第10話『かぐやちゃんと戯れたい。』

 かぐやを見た途端、向日葵は大きな声を上げ、かぐやを抱く僕の側まで一気に近づいてきた。そのせいか、かぐやは僕の後ろに隠れてしまう。


「にゃぉん……」

「怖かったんだな、かぐや」

「驚かせちゃってごめんね、かぐやちゃん。……でも、こういう姿もかわいい。ノラ猫に触ろうとすると、木の陰に隠れたり、家の敷地に入ったりしてあたしを見るから」


 向日葵は優しい笑みを浮かべながらかぐやを見ている。どうやら、かぐやに隠れられてしまったことにあまりショックを受けていないようだ。

 ノラ猫は初対面のときはもちろんのこと、何度会っても体を触らせない猫が多い。そう思うと、初めて会ったときから、頭や背中を触らせてくれたかぐやは珍しかったんだな。

 目線の高さを少しでも近づけるためか、向日葵はその場でしゃがむ。


「かぐやちゃん、初めまして。お姉ちゃんは向日葵って言うんだよ~。さっきは本当にごめんね。頭とか背中を触らせてくれると嬉しいなぁ」


 とっても優しい声でかぐやに話しかける向日葵。普段とは全然違う声なので、別人格になったんじゃないかと思ってしまう。

 向日葵がかぐやに向けて右手をゆっくりと差し出すと、


「にゃんっ」


 かぐやは僕から離れて、勉強机の下へと逃げてしまう。


「普段は大人しくて、初対面の人にも触らせてくれることが多いんだけど」

「それだけ、さっきのあたしに驚いちゃったんだろうね。しょうがない。少し時間が経ってから、触るのに挑戦しようかな」

「それがいいと思う。チャンスはいくらでもある」

「お待たせしました」


 トレーを持った撫子が部屋の中に入ってきた。そのトレーにはアイスティーの入ったマグカップが3つ乗っている。

 向日葵はさっきと同じくベッドの近くのクッションに座る。そんな彼女が右斜め前に見える位置にあるクッションに僕が座る。

 撫子はテーブルにマグカップを置くと、テーブルを介して向日葵と向かい合う形でクッションに腰を下ろした。


「いただきます」


 向日葵はアイスティーをゴクゴクと飲む。


「あぁ、美味しい。晴れている中歩いたから、冷たいのがとても美味しく思えるわ」


 爽やかな笑顔を見せて向日葵はそう言った。向日葵って美味しい食べ物や飲み物を口にすると笑顔になりやすい子なんだと思う。

 僕もアイスティーを一口飲むと……冷たくて美味しい。これからは冷たいものがますます美味しくなっていくんだろうな。


「美味しいですね」

「美味いよな。向日葵の言う通り、冷たいのが美味しく思えるよ。まあ、明日からはもう5月だし」

「もう新年度が始まってから1ヶ月経つのね。撫子ちゃんは高校生活に慣れてきた?」

「はい、慣れてきました。友達もできて、園芸部も楽しくて。勉強もついていけていますし楽しいです」

「それは良かった。お兄さんに頼るのもいいけど、あたしにも頼っていいからね」

「ありがとうございます! あの……連絡先を交換しませんか?」

「もちろん!」


 向日葵と撫子はスマートフォンを取り出し、互いの連絡先を交換する。頼りになる学校の先輩が多いに越したことはない。向日葵も撫子には優しく接しているし、撫子にとって心強い存在になるんじゃないだろうか。


「LIMEでメッセージを送れたし、これで大丈夫ね」

「ええ。ありがとうございます。ところで、かぐやは……あっ、勉強机の下からこっちを眺めていますね」

「実は桔梗が部屋に連れてきてくれたとき、かぐやちゃんがあまりにも可愛かったから、大きな声を出して目の前まで勢いよく迫っちゃったの。それが怖かったのか、あそこに居座っちゃって」

