第5話 秋の夕暮れみたいな瞳

 冬の目覚めを感じさせるような冷たい風が吹いたその日、僕は朝からひどい頭痛に襲われていた。


 かき氷を一気に食べたときに感じるような頭痛が一定の間隔でずっと続いていく苦しさを想像してもらえれば、その時に僕が感じていた頭痛のひどさの一端は理解できると思う。


 学校を休むことを真剣に検討したけれど、結局僕は登校することにした。文化祭が翌日に迫っていたっていうのに、僕の担当する大道具の制作がまだ済んでいなかったのである。


 むろんそんなものは誰かに任せればいいと思うかもしれない。だけどそれは無理な話だった。これまでの話で薄々感じてくれていたとは思うけれど、当時の僕にはそんなことを気安く頼める友達が一人もいなかったのだ。


 五秒ごとに襲ってくる頭痛を我慢しながらやっとの思いで迎えた放課後、なんとか残りの作業を終わらせた僕は屋上へと向かった。風に当たれば少しはこの頭痛もマシになるかもしれないと思ったからだ。


 屋上に続く扉を開けると風が強く吹きつけてきた。本当にひどい風。前髪が目に入り、僕は思わずまぶたを閉じた。


 そして目を開いたとき、彼女はいた。もちろんいきなり僕の目の前に現れたというわけじゃない。たたずんでいた彼女の姿を認めたというだけ。彼女は転落防止用の金網の前に立って屋上からの景色を眺めているようだった。


 僕は屋上へと足を踏み入れ、彼女の近くまで歩いていった。背後では風にあおられたドアの閉じる甲高い音が響いていた。


 彼女が振り返った。


 秋雨あきさめのような涙が頬を流れていた。


 僕らはしばらく見つめあっていた。


 やがて、


『どうして……』と彼女は無機質な声でつぶやいた。『どうしてキミは、そんなに悲しい瞳の色をしているの?』


 僕は驚いた。まさかそんなことを言われるとは思わなかったからだ。彼女の発したセリフ、それは僕のための言葉のはずだった。彼女は涙をこぼしていたわけだけど、やり場のない怒りに駆られているように僕には見えた。


『……そうかな? 僕には、僕よりもきみの方が何倍も悲しそうに見えるけどね』


 しかし彼女は首を振って、


『ううん、絶対にしてるよ。まるで……そう、秋の夕暮れみたいな色を』


 あいだに空を少しだけ見てからそう言った。彼女に釣られるように、僕も空をあおぎ見てみた。彼女の言葉を解釈するのなら、さぞやよどんだ色をしているのだろうと思って。


 だけど僕の頭上ずじょうに広がっていたのはパステル色に澄んだ秋の夕空だった。黄昏たそがれに染まったウロコ雲が並び、鳥がかろやかに飛んでいる空。それは世界の優しさに満ちた淡い光景だった。


『よくわからないよ』と僕は言った。『だってさ、もしもきみのいうように僕の瞳が秋の夕暮れみたいな色をしているんだとしたら、きっと僕の目は、この空みたいにとても澄んでいることになるんじゃないのかな』


 僕はもう一度頭上を仰ぎ見た。やはりそれは悲しみとは程遠い空だと僕は思った。


『僕は自分の瞳の色を知っているつもりだよ』


 そう言って僕は彼女に目を開いて見せた。


『どうだい、ヘドロのようににごった色をしてるだろう?』


 彼女は僕の目を覗き込んで、そして呟いた。


『やっぱり悲しい色をしてる』

『……わからないな。どうしてきみはそこまで僕の目を悲しみに染まらせたいんだい? せっかくだからさ、理由を教えてよ』


 しかし彼女は曖昧に微笑むだけで何も答えなかった。あの時、彼女がどうして僕の瞳をみてそんなことを言ったのかはわからない。でも、きっと見抜いていたんだと思う。僕の心の奥底までを、ぜんぶ。


 彼女の瞳はまっすぐに僕を貫いていた。信念と決意に満ちていて、しかし同時に世界中の人間が感じている悲しみをすべて背負っているような瞳だと僕は思った。その瞳を僕はどこかで見たことがある気がした。どこで見たのだろう。


『あっ……』


 そして僕はようやく目の前の少女がクラスメイトであることに気がついた。あの風景画を描いてきた女の子。毅然きぜんとした態度で教師に立ち向かった女の子。


 いつのまにか頭痛がなくなっていることに僕は気がついていた。それはただ単に風に当たってマシになったのか、あるいはより大きな感情に覆い隠されたのかはわからない。わかっていたのは僕が目の前の女の子に対してひどく興味をいだき始めていたということだけだった。


『きみはどうしてここに?』と僕は訊いてみた。『文化祭の準備はどうしたの?』


 彼女はまた屋上からの眺めへと視線を移しながら答えた。


『サボっちゃった』

『サボった? どうして?』


 意味のない質問だと僕は思った。文化祭の熱気と興奮に包まれた教室の雰囲気は、クラスに馴染めていない者には辛いだけだ。きっと彼女も逃げてきたのだろう。


 けれど彼女からの返答は僕の予期していたモノではなかった。彼女は諦めたような顔をして微笑んで、


『――自分が参加できないお祭りの準備なんて、ビスケットがないレアチーズケーキのようなものでしょ?』


 彼女はよく特徴的な比喩ひゆを用いて物事を表現することを好んだ。そしてそれを聞いた人間が眉をひそめていぶかしむ顔を見るのが好きだった。でもそんなことを知らない当時の僕は彼女の思惑どおりに眉をひそめ、それから首をひねった。


