面々を見渡した。


 事務所内はがらんとしていた。二人≒一人と一匹しか見当たらない。念のため熱感センサーで物陰もチェックしてから恵三は言った。


「弥永さん、少し窺ってもいいですか?」

「何でもどうぞ。我らが弥永法律相談所の記念すべき三人目のメンバーである佐藤恵三さん」

「お答えいただいてありがとうございます」


 恵三は体中の活力が漏れ出るようなため息をついて手近な机にリュックを置いた。


「佐藤さん、朝食は済ませました?」


 弥永が皿にドッグフードを注ぎながら言った。田中がソファから跳ね起きる。


「……いえ、急いでたので」

「こちらで一緒にいかがです?」


 長テーブルには出来合いのサンドイッチとホットドッグが大量に並んでいる。ハム/トマトサラダ/卵、手当たり次第に口に運んだ。


「どうぞ」


 弥永が持ってきたコーヒーを恵三は受け取った。


「どうも」


 微かにフルーツの香り──ミルクも砂糖もなし。苦みが少なく飲みやすい。


 弥永が恵三の隣に腰を下ろした。「人数が少ないのには訳がありまして。別に少数精鋭を気取るつもりではなく、私の置かれた状況と目的を鑑みて雇う人は慎重に決めなければならないと考えているんです」

「目的?」

「正義を成すことです」

「なるほど」


 下手に踏み入れば面倒臭いことになると思い、恵三は深く感銘を受けたような顔をして頷いた。


「能力があって、比較的善良で、最低限自分の身は自分で守れて、いざというときの覚悟ができている方であれば年齢、性別、経歴はさほど気にしないつもりなのですが」

 まるで傭兵か歩兵部隊の募集要項。「法律関係の事務員の条件には聞こえませんよそれ」

「そうですか? まあ、増員に関しては追々、ということで。これぞという人物がいたら、佐藤さんもどんどんヘッドハントしてくれて構いませんよ」

「記憶にとどめておきます」


 弥永がトマト&マスタードのパックわきに除けてホットドッグを手に取る。恵三が代わりにソースを取って自分のものにかけた。こういうふうに誰かと食事を共にするというのも随分久しぶりだと妙な感慨を覚えた。


「さて、それじゃお仕事の話をしましょうか」弥永が言った。

「はい」


 何となく隣り合わせで会話することに気まずいものを感じ、恵三はナプキンで手を拭きながら向かいへと移動する。食事を終えた田中も寄ってきて恵三の隣に席に飛び乗った。従業員と雇用者が向かい合う形になる。


「それで、今度は誰の撃退を? それともこの事務所の要塞化が先ですか?」

「それもそのうちやってもらうことにはなるとは思うんですが、今日はまったく別の案件です。先日のような手合いを追い払っても基本的に懐が潤わないんですよねえ。ゲームみたいにお金をドロップしてくれたらいいんですけど」


 弥永から何かの資料が送られてくる。小難しい漢字のオンパレード/持って回った言い回し/一見して文章の主旨が読み取れない文章──法律関係。枚数も膨大だった。文字アレルギーを起こしそうになって恵三は頭を強く揉みほぐした。


「これは?」

「とあるご夫妻が若くして亡くなられたんですが、遺産相続の調停を依頼されまして。それに関する資料です。相続人は既に成人済みのご姉妹おふたりだけでしたので、まず双方のご希望を確認するところからと思って先方に出向いたのですが──」

「ですが?」

「姉の方が自分の総取りを頑として譲ろうとしないんです」

「そいつはまた……ずいぶん欲の皮が突っ張っているというか。姉妹仲が悪いんです?」

「というよりは、お姉さんの方が妹さんを一方的に毛嫌いしているようでして」

「こういうのは等分にするものかと」

「民法ではそのように規定されていますが、両社の合意があれば任意の割合で分けることができます。妹さんも流石に遺産ゼロはと思われているようなのですが、負い目があってこのままなし崩し的に決まってしまいそうなんですよ。ご両親の愛情は等しく注がれていたようですし、遺書があればこんなことにはならなかったと思うんですけど……急死なのが惜しまれます」


 弥永の口ぶりでは妹の方にも順当な遺産を分け与えたいという意思を感じる。


「えーと、ボス? 聞きたいことがあるんですが」

「おお……いいですねその響き」弥永が感慨深いという顔で腕を組んだ。「ボス。なんだか偉くなった気がしてきましたよ」

「どういう形であれ、そのご姉妹が合意に至るなら、10:0でもいいんじゃないんです?」

「私が合意したくありません」


 恵三は大口を開けた。自分が一般常識として知っている弁護士という職業像からは随分とかけ離れている。目の前の女性が人間の形をした何かに見えてきた。


「……なんで?」

「実は妹さんがクローンなんですよ。ご存じかもしれませんが、法的にはクローンはオリジナル本人とは認められません。例え同じ遺伝子で、同じ記憶を移植されていても。本人が所持していた権利はクローンにはありません。つまり被相続人と相続人は実の親子ではない──ですが、養子縁組は結んでいました。であれば、法的には半分貰えてもおかしくありません。だから泣き寝入りしてほしくない。付け加えるなら、実際にお会いしたところお姉さんがとても高慢な方で、妹さんが非常に感じのいい方だったのもあります」

「……はあ」


 取り組むべき問題は理解できた。次は自分がその問題のどの部分を担えるかだ。


「俺は何をすればいいんです?」

「佐藤さんにお願いしたいのはお二人の調査です。素行から経歴まで何もかも。そこから譲歩を引き出せそうなものを探します」


 ボスの指示──脛の傷を探せ。依頼人のためではなく、自分のエゴのために。


「あなたは本当に弁護士なんですか?」

「言ったでしょう? 正義の味方です。弁護士はそのための手段」


 冷や汗が出そうになった。どうやら、とんでもない人物に雇われてしまったような気がしてくる/恐らく気のせいではない。


「姉だけではなく、妹まで調べるのはどうしてです?」

「私がお二人に抱いたのは所詮、印象です。本当に肩入れすべきかどうかをしっかり見極めなければ」

「妹さんが思ったほどいい人ではなかったら?」

「取り分を考え直します。私は可能な限り善良な方の味方をしたい」


 恵三はコーヒーの残りを飲み干した。


「もしかして今のは、ケーキだけ食べて生きていきたいみたいな話でした?」

「そこまで難易度の高い話ではないと私は思っています。依頼人を厳選すればいいんです。ちなみに私はそれほど好き嫌いはありませんので、食事に誘っていただけるのでしたらお店はどこでも構いませんよ」

「……そのうち懐に余裕ができたなら」

「おお、今の給与の要求の仕方はなかなかお上手でしたよ。その調子でうまい具合に交渉して情報を引き出してください」

「交渉?」


 事務所にチャイムが鳴り響いた。


「どうぞー」


 弥永が入り口に向かって大声で言うと、事務所のドアが開いて男が姿を現した。威圧的に着崩したビジネススーツ/味もそっけもない単色のネクタイ/靴は無難なストレートチップ。


「失礼します」


 見覚えのある顔──昨日、自分を取り調べた警察官の片割れ。窓枠に座って、終始こちらを睨みつけていた方だ。


 弥永が言った。「今日はあちらの刑事さんの捜査に協力してあげてください。それが佐藤さんの本日のお仕事です」

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