「そうだったんですか。それだと……さすがのかぐやも怖がっちゃうかもしれませんね。人なつっこい方ですけど。……かぐや、こっちおいで」


 撫子はかぐやの方を見てそう言い、自分の近くの床をポンポンと軽く叩いた。

 かぐやはゆっくりと立ち上がり、撫子の叩いたところまでやってきて香箱座りをする。そんなかぐやに撫子は「いい子だね」と言い、頭から背中に掛けて撫でていく。


「撫子ちゃん凄い。あと、触れて羨ましい」

「10年近く飼っていますからね」

「かぐやはうちの人間の中で撫子が一番好きだから」

「そうなんだ」


 気づけば、向日葵は僕のすぐ近くまで移動してきていた。かぐやを撫でる撫子の様子を見るためだろうか。向日葵が側に来たことで、彼女の甘い匂いがふんわりと香ってくる。これにはドキッとする。


「……あぁ、かぐやちゃんと戯れる撫子ちゃん。とっても可愛くていい光景だわ」

「可愛いだろう? 僕の自慢の妹達だから」

「……かぐやちゃんも妹にカウントしているのね」

「当然だよ。かぐやは猫だけど、10歳の女の子だからね。とても可愛いと思うなら、僕と一緒にシスコンになるか?」

「いやいや、ならないから。あと、妹達の前で言うなんて筋金入りのシスコンね。撫子ちゃん、こんな人がお兄さんで嫌だとは思わない?」

「特に思いませんね。今日みたいに、兄さんがいて良かったと思うことは何度もありますし。加瀬桔梗という人が兄さんで良かったです」

「確かに、林田っていう男子に相手したときの桔梗は頼もしかったものね」

「……嬉しい言葉だなぁ。僕も撫子が妹で良かったよ」


 目頭が段々と熱くなってきた。今すぐに死んでもいいくらいに兄さんは幸せだ。世界中の人に僕の妹達は最高だと自慢したい。まったく、妹達は最高だよ!

 今日という日を忘れないためにも、かぐやと戯れる撫子の姿をスマホで撮影した。近いうちに現像してアルバムに貼ろう。


「私がたくさん撫でて、かぐやもリラックスしたように見えますし、そろそろ向日葵先輩も触れそうな気がします」

「そ、そうかな。さっきのこともあるからちょっと不安だな」

「じゃあ、まずは僕が頭を撫でるよ。その間に、向日葵は背中を撫でてみようか。かぐやは背中を撫でられるのが好きだから」

「分かったわ」

「……かぐや、今度は僕のところにおいで」


 そう言って、さっきの撫子のように左手で床を軽く叩く。

 かぐやはゆっくりと立ち上がり、僕のところにやってきて左手に頭をスリスリしてくる。頭を撫でるとかぐやはその場で寝転がった。


「にゃ~ん」

「気持ちよさそうだ。……向日葵、今なら触れると思うよ」

「う、うん。試してみるわ」


 緊張している向日葵は「ふーっ」と静かに息を吐き、かぐやに向かって右手をゆっくりと伸ばしていく。その右手がかぐやの背中に触れるが、かぐやが逃げる気配はない。


「あぁ、触れた……」


 さっき避けられてしまったからか、かぐやに触れられた向日葵はとても嬉しそうだ。向日葵はかぐやに触れている右手をゆっくりと動かしていく。


「柔らかい毛で気持ちいい」

「そうだろう?」

「にゃぉ~ん」

「かぐやも気持ちよさそうですね」

「……そうだと嬉しいな」


 えへへっ、と向日葵は声に出して笑う。どうやら、かぐやの虜になったようだな。かぐやマジックか、満面の笑みを撫子だけでなく僕にも向けてくれる。それがとても嬉しくて、胸の中に温もりが広がっていく。


「これなら、僕が頭を撫でるのを止めても大丈夫かもしれない。手、離すよ」

「う、うん」


 かぐやの頭からそっと右手を離す。だからか、かぐやはゆっくりと顔を上げ、周りの様子を見る。背中を触っているのが向日葵だと気づいたのか、向日葵の顔を見続ける。


「か、かぐやちゃん。あたしに触れるのは嫌だったかな?」


 緊張した面持ちで向日葵がそう言うと、かぐやは無言でその場から立ち上がる。そして、背中を撫でていた向日葵の右手に頭をスリスリしてきた。


「にゃーん」

「かぐやちゃん……!」


 さっきにも増した明るい笑みを向日葵は浮かべ、キラキラとした目でかぐやのことを見つめる。


「きっと、向日葵に心を許してくれたんだろうね」

「良かったですね、先輩!」

「うんっ! あぁ、かぐやちゃんが頭をスリスリされるなんて。幸せだわ」

「ふふっ。記念に写真を撮りましょうか? LIMEで送りますよ」

「お願い!」


 それから、向日葵は撫子にかぐやとのツーショット写真を撮ってもらい、自分のスマホに送信してもらう。その写真を見た彼女はとても幸せそうにしていた。そんな彼女を見ているとこちらまで幸せな気持ちになっていく。

