第15話

 看護活動37日目。


 レイは発熱の回数も増え、逆に体重、血中の赤血球、白血球、血小板のいずれの量も低下を続けている。

 投薬の量も増え、めまいを訴えることも多くなった。

 だが、これらの数値が増加したにも関わらず、レイの活動時間は増加した。

 点滴の時間も含め、レイはある目的のために調査と学習、調整と練習を繰り返し行った。私はレイの命令に従いこの件に関する一切の事項をナースステーションに報告せず秘匿した。活動内容はレイの病状とは無関係であるため、レイの命令は有効だったからである。


 本日の13時17分、レイはこれまで秘密にしていた計画をナースステーションに報告した。

 報告を受けたのは林看護師だった。林看護師は、自分では許可できないと、山中副主任と清水婦長に連絡し、清水婦長から担当医の関口ドクターへ報告が上がった。

 固定端末のモニターを介して、レイはドクターと婦長を相手に話し合いを続けた。

 時間は15分だから身体に負担はたいしてかからないとレイは主張したが、ドクターも看護師もレイの話に反対を表明していた。だが、レイの「もうすぐ歌えなくなるから」の一言で、最終的にドクターは許可を出した。


 現在は20時24分。夕食も終了し消灯を待つだけの時間である。

 通常ならこの時間のナースステーションは静かだが、今日は賑やかだ。看護師やドクターの数が多い。

伊上いがみさん、今日はクリスマスイブで日勤でしょ? いつも定時にダッシュで病院飛び出すあなたにしては珍しいわね」

「うっさいわね、あんただってイブの夜なのに1人じゃないの! 残業代寄越せとか言ってないんだからほっといてよ」

「はいはい、みんな騒がない。せっかくの『新城黎しんじょうはじめ単独コンサート』だよ。こんなプラチナチケット、最高のクリスマスプレゼントなんだから、大人しくしようね」


 今日は12月24日、クリスマスイブと呼ばれる日だ。レイは12月31日に計画を実行したかったのだが、その日に病院にいるドクターと看護師の数が少ない事がわかり、クリスマスイブに実行することにしたのだ。


 レイが無菌室内で第九を歌う。それをモニターでナースステーションに向けて披露する。この報せは瞬く間に病院内に広まり、内科だけでなく外科病棟の看護師までがモニター前に集まった。モニターは既にナースステーションと繋がっており、私服制服入り混じった姿がモニター前に映っている。


「マリア、ちょっと緊張するね」

 レイは言った。脈拍は110と高い数値だ。「声変わりしたからテノールも出せるようになったけど、これが初めてだからさ」

「3分前になりました」私は言った。

「うん、頑張るね、マリア」

 そう笑顔で告げたレイは、直立して私に背を向け、モニター前に向き直って一礼した。


 モニターから拍手がおこる。


「今日は僕のわがままをきいてくれてありがとうございます」

 レイの挨拶で拍手のボリュームが更に上がる。

「日頃お世話になっている皆さんに、小さなプレゼントですが、ベートーベン作曲の『歓喜の歌』を歌います。第4楽章だけですけど……では、はじめます」

 レイは携帯端末を操作して、音楽を流した。「歓喜の歌」第4楽章の演奏のみが流れ出す。ティンパニーとホルンが音量高く響き、固定端末モニターの向こうのナースステーションからは溜息に似た小さな驚きの声が聞こえてくる。


 レイの脈拍が急速に85まで低下した。


 O Freunde, nicht diese Töne!

 sondern laßt uns angenehmere anstimmen, und freudenvollere.


 レイの独唱が始まった。ナースステーションから歓声が上がる。普段の声よりかなり落とした声で歌うレイ。


 Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium,


「すごい……なんて声量……」山中看護副主任の漏らした小さな声がマイクを伝わって届く。


 Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum!


 レイの独唱が80秒続く。ナースステーションのどよめきが大きくなる。


 Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt

 Alle Menschen werden Brüder, Wo dein sanfter Flügel weilt.


 復唱部分に入った。

 壁際の所定位置に座っていた私は立ち上がり、レイの左隣に立つ。モニターの向こうの看護師たちの目と口が丸く開く。


 Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt

 Alle Menschen werden Brüder, Wo dein sanfter Flügel weilt.


 レイは女性ボーカルソフトをダウンロードして、1カ月以上かけて私のハード用にカスタマイズし、私に「歓喜の歌」の女性パートを歌わせる設定と調整を行っていたのだ。


 モニターの向こうには、口を大きく開けたまま、驚愕の表情で固まっているシステム管理者の坂上ドクターの姿が見える。興奮した表情でこちらを指差している伊上看護師の姿が見える。指先で涙を拭う山中看護副主任の姿が見える。


 レイは私のパートの時には私を見ながら歌い、そして固定端末のカメラに向き直り自分のパートを歌う。レイがドイツ語発音を歌詞用の発音に修正し、歌詞を楽譜に沿わせ抑揚とリズムを何度も何度も微調整をかけた成果を、私は正確に再生した。


 15分かけ、レイと私は「歓喜の歌」を歌い終わった。終了と同時に、ナースステーションからは爆発的な拍手が湧き上がった。


「こりゃ凄いもの見てしまった」

「ちょっと! ちゃんと記録撮ってるんでしょうね!」

「もちろんですよ!」

「私今日夜勤でよかったー!」

 ナースステーションの騒ぎは止まらない。


 関口ドクターが席から立ち上がってカメラの前に来てレイに語りかける。

「ありがとう、実に素晴らしかった。でも心肺にかなり負担がかかったはずだから、今日はすぐに休むように」

「わかりましたドクター。僕のわがままを聞いてくれてありがとうございます」

「いや、礼を言うのはこっちの方だ。素晴らしいプレゼントだった」


 誰かが大きな声で「メリークリスマス!」と叫んだ。それを合図のようにナースステーションの誰もが「メリークリスマス!」と叫ぶ。レイも同様に「メリークリスマス!」と叫んだ。


 この日の夜は、レイが迎えた最後のクリスマスイブとなった。

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