グール・サンクチュアリ

和団子

前編

「XXさん、今日も休んだんだってさ」

「1週間くらい来てないんじゃない?」

「もっとだよ。きっと魔女に連れ去られたんだよ」


 山際が夕映えて、ヘッドライトを点ける車が増えてきた。だだっ広い水田を両断する単線の電車路。あぜ道に拵えた小さな踏切が、リンリンと錆びれた音を鳴らす。電車を待つのは子連れの主婦と下校中の女子生徒が数人。牧野ヒロもその中の1人だった。彼女は放課後にクラスメイトから言われた言葉を頭の中で反芻はんすうしては、浮かない顔をしていた。


――ヒロって猫みたいだよね


 オレンジと黒の夕暮れ。地面に伸びる陰には心の隙間に入り込もうとする悪魔がいる。夏休みが明けても残暑は酷かった。湿った土と水田のぬるくて重たい臭いが、ヒロを余計に憂鬱にさせていた。

 10月上旬に控えた文化祭に向けて、彼女たちの学校はその準備に勤しんでいた。帰宅部であるヒロが夕暮れ時に帰路についているのもそのせいだ。


 電車が通り過ぎていった。他の生徒たちに続いてヒロも踏切を渡る。畦道を抜けると、山肌を切った住宅街がある。とは言っても新築が所狭しに並ぶニュータウンではなく、築何十年もの古屋が、まるで頬に出来たニキビのようにポツリポツリと点在するだけ。それぞれの庭も広く、小道との境界線も曖昧だった。電灯も少ない。

 牧野家はこの住宅街のはずれにあった。坂道を登り、遊具のない公園を通り過ぎた先ーー間もなく帰宅というところで、ヒロは足を止めた。


 はてな? ところにお店なんてあったかしら?


 それは小さな喫茶店だった。

 毎週末に大人たちが宴会するだけの寄合所の陰に隠れるように佇むそれを、どうして今まで気が付かなかったのか、と。

 立て掛けの看板には「コーヒー¥500」と「クラブハウスサンド¥700」とだけ書いてある。名前は無かった。中の様子は見えないが、木造扉に嵌めてあるステンドグラスからは橙色の灯りが僅かに溢れていた。


 ヒロは無意識にその扉を開けていた。中はボックス席が2つとカウンターだけで、店主も客も誰もいなかった。だが、妙な視線を感じる。それは壁棚にずらりと飾っている西洋人形パペットのせいだろう、と彼女は思った。金髪、白髪、赤髪に、青や緑の瞳。それぞれが個性を持っていたが、どの人形もすべからく笑みを浮かべていた。まるで異世界だった。ヒロは、この田舎の辺鄙な町から御伽話の世界に瞬間移動した気持ちになった。アンティークテーブルも天井に吊ってある照明も、飾られている人形1体1体のどれもが瀟洒しょうしゃで魔法が宿っているようだった。


「いらっしゃいまし」


 ヒロは思わず「ひゃっ!」と声をあげた。カウンターの中には老婆が立っていた。いつの間に? 足音も無かった。

 背筋はしゃんと伸び、艶のある長いグレーヘアーをみつ編みにして纏めていた。少し堀の深い両眼には品の良さも感じられる。


「驚かせてしまったかい?」


 ヒロ自身の母親と同じくらいの年齢にも見えるのだけれど、だと思ったのは、そのしゃがれた声のせいだった。


 

 容姿には似合わない、まるで魔女のようなその声に誘われて、ヒロはカウンター席の真ん中に座った。帰ってしまおうとも考えたけれど、老婆と飾られた人形たちの視線から逃れられずに、好きでもないコーヒーを注文した。程なくして湯気の立つカップが置かれる。綺麗な白色の陶器のマグカップ。取手を持つと少しひんやりとしていた。ひと口に飲んでみて「やっぱりコーヒーは苦い」と、彼女は思った。


「失礼ですが、異国の血が入っているのでは?」


 カウンター越しに老婆は言った。ヒロはドキリとして、口に含んだコーヒーを思わず吐き出しそうになった。

 