 向日葵のことを気に入ったのか、かぐやは彼女が正座をすると脚の上に乗って香箱座り。そんなかぐやに向日葵は終始ニヤニヤしていた。

 かぐやのおかげもあって、家に帰ってから向日葵の笑顔をたくさん見られた。やっぱり彼女の笑顔はとてもいいと再確認できた。

 かぐやと戯れてからは、向日葵のお願いで今日の数学Ⅱの授業で課題を一緒にする。撫子も僕の部屋で数学Ⅰの課題に取り組む。

 途中、向日葵が質問してきたので、僕が解説をすると、


「なるほどね、理解できたわ。愛華の教え方も分かりやすいけど、桔梗も分かりやすい。さすがね」

「そう言ってくれて嬉しいよ」


 つい先日まで、成績の順位が原因で嫌悪感を示されていたから、向日葵に勉強関連のことで褒められると結構嬉しくなる。


「兄さんの教え方、とても優しくて分かりやすいですよね。勉強でも、これまで兄さんに何度も助けられてきました」

「そうなの」

「兄として、撫子の分からないことは教えられるようにするって心がけてるよ」

「なるほど。撫子ちゃんに何度も勉強を教えていくうちに、教え方が上手になったのかもね」


 納得した様子で言うと、向日葵は再び課題を取り組み始めた。

 それからも向日葵や撫子からの分からないところを解説し、僕ら3人の数学の課題は無事に終わったのであった。




 夜。

 今日出された課題を全て終わらせ、昨日の深夜に録画したアニメを全て見終わったときには午後11時近くになっていた。

 寝る準備をして、部屋の電気を消した瞬間、

 ――コンコン。

 扉からノックした音が聞こえた。

 はい、と返事をしてゆっくりと扉を開けると、そこには枕を持った寝間着姿の撫子が立っていた。


「どうした、撫子」

「……今日は一緒に寝たいなと思って。告白を断ったとき、兄さんが私の横に立っていてくれたのが凄く心強かったから。今夜は一緒に寝たい気分になったの。……ダメかな?」

「いいよ」


 むしろ喜んで。高校生になっても僕と一緒に寝たいだなんて。可愛い妹だなぁ、本当に。大きくなってからは頻度が減ったけど、現在でも撫子とは一緒に寝ることがある。

 撫子を部屋の中に招き入れる。ベッドライトを点け、寝ている間に落ちる心配がないように、彼女を壁側に寝かせる。

 僕もベッドの中に入り、掛け布団を胸の辺りまで掛ける。撫子が一緒だからいつもよりもベッドの中が温かくて。甘い匂いも感じられる。

 僕が仰向けの状態になると、撫子はそっと腕を抱きしめてきた。


「今回も腕を抱きしめながら寝てもいい?」

「うん、いいよ」

「……ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ、撫子」


 撫子はゆっくりと目を瞑り、さっそく可愛らしい寝息を立て始める。撫子が眠りやすいようにベッドライトを消す。

 少し時間が経つと暗さに目が慣れてきて、窓から入ってくる月明かりだけでも撫子の可愛い寝顔を見ることができる。


「……お兄ちゃん……」


 柔らかい笑顔を浮かべながら、撫子はそんな寝言を呟いた。夢に僕が出ているのかな。

 そういえば、小さい頃は僕の頃を「お兄ちゃん」って呼んでいたけど、いつから今みたいに「兄さん」呼びになっただろう。少なくとも中学生になったときには、僕のことを兄さんと呼んでいた。

 寝言でも「お兄ちゃん」呼びされると、ちょっとキュンとくる。


「……おやすみ、撫子」


 起きてしまわないように、撫子の頭をそっと撫でて僕はゆっくりと目を瞑る。撫子の温もりや甘い匂いが心地よく、目を瞑ってすぐに眠りに落ちるのであった。

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