【18】夜はまだ終わらない

 ルウム艦長は漁船の船首近くにある、古びた木製のマストに寄りかかっていた。背中を預けて右手を後ろに回し、マストの幹を掴む事で、かろうじて立っているようにも見えた。


 彼が無事な姿に安堵したけれど、私もまた、その場に座り込んでいた。

 ルウム艦長の側に早く行きたいけれど、あるべきはずの甲板が消え失せているので、私の頭は混乱してしまったのだ。


「一体これ、どうなってるの……?」

「――やっとってことかな」

「えっ?」


 ジルバが何時の間にかランプを手にして、私の傍らに立っていた。

 私が女神像を燃やしてやるからと、フラムベルクを脅した時に使ったランプ。


「気をつけて、ルティーナ。君も落ちて、奴等フラムベルクの仲間入りをしたいかい?」


 ジルバはそれを目の前の深淵――元は甲板だった所へと向けた。

 女神像が倒れたあの甲板が、ルウム艦長のいるマストの所まで、まるで観音開きの扉を下に向けて開け放ったかのように、なくなっている。


「くっ、くそっ! やりやがったな!!」


 その深淵から罵声が響き渡った。

 これって、フラムベルクの声じゃない?

 私は膝をついたまま、深淵を覗き込んだ。


「あれ……?」


 穴には――正確に言えば上甲板の真下の船倉なのだか、そこは一面浸水したかのように大量の水が入っている。 


「なんだこれは!? ぷぷっ!」


 フラムベルク達が必死に立ち泳ぎをして、上から見下ろしている私に向かって拳を突き上げる。だが一人の手下がフラムベルクの首筋に背後からしがみついた。


「うわあ、助けてくれ! 俺はっ、泳げないんだ、船長~」

「ば、馬鹿者っ! 離しやがれっ」


 ばしゃんと派手な水音をたてて、フラムベルクの頭が沈んだ。ぷっかりと奴の自慢の黒い帽子が浮かび上がる。

 その時だ。私は沢山の人がかけつける気配を感じ、顔を上げた。


「ほら、こっちだよ! 早く来て!」


 ああ。あの子供の声はルースだ。

 ついに海兵隊が駆け付けてくれたのね。


「ルース! 私はここよ。早く!」


 私はジルバに差し出された手を掴んで、甲板から立ち上がった。

 カンテラの黄色い光が、私のいる漁船を次々と照らし出す。


「あっ! 海軍のおねーさんだ。それに、アースシーの兄貴~っ!」


 私は水色の制服に白い剣帯を斜めにかけた海兵隊の姿をみとめた。

 その中で手を振る、色褪せた赤い襟巻きを巻いた茶髪の少年。


 ああ、よかった。

 急に胸の中が熱くなってきた。

 安堵と同時に、冷静さが戻ってくる。


 私は隣で黙ったまま立っているジルバの横顔をながめ、気になっていた問いをするべく口を開いた。


『どうしてあの時、私の手を離し、巻上げ機ウインチのレバーを倒してくれたの?』


 だが私はその問いを口にできなかった。

 かけつけた海兵隊が持っているカンテラが、さっと船首のマストを照らした時、大きな違和感を覚えたからだ。


 あれ? ルウム艦長は?


 先程までマストを背に立っていた、ルウム艦長の姿がなかったような。


 ルウム艦長がいない?

 いや……そんな。


 私は息が止まるくらいの衝撃を受けた。

 確かめなくては。


「ルティーナ?」


 私はジルバを押し退けて、左舷の船縁まで駆け寄った。ドレスの裾を膝上まで引き裂いてスリットを作り、マストを左右から支えるために、ロープを格子状に張ったシュラウド(静索)へすっかり泥まみれになった素足をかける。そこをまたいで船縁を歩く事で、あの甲板に開いた穴を回避し、私はルウム艦長がいるはずの船首まで行く事ができた。


