平均的な保健室

 あ、そうか。僕のことか。って、誰が田中だ。僕は鈴木だ! ――心の中でそう怒鳴り、目を開いたときにはベッドで横になっていた。

 薄暗い天井に、つんと鼻腔を刺激する医薬品の匂い。視界の端で、真っ白いカーテンがゆらゆらと揺れている。ここが保健室であることを理解するのに時間はかからなかった。

 どこからか、号令のようなものが聞こえてくる。続くホイッスル。運動場で体育でもしているのだろう。ということは、授業は始まっている。何時間目なんだろう。いや、その前に何が起きたのだろうか。鈴木は思い出そうとするが、誰かの怒鳴り声しか覚えていない。そのあと、目の前が真っ暗になって、気づいたらここにいたのだ。


「英語の辞書でドッジボールのまねごとしてたらしいよ。しかも、室内で。それが君の頭にクリーンヒット! 軽い脳しんとうだってさ」

「あぁ……なるほど」


 そういうことか。確かに、クラスの不良連中がよく辞書を投げて遊んでいた。それに巻き込まれたんだな。鈴木は大きなため息をもらす。――と、ちょっと待て。鈴木はぎょっとして飛び起きた。そして、誰だ? と振り返り、ハッと息を呑む。


「やっ。お隣さん」


 隣のベッドに彼はいた。ベッドの上であぐらをかき、満面の笑みを浮かべてこちらを見ている。

 病人を気にしてか、電気が全て消された薄暗い教室で、天井とカーテンレールのすきまから注ぎ込む太陽光が彼の端整な顔立ちに淡い影を落としていた。 

 男までもがごくりと生唾を飲んでしまう美しい容姿。異国の血を感じさせる彫りの深い顔立ちは、着ている学ランに違和感を覚えてしまうほど。女性もうらやむほどの白い肌に愛嬌のある大きな瞳。そして、特に特徴的なのは、にこりと微笑むそのアヒル口。

 鈴木の体に緊張が絡みついた。

 この学校で彼を知らない人間はいない。その噂は他校にまで知れ渡り、見慣れない制服を着た女子生徒が彼を覗きに来るくらいだ。


「藤本……曽良そら


 鈴木は無意識にその名を唱えていた。

 想い人、藤本砺波と同じ苗字の少年。見た目も成績も、全てが人並み以上と噂される、鈴木にとっては雲の上のような存在。まさか、こうして言葉を交わす日が来ようとは思ってもいなかった。


「初めまして、だよね」と、藤本曽良はアヒル口をにぱっと開く。「名前は?」

「鈴木……です」


 戸惑いつつも――同い年に敬語をつかってしまうほどに――答えると、曽良は「うーん」と天井を振り仰いで何かを考え始めた。


「あの……なにか?」


 考えこむようなことがあるだろうか。鈴木なんていたって普通の名前じゃないか。鈴木が小首を傾げていると、「よし!」といきなり曽良は右拳を左手の平に打ちつけた。


「キング、にしよう」

「へ? キング?」


 何のことか分からず、ぽかんとしていると、「そうそう」と曽良は楽しげに頷く。


「君のあだ名だよ」

「あだ名?」

「鈴木だから、すずキング!」

「な、なんですか、それ」

「嫌なら、すずきんた――」

「キングでいいです!」


 小学校時代の嫌な思い出がよみがえり、鈴木は必死になって曽良のよからぬ思いつきを阻止した。この学校で影響力のある彼に、すずきんた○なんてあだ名で呼ばれるようになったら、卒業間近のこの時期に中学生活が黒く塗りつぶされてしまう。

 それにしても、いきなりあだ名? よほど人懐っこい人物なんだろうか。

 いや、待てよ。そういえば――鈴木はハッとした。うっかり、忘れていた。この藤本曽良に関して、整った容姿のほかにも気になる噂があることを。

 鈴木はまじまじと曽良を見つめる。

 男の自分でさえ、色気を感じてしまうほどの美しさ。イケメンと説明するのがおこがましくさえ感じてしまう。だが、それ以外に一言で言い表せる言葉は思いつかない。それほど、彼はイケメンだ。

 しかし……。


「藤本くんはどうしたの?」


 おずおずと鈴木は訊ねた。


「なにが?」

「保健室にいるってことは……どこか体調が悪いんでしょう」

「ああ、そうそう」言って、曽良はだるそうに顔をゆがめて額をおさえた。「なんだか頭がぼうっとして、瞼が重いんだよね。あくびも止まらないし」

「……」


 それって、ただの眠気じゃ……。鈴木はそうつっこみたい気持ちをなんとか抑えた。そして、やはり、と心の中でつぶやく。

 鈴木はしょっちゅう、耳にしていたのだ。藤本曽良は相当の変わり者で、『がっかりイケメン』だ、という噂を。


「どうかした?」


 『がっかりイケメン』こと、藤本曽良はきょとんとして、そう訊ねてきた。

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