「はい……実はお婆ちゃんがフランス人なんです」


 ヒロは恐る恐る打ち明けた。色白の肌にほんのりと青い瞳をした女子高生――牧野ヒロ。彼女は怖かった。きっと、この老婆も、他のみんなと同じようにすぐに目をるぞ、と思った。だが、老婆はほんのりと笑っただけだった。不気味な笑みだが、ヒロは少し心地が良かった。


「よかった……です」

「何が、でございますでしょうか?」

「ちょっと怖かったんです」

わたくしめが? それともこの店がでございます?」

「いえいえ! このお店はとっても素敵。ただ、私のお婆ちゃんがフランス人だと言うことが……です」

「はてな? それのどこが怖いというのかしら」


 今度はヒロも笑ってみせた。もう一度コーヒーを啜る。苦いのは変わりないが、ひと口目よりもずっと温かいと思った。


「昔からそうでした。私がフランス人のクオーターだと知ったり、私が何かをしようとする度にみんなは必要以上に目を輝かせるのです。それがプレッシャーで、みんなの期待に応えられる自信もなくて。確かに、私はクラスメイトたちと外見が違うかもしれない。でも、私はフランスにも行ったこともないし、言葉だって分からない。英語だって全然です」


 カウンターの奥、サイフォンの隣にある1体の西洋人形と目があった。ガラス製の目は青く、きれいなブロンドの髪はポニーテールをしている。その人形の隣にはまた別の人形が飾られていた。2体はえらく仲良しのように思えた。


「丁寧すぎるくらいな接し方もされます。私だって普通の日本人だし、普通の扱いをしてほしい」


 ヒロは店内をぐるりと見渡してみた。飾られた西洋人形たちはどれもこの店に馴染んでいて、受け入れられていた。まるで私たちの居場所はここなのよ、と満足そうに微笑んでいるみたいだった。


「クラスメイトからよく言われるんです。猫みたいだねって。でも、それは私の内気で根暗で、とっつきにくい性格のことを言っているんです」


――ヒロって猫みたいだよね


 老婆は銀のミルクポットをそっと置いてくれた。話の続きを優しく催促しているのだと、ヒロは思った。


「別に良いんです。無理に明るく振る舞うのが怖いんです。頑張って、勇気を出して何かをしてもきっと皆の期待を裏切っちゃう。それなら、最初から何もしなければ良い。それに猫だって嫌い」

「あら? 猫はお嫌いなのですか」

「はい。あの甘える声が苦手と言うか、頭がキーンと痛くなるんです。なんだか黒板を引っ掻くような嫌な音に聞こえちゃって。ほら、このあたりには野良猫も多いでしょう? 子どもの頃から猫を見かける度に耳を塞いで避けちゃうんです」

貴女あなたはまだまだ子どもですよ」


 そうですね、とヒロは笑った。ミルクが混じったコーヒーはようやく彼女の幼舌にも馴染んできた。


「でも、時々思うんです。私が猫みたいに可愛く愛想を振りまけたらなって」


 そうですか、と言って老婆はミルクポットを引き下げた。


「今でも十分に素敵ではございますが、ならば、まずは猫嫌いを治さなくては」


 なんて素敵なのかしら、とヒロは心の中で呟いた。不思議と心の雲も晴れた気持ちになった。心境を吐露したせいかもしれないが、彼女はこの店が気に入ったのだ。もちろん聞き上手な老婆の役目も大きい。そして、瀟洒で、可愛らしい西洋人形たちに囲まれた喫茶店。ここは異世界だ。野暮な田舎町から切り離された桃源郷オアシス。フランスのクオーターである自分のいるべき場所はこの店かもしれない、と彼女は思い始めていた。


「また来ても良いですか?」

「ええ、もちろんですとも」


 壁掛けの古時計が重たい音を鳴らした。7時を指している。そろそろ帰らなくては。


「いつでもお越しください」


 老婆は深々と頭を下げた。飾られた人形たちもヒロを見送っているようだった。



「ねぇ、C組は迷路にするんだって!」

「お化け屋敷が駄目なら迷路か……」

「どうしよ? このままだとお客さんが全部隣に行っちゃうよ」


 牧野ヒロの放課後は、今日も文化祭の準備で潰れていた。彼女たちD組はカフェをする予定だ。D組は当初、メイドや執事のコスプレもして「洋風の洒落た店」をコンセプトに立案したのだが、公序良俗に反すると学校側の圧政により、他のクラスほとんどの立案にも修正が入ったのだった。C組はお化け屋敷から迷路に、そしてD組は代替案もむなしく、洋風の洒落た店から「洋風の洒落た」がトルツメされた。おかげで、準備と言っても代わり映えのない色布をキリハリして内装を拵えるだけ。接客もクラスTシャツを着て行う。


