非日常的な鈴木
「ちょっと……なにニヤけてんのよ」
言われて、鈴木は我に返った。無意識に頬が緩んでいたようだ。ごまかそうとしたのか、引き締めようとしたのかは分からないが、鈴木はぺんぺんと頬を叩いていた。
「なんでもないです、はい!」
砺波は怪しむようにジト目で鈴木を睨みつけて、ため息を漏らす。
「気味悪いわね」
「き、きみ……」
「ほんっと、変わった奴」と、砺波はぷっと吹き出した。「気弱な奴かと思いきや、わたしに怒鳴りつけるし。わたしに歯向かう男なんてそうそういないのよ」
鈴木はぎくりとして、とっさに頭を下げる。
「そ、その節は、すみませんでし……」
「度胸あんじゃない。見た目に似合わず」
「え――」
鈴木は弾かれたように顔を上げた。
「あの馬鹿が気に入るわけだ」
「……は?」
砺波は呆れたように微笑んでから、くるりと身を翻す。ふわりと髪が揺れ、甘い香りが辺りに漂った。
「それじゃ、借りは返したってことで」こちらに背を向けたまま、砺波はひらひら手を振り歩き出した。「ちなみに、曽良は屋上で隠れてるから。第二ボタンでも上履きでも奪いとって売りさばけば」
「屋上……?」
「卒業おめでと」
卒業……その言葉に、鈴木の全身が強張った。
――いや、まだだ。このままじゃ、卒業なんてできない。
遠ざかる砺波の背を前に、千円を握り締める拳が震え出す。
ずっと平均的だった。山もなく、谷もなく、平坦な日々だった。いつまでも『田中』と呼ばれ、誰の目にも留まらない。誰にも気づいてもらえない。自分の居場所は、通りすがる人々の視界の隅。それが嫌だった。それを変えたかった。
でも、何かしたわけでもない。『田中』に甘んじていた。どうせ、自分は平均的なんだ、と諦めていた。
そんな日々を終わりにしたかった。卒業したい、と心から思った。
だから……だから――。
――度胸あんじゃない。見た目に似合わず。
鈴木はかっと目を見開いた。
「藤本すゎん!」
鈴木の裏返った声が校舎裏に響く。
砺波が振り返るのを確認することもなく、鈴木はぐっと瞼を閉じ、顎がはずれそうなほど口を大きく開いた。
「僕、藤本さんのこと、好きでしたぁ!」
* * *
屋上はがらんと静まり返っていた。卒業式を前に浮き足立つ生徒たちの声も熱気もここまでは届いてこない。
鈴木は澄み渡る青空を振り仰ぎ、深く息を吸う。ほんの少し冬の名残のある冷たい空気が器官を通っていくのを感じた。
春の朝は、こんなにも清々しく穏やかなものだったのか。鈴木はゆっくりと動いていく白い雲を見上げて、微笑していた。
「やあ、殿」
どこからともなく、そんな暢気な声が落ちてくる。
「気分はどう?」
鈴木は大きく息をつき、階段室に振り返る。
「おはよう、藤本くん」
階段室の上からちょこんとはみ出た足がぶらぶらと揺れている。寝転がっているようだ。相変わらず、暢気なものだ。能天気というか、たくましいというか。鈴木は失笑していた。
ここまで来る途中、曽良を捜して走り回る女子生徒たちを何人も見かけた。もはや、暴動さながらの発狂ぶり。どの女子も、曽良くんはどこよ、と目を血走らせていた。
「大変ですね、卒業式に」
からかうように問いかけると、クスリと笑う曽良の声が聞こえた。
「砺波が助けてくれてなかったら、身包み剥がされてたよぉ」
「冗談に聞こえませんね」
「冗談にならないから、困ってるんだよ」
階段室の上で人影がむくりと起き上がる。すっくと立ち上がり、やがてそれは眩い太陽の光を遮った。
「で? どうだった?」
白くかすむ視界の中で、まるで全てを見透かしているかのような落ち着いた笑みが見えた。
やはり不思議な人だ、と鈴木は改めて実感していた。照れるとか、驚くとか、そんなことさえ、彼の前では無意味に思えてしまう。両手を挙げて降参するしかない――そんな気分にさせられる。でも、決して不快ではない。
鈴木はふっと穏やかに微笑んだ。
「フラれました」
すると、曽良は「そう」とだけ言って微笑んだ。
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