第32話 妹は、晴れ渡る空を見上げ、つぶやいた。
今、アタシの前をふたりが歩いて行く。
涼やかな風がふく、気持ちの良い青空の下、肩がぶつかるかぶつからないかの距離を保って、並んで歩いて行く。
兄ちゃんの手には、姉が持参したお弁当の入った大きめのランチバック。姉が重そうに抱えているもんだから、それに手を貸さない兄ちゃんじゃない。
昨日の出来事がどうにも気がかりで、今日も姉と一緒に家を出たけれど、どうやら心配しすぎていたようだ。
はじめはどうなることかと心配した。
なんせ姉は、震える指でなんとかピンポンを押しはしたけれど、いつものようにとはいかないみたいで、出てきた兄ちゃんに、驚くほどにガチガチに緊張しちゃっていて。
『お、おは、……お、』
到底ヒトの言葉を話せていなかったんだもん。
確かに、あんな痴態をさらした次の日だ。しかも、大好きな人の前でだ。だから、今の姉の姿も仕方がない。
でも、そこはさすがの兄ちゃんである。
朝から妙に鼻息が荒く、すこし空回りがちのそんな姉に、
『あぁ。おはよう』
兄ちゃんはピカピカの笑顔でさらりと挨拶してみせる。すると、わずかな間の後、姉は少しだけ口角を上げ、小さく頷いた。
その光景に、思わず拍手をしてしまうそうになる。
いやはやお見事の一言だ。あっという間にあの面倒くさい姉の緊張を解いてしまったのだから、やっぱり兄ちゃんはスゴいヒトだ。
もしかすると、あれは一種の魔法かもしれない。あの姉にしか効き目のない使い道の乏しいクソ雑魚呪文だけど、そのぶん効果は抜群。
『良い天気だな』
『……う、うん』
『ホント、良い日になりそうだ』
『……うん。アタシもそう思う』
しかも自然な素振りで、姉のランチバックを、持つよと言わんばかりに手を出した。
『今日は大荷物だな』
きっとその行為が姉の乙女回路を打ち抜いたのだろう、そんな兄ちゃんに、いよいよ姉は耳まで真っ赤に染めて、
『――あのね、アタシ、朝から頑張ったんだ』
バックを手渡しながら、姉は何を頑張ったとは言わない。ただ、あの朝の日差しにも負けやしないキラキラの瞳で、兄ちゃんの顔を愛おしそうに見つめるだけ。
『お前が頑張りやなのは知ってるさ』
兄ちゃんも、深くは踏み込まない。ただただお前が愛おしいと、そう言わんばかりに柔らかく笑みをこぼすだけ。
『――だから、だからね。アタシ、今日は頑張るから』
ふと、その言葉に、ほんの少しだけ兄ちゃんの表情が曇ったように見えたけど、
『うん。僕も頑張る』
気のせいかな。だって、兄ちゃんはまた、照れくささを隠すような、そんなとてもいい顔で笑ったんだから。
『なんでアンタが頑張るのよ』
『……そうだな、僕が頑張るはおかしいか』
もう一度笑みをこぼした兄ちゃんにつられるように、姉もまた、にへへと笑みをこぼした。
そして、ふたりは通い慣れた道を歩いて行く。いつものように他愛のない話で盛り上がりながら、それが当たり前のように仲睦まじく歩いて行く。
アタシは、そろそろお邪魔虫かな。少し遠回りだけど、この曲がり角で別れよう。
こっそりと駆け出すアタシ、最後に目の端に映った兄ちゃんの笑顔に、ほんのちょびっとだけ、チクリと胸が痛んだ。
たぶん、今日であのふたりの関係は変わる。昨日はああ言ったけど、あのふたりの事だから、紆余曲折あろうとも結局は良い方向に落ち着くのだろう。でも、そうなれば、アタシと兄ちゃんの関係も自ずと変わっていく。
アタシの立ち位置は、幼馴染みの女の子から――まぁ、そうなるよね。
小さな頃から兄ちゃんの笑う顔が好き。ずっと好き。これからも大好き。でも、それと同じくらい、姉の笑顔もアタシは好きなのだから――なら、仕方ないか。
どんどんと駆ける速度を上げていく。息は切れ、肺は熱く、心臓は破裂しそうなほど痛い。
もしかして、どこか期待していたのだろうか。少しでも兄ちゃんの気持ちがアタシに向いてくれる、そんな夢物語を思い描いていたのだろうか。
とっくの昔に、そんな事あり得ないと理解していたはずなのだけど。
――もう無理だと足を止める頃には、あのふたりはとっくに見えなくなっていて。
荒く息を切らせながら、アタシは強く拳を握りしめる。
そんな叫びだしそうになる感情を抑え、ふと見上げた空は、とてもとても綺麗な青色に滲んでいた。
「……お幸せに。……ばーか」
別に誰に聞いて欲しいわけでもない。ただ、自然と、言葉がこぼれた。
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