「ルウム艦長!」


 私の脳裏に少し前の、とあるな光景がよぎっていく。



『くそっ……! ルウム、貴様ぁ!!』

『ルウム艦長! 危ない!』

 私は叫んだ。身体を起こしたフラムベルクが、後方へそれをひねったかと思うと、奴は右手に持った銃をルウム艦長へ向けたのだ。



「ルウム艦長……!」


 彼はやっぱりマストの下にいた。ただしマストに背中を預けて、今は座った姿勢で顔をうつむかせている。夜の闇と一体化したように、その身体は微動だにしない。


 まさか、あの時。

 フラムベルクが発砲した弾が、彼に当ったんじゃ――。

 私はルウム艦長の傍らへ倒れ込むように座り込んだ。


 嫌だ。

 こんなのは、嫌だ。

 だってあなたは、私に誓ってくれたじゃないですか。

 絶対、こんなことにはならないと。そう、信じろと言ったじゃないですか。


 暗くてよく彼の顔が見えない。私は夢中で彼の頬に両手を添えた。そのあまりの冷たさに、自分の手が震えているのもわからないほど。


 フラムベルクに撃たれたのなら、まずは早く傷の手当をしなければならないことすら思いつかないほど。


 まるで彫像の顔を抱いているみたい。でも、違う。違うのよ。

 月明かりの青白い光を頼りながら、左の額の傷から未だ流れる血のせいで、すっかり濡れぼそった前髪を払う。


 と、私の手首をルウム艦長の左手が掴んだ。

 閉じていた目蓋が開いて、透き通った青紫色の眼が私を見つめている。

 私もただその瞳を覗き込むことしかできない。


「ルウム、艦……」


 その名を言い終える暇もなく、彼の唇が私のそれに重ねられた。

 唐突の口付けに、私は指一本すら動かす事ができなかった。

 それはとても優しくて、あたたかかったから。

 その唇の熱が、私の中の不安という氷をみるみる溶かしてくれるのがわかる。

 やがて彼が名残惜しげに、そっと唇を離した。


「すまない、ルティーナ。でも、今どうしてもこうしたかった」


 月明かりの闇の中で、私の顔を見上げながらルウム艦長がつぶやいた。

 私はただうなずくばかりだった。私も同じ気持ちだったと思うから。


「わ……私のことなんてどうでもいいんです! それより」


 私はやっと自分のなすべき事に気が付いた。

 ああもう、何やってるんだろう!


「どこを撃たれたんです!? 肩ですか、足ですか? 海兵隊が到着したので、ここは彼等に任せて私は医者を呼んで来ます!」


「……はは。いいよ、ルティーナ」

「えっ?」


 ルウム艦長は私の腕を掴んで、さも可笑しそうに唇を歪めた。


「大丈夫。ここ(そういって彼は自分の額を指差した)以外に外傷はない。君が警告してくれたから、フラムベルクの弾は外れたよ」

「……」


 私は返す言葉もなく、ただルウム艦長の笑いに歪む顔を眺めていた。


 まさか。

 まさかまさか。

 まさかまさかまさか……このひとは。


「わ、わざとだったんですか! 私がどれほど心配したと思ったんです!」


 私はマストにもたれている、艦長の黒い長外套の襟を両手でむずと掴んだ。怒りと恥ずかしさに顔が火照るのが余計腹立たしい。勢いに任せてそれを引き上げる。


「おい、待ってくれ、ルティーナ」


 艦長が狼狽する様子に少しだけ満足しながら、私は思いの丈を彼にぶつけた。


「いいえ、待ちませんし許せません。、挙げ句の果てに私の……私の……!」


「いや、そのことは本当にあやまる! だが俺は別に死んだ振りしてたわけじゃない。ちょっと貧血起こしたから座っていただけなんだ」


「……ルウム艦長の、馬鹿ぁっ!!」


 ぱっちーん!

 私は夜空に乾いた平手打ちの音を響かせた。

 本当は、唐突の口づけが嫌だったわけじゃない。

 嫌じゃなかったんだけどね。



 ◇◇◇



 こうして海賊フラムベルクとその手下五人は、海兵隊によって海軍詰所に連行された。当然、フラムベルクの手下であるジルバもそうなるはずだった。

 けれどルウム艦長が、がんとしてその素性を明かさなかったし、フラムベルクと顔を合わせる前に、私達は漁船からそそくさと立ち去ったのだ。

 だが私達の夜はまだ終わらない。

 すべてをルウム艦長とジルバから聞き出すまで、




 フラムベルク達を引き渡してから、私はルウム艦長とジルバを伴い、商港入口にある『帆柱亭ほばしらてい』に赴いた。

 ここは宿屋兼居酒屋でもあるので、長い夜を過ごすにはうってつけの店なのだ。


 店の主人は目を見開いて、戸惑ったように応対した。

 まあ私達が異様な客と見られても、仕方ない格好をしていたから無理もないけど。


 なんせルウム艦長は頭にぐるぐる包帯を巻き付け、襟に自身の血の染みをつけたシャツを着たままだったし、私なんかもっと最低。


 靴はルースが持ってきてくれたから履いたけれど、青いドレスの裾は毛羽立って、おまけに自分で左側を引き裂いた上、綺麗に結い上げていたはずの髪も、鳥の巣のようにぼっさぼさ。

 耐え切れなくなって髪を下ろし、ジルバが貸してくれた上着を羽織ってはいるけれど、ジルバが一緒じゃなかったら、店の主人は憲兵を呼んでいたかもしれない。


 まあ、なんとか私達は帆柱亭の二階の部屋を借りて、水を飲みながら(これがまた笑っちゃう)、人心地ついたわけ。

 だけどルウム艦長もジルバも、すぐに口を開こうとはしなかった。

 顔を合わせることすらしない。


「いつまで意地を張り合ってるんですか? 

「別に」

「ああ、べっつにぃ~」


 私は再び、わなわなと唇が震えるのを覚えた。


「――また、ひっぱたいてもいいですか?」


 ルウム艦長とジルバはそこでようやく顔を見合わせた。


「ジルバ、お前が話してくれ。俺はちょっと疲れた」


 がたんと音をたてて、ジルバが立ち上がる。


「汚ったねーぞ! アースシー。君が話してくれなきゃ、僕はルティーナに悪人だと誤解されたままになるじゃないか!」


 フン、とルウム艦長が鼻で笑う。


「俺はそれでも全然構わない。でも……ルティーナは知る権利がある。俺達のせいで危ない目に遭わせてしまったからな」

「……ああ」


 ジルバが、小さくうなずいて、再び椅子に腰を下ろした。


「話は今から二年前にさかのぼる」


 ルウム艦長は木のカップを手に取って、水を口に含ませた。


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