『参加できないって、どうして?』

『用事があるのよ。どうしても外せない、大切な用事がね』


 彼女の表情からは何の情報も読み取ることができなかった。感情を押し隠すことになれた微笑み。模範的な彼女の微笑みだった。


『まぁそんなこともあるさ』と僕は明るい声を意識して言った。『僕も小学生のときに楽しみにしていた旅行が台風のせいで中止になったことがあるよ。でも案外、そんな日のほうが後から振り返ったときに楽しかったりするんだ』


 嘘じゃない。それは数少ない楽しみを感じる幼いころの記憶だった。雨と風が窓をたたく音が響くなかで普段は寡黙かもくな父とカードゲームにきょうじたこと。もうあの頃のように純粋な気持ちは持てないけれど、僕はそのことをずっと覚えている。


『楽しい日、ね……』けれど彼女は儚げに呟いた。『それが最悪な一日になるって分かっていたとしても?』


 それから困惑する僕を見て彼女はまた微笑んで、


『——キミはこの世界のこと好き?』

『え?』


 と尚も困惑させるようなことを言った。


『だから、キミはこの世界のこと好き?』


 繰り返された彼女の質問に、僕は答えた。


『……別に嫌いじゃないよ。優しい世界だって思ってる』


 なんて白々しらじらしい嘘だと僕は自嘲じちょうした。


 本当は世界のことなんかこれっぽっちも好きじゃなかったし、世界が優しいなんて幻想はもうずいぶん前に諦めてしまっていた。


 僕らが生きるこの世界は残酷で、他人を骨のずいまでしゃぶるようなきたなさで満ちている。それが僕が生きてきた十五年の人生で導いていた結論だった。


『ふーん。優しい世界、ねェ……』


 僕の答えに納得がいかなかったのか、あるいは納得がいったうえで何かを感じたのか、彼女はずいぶん長いあいだ考え込んでいた。僕も僕で彼女の質問の意図を考えていたから、しばらくのあいだ屋上には冷え切った沈黙が流れていた。


 屋上に吹く風が僕らのあいだの沈黙をより印象深いものにしていた。次に言葉を発した方が負けになる、と僕はその沈黙を感じながら思った。何に負けるのかは知らないけれど、とにかく僕はそう思っていた。だけどそんな馬鹿なことを思っていたのは僕だけだったらしい。


『名前』と彼女はあまりにも簡単に呟いた。

『え?』

『ねえ、キミの名前を教えてよ』

『……僕、一応きみと同じクラスなんだけどね』

『ふーん、そうなんだァ。でも知らないから教えて』


 いつだってそうだった。彼女は相手の都合なんて考えもしないんだ。それがどういうふうな印象を相手に与えるのかを考えやしない。猫のように気まぐれなんだよ。


 でもそれが彼女の本来の性格であり、僕らを惹きつけた魅力だったんだ。


 そして僕は彼女に名前を告げた。


『……ユキト。桜宮さくらみや、幸人』

『ゆきと、ユキト、ゆきと……うん、ユキトくんかァ』


 赤子のように僕の名前を何度か呟いた後、彼女は僕に向かってにっこりと笑った。そして道端みちばたに咲いたタンポポを憐れむような表情で、その言葉を告げた。


『ねえユキトくん——わたしと一緒に、世界を救ってくれないかな?』


 いま考えると、それはあまりにも馬鹿げた提案だった。普通の精神を持った人間なら一笑いっしょうすような言葉。だけど異世界に転生したいと考えるまでに追い詰められていた僕にとって、それはあまりにも魅力的な提案だったのだ。


『……ああ、いいよ』と僕は彼女の手を取った。それから少しだけ驚いたように僕のことを見つめていた彼女に向かって微笑んだ。『なんだか退屈しなさそうだ』


 見つめ合う僕らを太陽が月のような光で照らしていた。空には赤く染まったヒツジ雲が散りばめられ、屋上のなかを鳥が歌うように風が吹き抜けていった。グラウンドからは野球部がボールを打つ乾いた音が響き、校舎からは放送部が文化祭の予行演習をしている声と吹奏楽部が奏でるクラシックの旋律が調和を示していた。


 それは日常的な秋の夕暮れだった。これからも変わらない日々が続いていく予感に満ちた十月の夕暮れだった。


『ふふ、意外と馬鹿なんだね、キミって』

『まあね。でも僕が馬鹿だっていうんなら、そんな馬鹿者と世界を救おうとするきみは大馬鹿者ってことになるんじゃないのかな』

『ははっ、確かに。いいねェ、嫌いじゃないよ、そういうの』

『ありがとう。ねえ、それよりそろそろ教えてくれないかな、きみの名前をさ』

『あ、そうだった。まだわたし名乗ってなかったっけ』

『まあ、クラスメイトの名前くらいは知ってるけどね、僕は』

『むぅ、なんか含みのある言い方だなァ』

『他意はないよ。ただ言ってみたかっただけで』

『いいけどね、わたしがキミの名前を知らなかったのは事実なんだから』

『ま、そういうわけで名乗りはいいよ。きみの名前は知ってるからさ』

『ううん、言わせて。それが礼儀だもの』

『そう? なら聞くよ』

『ありがと。では、こほんっ――改めまして、わたしの名前は風戸アンリ。これからよろしくね、ユキトくん』


 しかしそんな秋の夕空の下で、僕と彼女の物語は動き出したのである。

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