 立案者の中にはフランスのクオーターであるヒロにメイド服を着せたいと強く主張する生徒もいた。ヒロもまんざらでは無かった。色白でほのかに青い目。衣装を着れば、自分も変われる気がした。皆の期待に応えることができれば、内気も無愛想も根暗も治って、外見に負けないほど明るい性格になれるかもしれない。

 しかし、立案の却下には安堵もしていた。メイド服には猫耳と尻尾が付いていたのだった。昔から彼女は猫が大の苦手なのだ。


「AAさんとBBさんいる?」


 担任教師が入ってきた。呼ばれた生徒は「はい」と言って教師に連れられて行く。


「XXさんのことだよね?」

「うん。今、先生たちがその子の友だちを呼びつけて事情聴取しているみたい」

「どこ行ったんだろうね、XXさん」

「きっと魔女に連れ去られたんだよ」

「はあ? なにそれ?」

「知らないの? 魔女の噂。可憐な少女を連れ去って改造しちゃうんだって」

「改造って……そんな訳ないでしょ? ねえ、ヒロはどう思う?」


「え?」突然の呼びかけにヒロは聞き返した「なんのこと?」

「XXさんのことだよ。何かの事件に巻き込まれちゃったのかな?」

「知らないよ。どっかで遊んでるだけじゃない?」


 学校では行方不明になったXXの話題で持ち切りだが、ヒロは心底興味が無かった。


「相変わらずクールだね、ヒロは」

「そう?」

「うん。……ねえ、帰りにみんなであのドーナッツ屋に行こうよ。カフェの参考にもなるし」


 他のクラスメイトたちが喜々に賛成と手を挙げる中で、ヒロだけが断った。


「私、この後行くところあるから」

「そっか、ヒロってやっぱり猫みたいに気まぐれだなぁ」


 やがて5時半の下校チャイムが鳴った。準備の片づけを終えてドーナッツ屋に向かうクラスメイトたちを尻目に、ヒロはひとりで教室を出た。

 向かうは例の喫茶店だ。昨日あの喫茶店に行って以来、ヒロの調子は良かった。クラスメイトたちの誘いを断っても不思議と心は晴れやかだ。今にもスキップしてしまいそうな気持ちだった。


 はやくあの喫茶店に行きたい。やっと見つけた私の居場所。


 こんな田舎町には似つかわしくない瀟洒な喫茶店。色々な表情をした西洋人形パペットたちが並ぶ店内に、しゃがれた声だがウィットに富んだ話をしてくれる老婆のマスター。その老婆こそ、おとぎ話に出てくる魔女のようだとヒロは思っていた。自分がクオーターだと受け入れてくれた。そして彼女自身も誇りに思えるようになっていた。


 その日から、文化祭の準備を終えて喫茶店に行くことがヒロの放課後の日課となった。日を重ねる毎に喫茶店のことを考える時間が増えた。授業中は黒板の板書ではなく、喫茶店に飾られた西洋人形パペットをノートに描いたり、今日は老婆とどんな話をしようかと想像したり。

 そして、今日もクラスメイトたちの誘いを断って、ヒロは喫茶店に来ていた。


「あなたには心の拠り所がありますか?」

 

 老婆が例のしゃがれた声でそう言った。


「心の拠り所?」

「ええ、不思議と気分が落ち着く場所です」


 老婆との会話は心地よい。クラスメイトとの会話とは違って自分自身も高尚な、洒落た人格になれる気がした。そんな魔力が老婆の言葉にはあった。


「気を付けないといけないのは、世間で言う心の拠り所は性善説に立った単なる狂言です。知っていますか? 人間には誰しもが心の中に悪魔がいるのですよ」

「悪魔?」

「ええ、人間は大昔は他の動物たちと同じように野生的な暮らしをしていました。そこから淘汰されないように武器を持ち、知恵を絞り、やがて理性が生まれました」


 ヒロはコーヒーをひと口啜った。綺麗な白い陶器のマグカップ。苦手だったコーヒーもすっかり彼女の舌に馴染んでいた。


「悪魔は野生です。誰かを殴ろうと思ったことはありますか? でも大抵の人間はそんな衝動は理性によって抑えてしまいます。人間は後天的に得たその理性によって悪魔を抑えているのですよ」


