平均的なトライ

 コロコロと足元に転がってきたものに先に気づいたのは、恵理だった。


「あら」としゃがみこみ、恵理は不思議そうにそれを拾い上げる。「これ……ボタン?」


 そのボタンに見覚えがあったのだろう、よっちゃんはハッとして自分の学ランを見下ろした。そして、「あ!」と驚きの声をあげる。気づいたようだ。――第二ボタンが消えていることに。


「それ、俺のみたいだ」

「よっちゃんの?」

「いつ、取れたんだ?」


 恵理は安堵したように微笑むと、立ち上がってよっちゃんにボタンを差し出した。


「気づいてよかったね」

「お、おう」


 よっちゃんはどぎまぎとしながらも、ボタンを受け取ろうと腕を伸ばした――のだが、突然、その手はぴたりと止まった。電池でもきれたのだろうか、と思ってしまうほど、いきなりだった。

 ボタンの上でホバリング。ぷるぷると震えるだけで動かない。ボタンに触れたいのか、触れたくないのか。 


「よ……よっちゃん?」


 恵理の清楚な顔があからさまに歪む。

 彼女の前には、憤怒の表情を浮かべて口を引き結ぶ吽形像がいたのだ。ゆげでも噴き出さんばかりに顔は赤く染まり、ボタンを睨みつける目は血走っている。このまま、こめかみの血管が切れるんじゃないか、と心配になるほどの険しい表情だ。


「ど、どうかした?」


 動揺もあらわに、恵理は及び腰で訊ねた。――すると、吽形像の口がくわっと開き、


「いらねぇよ! もう卒業だしな。別にボタン一つなくたってかまわねぇからよ!」

「え、でも……」

「いらねぇって!」よっちゃんはふいっと恵理から顔をそらす。「お、お前……お前、捨てといてくれよ! 俺、別に第二ボタンとかなくてもいいしよ。第二ボタンとか、中途半端でかっこわりぃし。男はやっぱ一番を目指すべきだからよ、第二ボタンとか、なんなのー? て感じだしよ」

「第二……ボタン?」


 恵理は持っているボタンに視線を落とした。そこに刻まれているのは、春の門出を象徴する桜の花と、『中』という文字。

 恵理の唇から、ふっと笑みがこぼれた。


「分かった」恵理は大切そうにボタンをぎゅっと胸に抱きしめる。この三年間、よっちゃんの心臓の鼓動を聞き続けたボタンを。「ありがとう」

「べ、別に、お礼とか……俺、ラガーマンだし、第二ボタンとかいらねぇっつうか」


 よっちゃんは相変わらず恵理から顔をそらしたまま、頭をかいた。


「うん、そうだね」


 恵理は嬉しそうにくすくすと笑っていた。


 その様子を茂みの中からのぞいていた二人は、


「なんか……むしょうにかゆいんですけど、体中」

「蚊のでる季節はまだなのにねぇ」


 鈴木は首筋をかきむしり、その隣で曽良は涼しい表情を浮かべていた。


「で、どういうことですか?」


 鈴木は責めるような視線を曽良に向ける。


「なにが?」

「なにが、じゃないですよ。この妙に古めかしい青春ドラマですよ!」


 びしっと鈴木は茂みの向こう、できたてほやほやのカップルがいる公園を指差した。


「いったい、どーなってるんです? 坂本さんはあなたのこと、好きだったんじゃないんですか!? なんでいきなり、イケメンからリーゼントに路線変更してるんです? 春のせいですか? 春の陽気にやられたんですか?」


 ははは、と曽良は子どもをからかうように笑った。


「えりちんがいつ、俺のことを好きだなんて言ったのサ?」

「それは……」


 たしかに、恵理本人から聞いたわけではない。しかし――、


「ミサンガ! 坂本さんにミサンガもらったんでしょう? よっちゃんさんが見たって……」


 すると、曽良は「ミサンガねぇ」と公園のほうへちらりと視線をずらした。それからくいっとあごをしゃくる。見てみなよ、と言いたげだ。

 鈴木は――気が進まなかったが――促されるままに、曽良の視線の先に目をやった。そして、「あ」と驚きの声をあげる。

 ちょっと目を離したすきに、古めかしい青春ドラマは、さらに己の道を突き進んでいた。

 セーラー服の少女が、リーゼントのラガーマンの右手首に何かを結びつけている。どうやら、赤とピンクの糸で結われた輪っかのようだが……。


「あ、ミサンガ……!?」

「好きな人の手首の太さが分からない、て言うから、俺がサンプルになってあげただけだよ。そこをちょうど目撃されてたんだねぇ。悪いことしちゃったな」

「サンプル?」


 鈴木は瞠目して曽良に振り返る。


「休み時間、いつもラグビーの本を読んでたんだ。女の子なのに珍しいと思ってたんだよね」


 いきなり真面目な声色で語りだした曽良。茂みの向こう、に照らされる初々しいカップルを見守る眼差しは、温かみに満ちている。


「話しかけたらいろいろ相談されてね。ミサンガの件もそう。まあ、相手が誰か、までは教えてくれなかったんだけど……きっと彼だろうな、て例の一件で思ってさ」

「例の一件って……」


 鈴木は、ぼんやりと昨日の『第三ボタンかつあげ事件』を思い出す。

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