29話 ハンガリアンウォーター

「ザールさん、お待たせしました」

「おや、ずいぶんかかったんですね」

「ええ……なんかちょっと絡まれちゃいまして」


 私がそう言うと、ザールさんの顔がさっと曇った。


「もしかして……マーガレット嬢ですか」

「……はい」


 どれだけの事をやらかしたのだ、彼女は。


「ここを占拠された時……私、油断していたらぐるぐる巻きに縛られてそこに放置されて……許せません……兵士達にそれからずっとからかわれるし」


 ザールさんの目に暗い炎が浮かぶ。


「この薬棚の薬品の順番もめちゃくちゃにして……あんな事は二度とごめんです」


 ふっとため息を吐いて、ザールさんは当時の惨状を思い出しているようだった。


「ま、無視でいいですよ。それが一番です」

「はい、そうします」


 私個人への攻撃だったらまだしも騎士団が彼女を迷惑に思っているのなら、むやみやたらに刺激したくない。私はそう思ってザールさんの言葉に頷いた。その時は、それが最善の策だと思っていたのだが……。


「なに……これ……」


 次の朝。出勤した私は目を疑った。救護棟の窓硝子が割られ、中の硝子や陶器の器や機材が床にぶちまけられていたのだ。それらは派手に割れて床に散らばっていた。


「ザールさん……」

「あ、真白さん。危ないから外に出ていて下さい」

「そんな訳にはいきませんよ」


 私もしゃがみこんで硝子の欠片を拾いはじめた。まったく……こんな事をするのは……もしかして……。

 

「……真白さん、応急救護室は私が片付けますからね」

「そっちもやられてるんですか?」


 私が立ち上がってそっちに行こうとするとザールさんが慌てて私の手を掴んだ。


「いけません!」

「……どうしたんですかザールさん」

「女性はあまり見てはいけないと」

「……失礼します」


 真剣な顔で止めてくるザールさんの手を振りほどいて、私は隣の部屋に入った。


『売女! 魔女!』


 私の目に飛び込んできたのは壁いっぱいに書かれたそんな罵り言葉だった。これは私の事かな。


「だから言ったのに……真白さん……」


 ザールさんが後ろからふわっと労るように私の肩に手を置いた。


「ひどい……」

「すぐに塗りつぶさせますから……泣かないで……真白さん……」

「ザールさん……」


 私は肩の上のザールさんの手を掴んで振り返った。


「私、泣くと思いました?」

「……ん?」

「これマーガレットの仕業ですよね?」

「ええ……おそらく……でもとぼけられたら侯爵令嬢という立場もあってそれまでかと」

「ふーん……」


 私はむかむかする気持ちを抑えながら鞄を手にした。そしてそこから辞典を引き抜く。


「証拠はないけど、状況としては犯人はあの人で間違いないと」

「そうですね……」

「ザールさん、私……人の親切には親切を返します」

「真白さんはそうですよね」

「で、喧嘩を売られたら……私はきっちり買う方です」

「ええ!?」


 ザールさんはビックリした顔をしている。ふふふ、成人前からバイトや事務職の職場関係で散々揉まれたもの。いちいちめそめそなんてしてたら仕事にならない。


「ど、どうするつもりなんですか?」

「ええ、まあかわいい仕返しですよ」


 私は辞典を開いた。そしてあるものを思い浮かべた。


「お願い、『ハンガリアンウォーター』を出して」


 辞典が輝き、光がおさまる。その後には一つの瓶が残されていた。


「これは……?」

「あとで説明します。じゃあちょっとこれを使ってくるので、お片付けはあとで手伝いますね」


 私はその瓶を抱えて王宮の方に向かった。どこにいるんだろう……ってすごく分かりやすい所にいた。


「どうも、マーガレットさん」

「ひゃっ!?」


 騎士団の教練場のはしの植え込みからこちらを窺っているマーガレットとその取り巻きを見つけた私はにこやかに声をかけた。彼女は随分驚いたようで尻餅をつきそうになった。


「な、な……」


 何を考えて居るのかって言いたいのかしら。怒ってるわよもちろん。


「マーガレットさん、素敵なご挨拶をありがとう。これ、お近づきの印にご用意しましたので、受け取ってください」

「何……これ……」


 私は彼女に瓶を差し出した。


「これは『ハンガリアンウォーター』美容と健康に良い、若返りの水と言われています。皮膚に塗ってもいいし、髪の手入れに使ってもいいし、飲んでも効果があります」

「そんなもの……毒でしょうどうせ……」

「そう思うのはそちらの勝手ですけど……そう、こんな逸話があります。ある国の王妃様は体調が思わしくなくてこの水を使ったところみるみる若返り、70代で20代の王子にプロポーズされたとか……」

「う、うそ……」

「使ってみれば分かるんじゃないですかね」


 チラチラと瓶を見ているマーガレットに私はすまして答えた。


「もしマーガレットさんが要らないのなら。あ、あなたこれ要りませんか? お肌がつるつる。吹き出物も治ります」

「えっ、えっ、えっ」


 私は取り巻きの一人に瓶を手渡そうとした。それをマーガレットは奪い取った。


「ふん! せっかくだから貰っておくわ! 行きましょうみなさん!」


 そうして瓶を抱えて彼女は去っていった。


「お待たせです、ザールさん」

「あれ、何だったんですか?」

「それはね……」


 私は簡単にハンガリアンウォーターの説明をした。ハンガリアンウォーターはローズマリーを中心に水とアルコールにつけたものだ。逸話も広告の為とか言われているけど本当。


「ただの親切じゃないですか」

「でも自分がいじわるした相手から物をもらったら気持ち悪くないですか?」

「確かに……」


 せいぜい毒だと疑ってモンモンしたらいいと思う。そして……誘惑に勝てずにその蓋を開けてしまったら……。


 そうして一週間が経った頃。私とザールさんが食後のお茶をしていると外からブライアンさんの怒鳴り声が聞こえた。


「こらー! お前は出入禁止だって言っただろうが!」


 その直後に救護棟の扉が開かれた。


「あら、マーガレットさん」

「……あの、わたくし……」


 その肌は陶器のように滑らか、髪は真珠の輝き……。どうやらハンガリーウォーターを使ったらしい。


「あなた……」

「私は真白です」

「真白様! どうか、この間の奇跡の水をわたくしめにゆずって下さいまし! いくらでも払いますから」

「あらあら……」


 私は内心にっこりしながら、どうしようかという素振りを見せた。


「いいですけど、もう騎士団の迷惑になるような事はやめてくださいね?」

「はいっ! はいい!」


 何度も頷くマーガレット嬢。やれやれ、これで再び平和が訪れそうである。

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