【16】ここに来た君が悪い

 ルウム艦長は私だけを見つめていた。

 私の位置を確認するように、それだけを見つめていた。

 だが鋭い蒼眼が、一瞬だけ細められた。

 丁度、操舵室の前にある黒い物体――この船は漁船だから、網を引き上げる時に使うのだろう――手動の巻上げ機ウインチの側まで後退した時、私は不意に左手首を掴まれたのだ。


「何するの!?」

「おいおい。どこまで行くつもりだい? まさか逃げるんじゃないだろうね」


 からかうように軽い口調。

 私は咄嗟に声の主の顔を見上げた。

 黒い三角帽の下から、ジルバが薄い含み笑いを浮かべている。


「べっ、別に逃げようとしたわけじゃないわ。ルウム艦長が女神像から離れろというから、私は離れただけじゃない」


 私は手首を掴むジルバのそれを外そうと、左腕を上げようとした。けれどそれは離れるどころか、ジルバがさらに指に力を込めたので、私は思わず小さく呻いた。


「ジルバ。何をする」


 私を見つめていたルウム艦長が、怒気をはらんだ声で抗議する。

 だがジルバはルウム艦長に冷めた視線を向けると、淡々とした口調で呟いた。


「ここで……僕の隣でいいだろう、アースシー? 十分女神像から離れたじゃないか。それにフラムベルク船長は、確かに彼女の命を助けると約束したけれど、今逃げていいとは言わなかった」


「だっ……誰が“逃げる”ですって!」


 私があの人を置いて、自分だけ助かろうなんて思ってるわけないじゃない!


「おお、ジルバ。確かにその通りだぜ。もう少しで、あの女が逃げる所だったな」


 女神像の傍らでルウム艦長の隣に立っていたフラムベルクが、笑い皺をくっきりときわだたせながら口を開いた。油断なく、右手に持った銃で私の胸元を狙いながら。


「この女を逃したら、海兵隊を引き連れて舞い戻って来るだろうからな。よしジルバ。お前はそこで女を見張ってろ」


「ええ、そのつもりですよ」

「……つっ!」


 ジルバが私の手首を急に自分の方へ引っ張った。私は嫌でもジルバに抱擁される格好になる。

 ああもう最低! この女ったらし。どさくさに紛れてなにするのよ。

 私に触れても良いのはルウム艦長だけよ……!


「……というわけだ、アースシー。そんな顔をしなくても大丈夫。君が惚れてるルティーナに、僕だって惚れてるんだから。だから君がいなくなっても、彼女のことは心配ない」


 うわわわ。

 冗談なのか本気なのか。ジルバが顔を寄せてくる。


「嫌、放して! これ以上私に触ったら、私は……!」


 私はジルバの腕の中で自由になろうともがいていた。

 せめて手が使えたら、あのつるりとした顔を引っ掻いてやるのに。

 私はルウム艦長の顔を見る事ができなかった。ジルバは絶対わざと、ルウム艦長に見せつけるためにやっているのだ。


「――あいつのために、ここに来た君が悪いんだよ」


 私の耳元で、ため息混じりに呟いたそれは、誰に向けた言い訳なのか。

 ジルバの唇が私の首筋に触れようとしたその時。


「こらぁジルバ! てめえ、女といちゃつくのは後にしろって言っただろうが!!」


 フラムベルクが苛立たしさのあまり、顔を真っ赤にしてわめいている。

 ジルバは小さく舌打ちし、けれど相変わらず私の肩に手を置いたまま、フラムベルクに抗議した。


「船長。僕だって今回、誰よりも危ない橋を渡ったんだから、それなりの報酬を要求したっていいはずだ。あんたは『女神』を取り戻した。それは僕のおかげだろ? 僕が船長の手下である素性を隠してルウムに近付き、あいつの船の料理長として上手く乗り込んだんだから。ルウムはあんたとの取引を拒んだから、結局僕はアマランス号に火をつけるしかなかったけれど……」


「おう。火をつけるまではよかった。だがてめえは、ルウムに先を越された! てめえがあの船首像を船から切り離して、持って帰るはずだったのに」


「ああ。あれはちょっと失敗した。でも僕はルウムの隠れ家を、ここを見つけただろう? だから船長。ルティーナのことは僕の好きにさせてくれ」


 私は大きく身体をよじった。

 もう我慢の限界かもしれない。


「ジルバ! だっ、誰があなたなんかの――!」


 あなたのいいなりになるもんですか。

 そう唇まで出かかった私の声は、発せられることなく消え失せた。


「ルティーナ」


 闇の静寂に響いた深い声音が、私の心臓を冷たい夜風のように吹き抜けたから。

 ――ルウム艦長。


「今は黙って大人しくして欲しい。ジルバは海賊だが、女に手を上げる男ではない」


 ルウム艦長の声には覇気がなかった。私を安心させるための笑顔も、今はその青ざめた顔には浮かんでいなかった。まるで隣で微笑む女神像のように、肌は色を失い、落ち窪んだ瞳は影が落ちて、もう一つよくできた彫像があるようだった。


「君にそう言ってもらえるなんて、とっても光栄だ。アースシー」


 表情を凍らせたルウム艦長と対照的に、ジルバのそれには勝ち誇った笑みが貼り付いている。


「僕が君の立場だったら、そんな風に落ち着いてなんかいられないよ。だから、君は!」


 ジルバが私のケープを羽織った肩を掴む指に力を込めた。

 息を吸い、そして吐き出す。

 ルウム艦長へ負の感情を弾丸のように込めて――放つ。


「君はさっさと自分の役割を終わらせて、僕の前から消えてくれ!!」


 ジルバ元・料理長。

 私が知っている彼は陽気で明るくて、誰とでもすぐに打ち解けることができる、いい人だった。


「ジルバ……」


 ジルバは肩を弾ませて息をしていた。顔を上げた私と目が合うと、彼は一瞬戸惑ったように生唾を飲み込み、素早く視線を背けた。


「ええい、わかった! ジルバ。その女はお前にくれてやるから、これ以上俺の時間を浪費するな」


 フラムベルクは私に向けていた銃口を下げ、周りに佇む他の手下達に素早く目配せした。するとジルバを除く五人のフラムベルクの手下達が、ぐるりとルウム艦長を取り囲み、彼の退路を断った。


「さあ、さっそく俺の『女神』を拝ませてもらおうか」


 女神像を愛おしそうに見上げ、フラムベルクがルウム艦長へ銃口を向ける。

 ルウム艦長はおもむろに左手を上げて、額を伝う血を拳で拭った。

 頭の皮はつっぱっているから、小さな傷でも流血しやすい。けれど彼の横顔には、未だ真紅の液体が止まることなく流れ落ちていて、私の心を不安で満たしていく。


「ではちょっと、で協力してもらおうか」

「なんだと?」


 ルウム艦長はそっと右手を上げて、女神像を指し示した。


「これを甲板にに寝かせてもらいたい。台座に施した仕掛けを外せば、容易に内部を開けることができる。言い換えれば、台座の仕掛けを外さなければ、この像の中に隠したお前の『大切なもの』は、絶対に取りだせないという事だ」

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