 そして、その悪魔が居心地が良いと思う場所こそが心の拠り所なのです。


「悪魔は常に人間たちに働きかけます。ですが、心の拠り所を見つけた悪魔はその居心地の良さに大人しくなる。理性で抑えなくても眠ってしまうのです」

「私にもそんな場所を見つけることができますか?」


 この喫茶店が心の拠り所なのでは? とヒロは考えていた。


「心の拠り所とは、なにも物理的な場所だけじゃなく、もっと心理的な、好きなことをする、想い人と過ごす時間だって、心の拠り所になり得るのですよ」

 たとえば、鬼ごっこが大好きな小学生の男の子が居たとします。


「登校するとすぐにグラウンドに出て仲間を集めて鬼ごっこをする。休み時間や放課後だって、逃げてる時も鬼として追いかけているときも、その男の子にとっては鬼ごっこをしている時が至福の時間なのです。それこそ何事にも代えがたい、心の悪魔も休まるほどの」

「なるほど……です」

「悪魔だの鬼だの、ややこしくなりましたが、心の拠り所とはそういうものだと私は考えているのです」


 やっぱりこの喫茶店で聞く老婆の話は面白い。ヒロはゆっくりと残りのコーヒーを飲み干した。きっと私の心の拠り所はなのだろう。喫茶店にはいつもヒロひとりだけ。それも心地が良かった。まさに自分だけの、秘密の心の拠り所。いや、一人ぼっちなんかじゃない。ここにはたくさんの西洋人形たちがいるではないか。どれも個性的で可愛らしく微笑んでいる。この店が人形屋敷ドールハウスで、自分自身も人形の1体になったみたい。


 ヒロの部屋の壁には西洋人形の絵が日に日に増えていった。授業中に描いたものだ。喫茶店を模倣して彼女の理想郷が広がっていく。

 小学生ぶりにタンスの奥から引っ張り出したクレヨンも底が付いた。自分の小遣いと貯金で一生では到底使い切れないほどのクレヨンを買い足した。それで良いと思った。本当に自分の心に悪魔が居て、そいつが心地よいと思えるのであればどんな贅沢もいとわない。

 部屋に飾られた人形の絵は1枚いち枚違った顔をしていた。しかし、そのどれもは優しく微笑んでいた。


 そのように、すっかりこの喫茶店が中心となった日常を謳歌していたある日のこと。今日も文化祭の準備を終えていつものように喫茶店の扉を開けると、店中には珍しく先客がいた。

 クラウンが長い紫のハットを深々と被った老人。店のひとり主である老婆より背は低い。老人は小さな木箱を老婆へ渡してやった。受け取り、その中から取り出されたのは1体の西洋人形だった。


 ヒロはぎょっとした。身震いをした。その人形はヒロが苦手な猫がモチーフになっていたからだ。グレーの毛むくじゃらな顔にはヒゲが生え、頭には三角の猫耳、そしてガラス製の大きな鋭い目。いまにも「にゃあ」と不協和音な声で鳴き出しそうにだった。


「いらっしゃいまし」


 ヒロの来客に気が付いた老婆がしゃがれた声で挨拶した。ヒロはいつものカウンターに座る。シルクハットの老人はいつの間にかおいとましたようで、店内にはすでに居なかった。

 その猫の人形は、奥のボックス席の上の棚、ちょうど彼女の特等席でもあるカウンターの真後ろに飾られた。見られている――背後に視線を感じる。それは他の西洋人形のあたかな視線とは一線を画す、居心地の悪い視線。この日、ヒロはずっとそわそわしていた。たった1体の猫の人形のせいで、彼女の聖域サンクチュアリむしばまれ、汚された。彼女の心に潜む悪魔が目を開けて、静かにあくびをした。

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