非日常的な呼び出し

 うららかな春の朝。桃色の花びらが舞う校庭で、春風が生徒たちと戯れている。少女たちの黒髪を撫で、スカートをひらりとめくり、「よくやった」とにやける少年たちとハイタッチ。

 頬杖をついてそれを見下ろし、鈴木は穏やかな笑みを浮かべていた。

 ああ、セーラー服っていいなぁ――そんな心情が表情から滲み出ている。

 しかし、その眼差しにはどこか哀愁が漂っていた。まるで明日にでも遠くへ旅立つかのようだ。

 それもそのはず。彼にとって、こういった「うふふ、あはは」な光景は見納めなのだから。期限は明後日に迫った卒業式まで。眺めているだけで頭の中にお花畑が広がるような景色とは、この校舎とともにお別れだ。

 そう、この春、鈴木が向かうのは、お花畑とは無縁の土地。もはや雑草さえも芽生えない永久凍土、男子校。それも、この辺一帯で『不良の巣窟』と悪名高い青春の墓場。バラ色の日々なんて望めやしない。いや、もしかしたら、ラグビー部にでも入部すれば、コーチと熱くぶつかりあいながらも、奇跡的に全国大会に出場して、最後は夕陽の前でチームメイトと泣きながら円陣を組む――なんていう青春を味わうことができるかもしれない。ある意味、『花園』へは行けるが、バラ色ではないだろう。

 だからこそ……だからこそ、鈴木は中学校生活をこのまま終わらせるわけにはいかないのだ。これからツンドラ地帯に向かうというのに、心の中が冷え切ったままでは凍りついてしまう。何か、思い出の平均越えをしなくては。永久凍土の中、抱きしめていられる、心のホッカイロを手に入れなくては。

 となると、やはり――。


「!」


 校庭を見下ろしていた鈴木の目が見開いた。  

 決意を新たにする鈴木に天が応えたのだろうか。その瞳に映りこんだのは、一人の少女だった。桜の花びらに祝福されながら校門をくぐり、スカートをなびかせて校庭へと入ってくる。


 まさに春の妖精。


 彼女の登場に春風までが騒ぎ立て、舞えよ踊れよ、と花びらに囃し立てている。

 そっとウェーブがかった黒髪を手で押さえ、眩しそうに空を振り仰ぐ。その仕草の、なんと優雅なこと。「おはよう」と振りまく愛くるしい笑顔は、辺りの花を一斉に咲き誇らせてしまいそうだ。

 彼女が現れると、景色が一瞬で煌びやかになる。――少なくとも、鈴木にはそう思えた。

 ここが平安時代だったなら、今、この瞬間、いったい何人の男子生徒が和歌を詠んでいただろうか。

 藤本砺波――この学校のアイドルにして、鈴木の想い人。

 鈴木が彼女に想いを寄せるようになってはや二年。鈴木が彼女と会話を交わしたのは一度だけ。それが出会ったきっかけでもあるのだが。そのときの、彼女の透き通るような麗しい声は未だにはっきりと鼓膜に残っている。


 ――お金貸して。


 鈴木は瞼を閉じて、追憶の海に沈んでいった。奥へ奥へと潜っていくと、その海底には夢のような時間が流れる竜宮城。そこで鈴木を迎えるのは、天使のような笑顔を浮かべる乙姫――砺波。

 願わくば、もう一度。もう一度だけでいい。あの笑顔を目の前で見たい。たった一言でもいい。彼女と言葉を交わしたい。自分の存在だけでも知ってもらいたい。たとえ、世界中の皆が自分を『田中』と呼んでも、彼女さえ『鈴木』に気づいてくれれば……。せめて、それだけでもいい。それさえ叶えば、この平均的だった中学校生活に区切りをつけられる気がした。真に『卒業』できる気がした。

 そうだ、と意気込み、鈴木は拳を握り締めた。


「卒業するんだ……!」


 かっと瞼を開き、決意を胸に威勢良く立ち上がった――そのときだった。


「田中!」


 突然、耳元で叫ばれ、鈴木はがくんとバランスを崩した。せっかく、勢いをつけたというのに、出鼻をくじかれてしまった。

 不機嫌そうに眉をひそめて振り返り、


「だから、僕は鈴木――」


 春色に染まっていたはずの顔が一気に青ざめ、たらりと汗が頬をつたった。

 なんということだろう。竜宮城から戻ると、現実は様変わりしていたのだった。

 辺りは恐ろしいほど静まり返り、目の前には二人の不良。ひょろりと細身のモヒカン頭と、やや端整な顔立ちをしたロン毛の二人組。見覚えがあった。


「よう、田中。ちょっと顔貸せやぁ」

「昨日の礼がしたくてよ」


 昨日の礼――間違いない。彼らはあの純情ラガーマン・よっちゃんの不良仲間だ。昨日の放課後、よっちゃんと一緒に、あの『がっかりイケメン』こと藤本曽良をカツアゲ(第三ボタンを)しようとしていたラガーマンたちだ。

 田中……いや、鈴木は顔面蒼白で硬直した。――なんてこった。僕、また……いや、まだ巻きこまれてる。

 鈴木の脳裏を藤本曽良がスキップで通り過ぎていった。

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