9 伊吹はアイなんて知らないと叫んでしまう

 水は、空中で槍のように姿を変え伸びてくる。


 伊吹は身を逸らして、かろうじて水の槍を避けたが、

 進む勢いは完全に殺されてしまう。


 傍らを窺うと、絵理子も無事に回避したようだ。


 数メートルほど後方で、水がはじけた音がする。


 水の槍が車か柱にでも着弾したのだろう。


「何よ、今の」


「こういう奴らなのよ、津久井も、この男も。

 いったん逃げて関と合流しましょう」


 言いながら踵を返す。


「おい、待て」


 背後であわただしい音がする。


「単純!」


 伊吹は背後に男の気配を確認し、

 膝を曲げて勢いを殺し、溜めた力で斜め後方へ跳ぶ。


 前後関係が入れ替わり、男の背中が見えた。


 もし道場で裸足になっていれば、

 もっと上手く立ち位置を入れ替えられただろう。


 衰えた体力とゴスロリにあわせたブーツが恨めしい。


 伊吹は男を無視して、

 他に仲間がいないか警戒しつつ柚美の下に駆け寄った。


「柚美さん。走れる?

 逃げるわよ」


「無理ぃ。伊吹ちゃあん……」


 へなへなとくずおれた柚美の瞳には、

 めいっぱいの涙が溜まっている。


「泣かなくてもいいじゃない。

 私が貴方を置いていくはずないでしょ」


「けど、わたし、わたし、さっき」


「手、見せて」


 柚美の両手首は、身体の前で水のような紐に縛られていた。


「痛いのは手だけでしょ。

 へたりこんでないで。逃げるんだから立ちなさいよ」


 伊吹は柚美を拘束している輪っかが引きちぎれるか試してみたが、

 水風船のような弾力で伸びるばかりだった。


「……無理。あとで関に頼みましょう。

 今は痛いの我慢して」


「無理。無理、無理。

 ちぎれるほど痛かった」


 伊吹は柚美の無事を確認したので、絵理子の様子を窺う。


 たとえ足手まといになろうとも加勢するつもりだったが、

 踏み出そうとした足を止めてしまう。


 非常事態であることを忘れ、目の前の光景に見ほれた。


 そこにあったのは、武道を習った者として理想にしたい姿。


 男は矢のように跳び一歩で車の全長ほどの距離を無にする。


 関と同様に人間の限界を超えた凄まじい身体能力だ。


 絵理子は靴幅ほど横にずれるだけで男の攻撃をいなした。

 目が霞むほどの速度を、読み切り、捌いたのだ。


 非常識な身体能力の素人と、

 常識的な身体能力しかない達人との闘い。


「凄いわね……」


 男は身体能力をもてあましているようだ。


 絵理子に避けられた後は、自ら踏み込んだ勢いを殺せず、

 数メートル先まで滑り去っている。


 いくら攻撃が鋭くても、次への繋がりが遅く、

 単発の技になっている。


 男は柱や車両の無い方向にしか突進できないのだから、

 絵理子が見きるのは容易いだろう。


 連続再生のように同じような攻防が何度も繰り返される。


 事態は降着したままだろうと思った矢先に、

 傍目で見ている伊吹だから気づいた。


 偶然なのか、最初から男が誘導していたのか、

 絵理子が移動した足下に水たまりがある。


「足下!」


 ただの水たまりではなかったのだろう。


 油にでも滑ったかのように絵理子がバランスを崩す。


 それでも無理な姿勢から男の胴体側部を押して追撃を避けた絵理子の体捌きは驚嘆に値する。


 だが、男は絵理子の背後、

 駐車場の柱に横向きで着地、三角飛びの要領で方向転換。


 絵理子は死角から攻撃を警戒して、腕を庇うが、

 男はその上から後頭部を殴りつけた。


「くっ……!」


 鈍い音を残して絵理子が倒れる。


「絵理子さっ、ぐっ!」


 伊吹は絵理子の元に掛けよろうと、最短距離を走りだす。

 それはあまりにも浅はかな行為だった。


 一瞬で距離を詰めた男の膝が、伊吹の腹にめりこむ。


 伊吹は後方に倒れ、内蔵を吐き出しそうになるほどの痛みに、悶え苦しむ。


 絵理子だから渡り合えていたのであって、

 伊吹には男の動きを見きることは出来ても、

 避けるだけの瞬発力はなかった。


「ん、んー。

 軽度の身体能力強化?

