3 伊吹は授乳を迫られる

「おっぱい?」


「おっぱい?」


 眠りについていたはずのアイが、伊吹の言葉に即応した。


 呟きにしては大きかったのかもしれないし、

 動揺して揺すってしまったのかもしれない。


 お昼寝直後だからあまり眠くなかったのかもしれない。


 アイが潤んだ目元を小さな手でくしくしと擦る。


 伊吹は胸がきゅんっと甘く高鳴った。


 同時に、もう何度目か分からない、謎の現象が発生する。

 伊吹の髪が星のように瞬き、あっと言う間に金色に染まってしまった。


 色の変化を間近に見て、アイがきゃっきゃっと笑う。


「アイさん、貴方、おっぱいを飲む年齢じゃないわよね?

 ……あれ。赤ちゃんって、何歳くらいまでおっぱいを飲むのかしら」


 育児経験のない伊吹は、離乳期を知らない。


 根が真面目すぎる故に、絵理子が冗談を言ったとは、気づけなかった。


 伊吹は思考を巡らせる。


 今朝、伊吹は剣道の試合が終わったら帰るという、

 曖昧な帰宅時間を告げて出掛けていた。


 さらに柚美を連れて帰宅したし、

 アイという予想外の来客もあったため、

 絵理子は人数分の昼食を用意できなかった。


 そのため、昼食はおうどんを注文した。


 単にこれは、桐原家の近所に出前可能な個人店のうどん屋があるからだ。

 絵理子のスマートフォンには番号が登録してあるくらいには、普段からひいきにしている。


 けど、伊吹はそんな事情にまでは考えが至らない。


 伊吹は、アイくらいの幼児はまだ固いものを食べられないから、

 絵理子がわざわざ、おうどんを頼んだのだろうと勘違いした。


 アイは三歳児なので、

 ごはんや卵焼きや魚など伊吹と同じものを食べることが出来る。


 しかし、伊吹は身近に赤ちゃんがいたことがないので知らなかった。


 おうどんみたいな柔らかいものしか食べられないのだから、

 まだ、おっぱいを飲む年齢だろうと結論する。


「おっぱい。おっぱい」


 アイは眼を爛々としながら、伊吹の胸にしがみついてくる。


 伊吹は胸を中心にして、体全体に熱を感じた。

 心臓が沸騰した血液を全身に送りだしているかのようだった。


 授乳はいったん置いておいても、火照った体を冷ますために、

 シャツを捲るのは悪くないことのように思えた。


 だから、伊吹は服の裾を掴む。


 しかし、めくることは僅かに躊躇する。

 裾をパタパタと仰いで、胸元に風を送り込んだ。


 本音であるなら、伊吹はアイに授乳したい。


 臓器移植後から繰り返し見てきた夢が、睡眠学習のようにして、

 伊吹から授乳への抵抗感を奪っていた。


 乳首を甘噛みしながら吸ってもらいたいという気分が、

 もやもやと沸いてくる。


「母が子に乳を与えるのに、

 何も恥ずかしいことなんてない、のよね」


 授乳は女性にしかできない、命を育む立派な行為だ。


 そう。

 恥ずかしがることなんて何もないのだから、

 普段どおり堂々としていれば良いのだ。


 伊吹は服の裾をたくしあげる。


 が、寸でのところ思いとどまる。


 出産はおろか、妊娠すらしていない自分が授乳するのは、

 非道徳なことではないだろうか。


「ううっ……」


 見つめても、天井の木目は答えを教えてくれない。


 伊吹は襖を確認する。

 ぴたりと閉まっている。


 伊吹は耳を澄ます。

 廊下に人の気配はない。

 古い家なので人が近づけば音で分かる。


「恥ずかしがっていては、世界中の母親に失礼よね。

 ……い、いつでもいいわ。吸いたければ、吸いなさい!」


 伊吹は照れ隠しでつい居丈高になりつつも、

 アイの頭を抱き寄せた。


 恥ずかしながら、胸の先端が疼いている。


 なので、気分としては吸ってとお願いしたいのだが、素直になれない。


 なれるはずもない。


「ママ」


「何よ」


 アイは眉間にかわいらしいしわを寄せて伊吹の胸を、

 じーっと凝視する。


 間違い探しでもしているかのような真剣な眼差しだ。


「おっぱい、無いよ?」


「小さいだけで、あるわよ!」


 伊吹は胸だけならアイと似たような体型なので、

 ふくらみを見つけにくいのは仕方がない。


 しかし、まさか無いと言われるとは思わなかった。


 確かに伊吹が夢に見るイレーヌは豊乳だったから、

 アイがそれを吸っていたとしたら、伊吹の胸は無いにも等しいだろう。


 若干、混乱した伊吹は言い訳に舌を回す。

 途中でおかしなことを言っていると気付いても、舌は止まらない。


「剣道も胸も、大小で優劣は決まらないわ。

 私は私よりも大きな人にだって勝ったし、

 逆に、私より小さな人に苦戦したこともあったわ。

 それに、アイさんはまだ幼いから視野が狭くて、

 実際のものよりも小さく見えている可能性が高い。

 さらに言うなら、貴方には難しいかもしれないけど、

 私の胸が小さいのは、お薬のせいなの」


 伊吹は、胸の成長が止まっているのは、

 臓器移植後のステロイド剤投与による副作用だと半ば信じている。


 ステロイド剤には様々な副作用がある。

 顔が腫れたり、疲れやすくなったり、身体の成長が止まったりする。


 そう。

 伊吹は、副作用で胸の成長が止まったのだと、

 自らを言い聞かせている。


 手術前から胸が平坦だったのは気のせいに違いない。


 さらに、亡き母の写真を見ると、

 自分と同じようなスレンダーな体型をしているが、気にしない。


 中学の頃は同じような体型だった友人が、

 最近、明らかに女性らしい体つきになってきていることも、

 伊吹は気付いているが、気付いていないフリをしている。


「むう」


 アイが目を細めて唸った。


 絵本の間違い探しで答えを見つけられずに、

 本当に間違っている箇所があるのか疑いだすときの目つきだ。


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