 能力の起源を開示されていたら、

 こっちがやられていたかもしれませんねえ」


 男は未だに、絵理子が自分たちと同類の能力者だと誤解しているようだ。


「しかし、私には勝てない。

 私はそこの女に能力の起源を開示した上で、

 口止めをした。そして私は君達の起源を知らない。

 口にしようとすれば人質を殺す。

 くっくっくっ。頭は使わないといけませんよ」


 男が勝ち誇っている間に、伊吹は一言聞ける程度に呼吸を整えた。


「くっ……。すぐに関が来るわ」


「負け惜しみにしても強がりにしても、

 もう少し考えたらどうですか。

 いくらなんでも、関はおろか、

 誰も来ないのを不審に思わないのですか」


 確かに、立体駐車場なら屋根があるから雨天でも利用者は多いはずだ。


 退店する者だっているはずなのに、誰も見かけない。


 周囲に注意を配ると、今更ながら非常ベルと緊急放送が聞こえてきた。


『ご来店のお客様。

 ただいま屋上駐車場と一階食料品売り場にて火災が発生しています。

 係員の誘導に従い、至急、避難してください。

 繰り返します』

 

 伊吹は目の前の状況に集中するあまり、

 館内放送が聞こえなくなっていたのだ。


「蛇野郎を蒲焼きにして食ってやるというのが、

 桧山の口癖ですからね。

 アイーシャを連れだすことすら忘れて、

 派手に暴れているのでしょう。

 地下駐車場なら円形の物体が多いから、

 輪入道なんていうマイナー起源のくせに、

 あいつは最強だあ。癪に障るなあ」


「無関係な人を……」


 伊吹は喋るだけでも腹が痛み、立ち上がるのは到底無理だった。


「さあ、アイーシャを連れてきてください」


「アイーシャってなんのこと?」


「とぼけないでください。

 養護施設からお前が連れ去った、外国人の子供ですよ」


「そんな子、知らないわ。

 私たちは三人で買い物に来たのよ」


「はああ?」


「くっ……!」


 伊吹は横腹を蹴り飛ばされて身体が半回転したが、

 沸き上がった怒りにより、痛みは直ぐに消えた。


 男が直ぐ傍らに来て見下ろしてくる。


「アイーシャを渡せ。

 僕は暴力は嫌いだが、振るうときは容赦しない」


「アイーシャなんて知らない!」


「腕の一本でもへし折ってやろうか?」


 伊吹はアイの居場所を知らないし、、

 たとえ腕を折られようとも、

 言うつもりはなかった。


 だが、絵理子は違う。

 同居する妹分が傷つくのを見ていられない。


「やめなさい! アイちゃんの居場所は私達も知らない」


 絵理子が上体を起こす。

 意識はあるようだが、身体は思うようにならないようだ。


「お、わりと本気で殴ったつもりですが、

 意識があるのですか。

 ん~。いいですね」


 男はニタリと下品な笑みを浮かべると、

 伊吹から興味をなくしたかのように、絵理子の下へと向かう。


「なかなかどうして。

 僕好みの美人さんじゃないですか。

 津久井さんが来るか、桧山の戦闘が決着するか。

 それまで遊んでもらいましょうか」


 男はしゃがみ、

 下卑た笑みを浮かべながら、絵理子の顎を持ち上げる。


 絵理子は身体に触れたというのに、殆ど抵抗も出来ないようだ。


「やめて! 絵理子さんから離れて」


「ならアイーシャを連れてこいよぉ。

 いや、連れてこなくてもいいか。

 アイーシャを捕まえたら津久井さんのところに戻らないといけないからなあ。

 この女を強姦する時間がなくなる」


「だから、そんな子、知らないと言っているわ」


「お前たちが一緒に行動していたのは見ている。

 何処にいる?」


「もし知っていたら、差し出しているわよ。

 アイーシャなんて知らないわよ!」


 もちろん伊吹は、男の注意を逸らすために叫んだだけだ。

 この発言が、どのような結果をもたらすかなんて、想像すらしていない。


「伊吹ちゃん! 駄目!」


 柚美の声音があまりにも悲痛だったから、

 伊吹はただならぬものを感じて振り返る。


 絵理子の車の窓が視界に入った。


 そして、窓に両手をついて泣く小さな女の子が見えた瞬間、

 視線と身体が硬直した。


 アイは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。


「え?」


 さっきまで誰もいなかった。


 柚美は知らないと言っていたし、

 男だって車の中くらいは確認したはずだ。


 いるはずがないのに。


 伊吹の首筋を冷たい物が流れ落ちていく。


 様々な思考が伊吹の脳をぐちゃぐちゃにかき乱し始めた。


 小柄なアイだから、

 後部座席の後ろの透き間にでも潜り込んでいたのだろうか。


 服を買い込んだときの大きな紙袋に入って隠れていたのだろうか。


 いや、何処にいたかなんて、どうでもいい。


 なんでアイは泣いているのだろうか。


 何故、姿を現してしまったのか。


 三歳児でも、隠れなければならないというこは、

 理解できていただろう。


 おそらく柚美が隠れるように指示したから、

 ひとりで寂しい思いをしながら震えていたはずだ。


 なのに。


 なぜ、アイは姿を現してしまったのか。


「アイ……さん?」


 アイにとって、身の危険よりも重大で、

 窓から外の様子を窺わなければならないほどのことが起きたのだ。


 今、伊吹は「アイーシャなんて知らない」と叫んでしまった。


 いないと思っていたんだから、

 アイが聞いたらどんな誤解をするかなんて、考えてもいなかった。

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