第六話 黒蛇

 あなたは、私を飲む?


「えっ……?」


 よく見ると、先ほど黒蛇が出現させた小瓶には白いラベルが貼られており、そこには筆記体で『drink me』と書かれていた。

 飲むか飲まないか、それは後でゆっくり考えるとしよう。それよりも、もっと気になった事がある。


「今、貴方……しゃ、喋っ、た……?」


 胃の中をなぞるような低い声は、たしかにすぐ側から届き鼓膜を震わせた。

 喋る際、黒蛇が人のように口を動かして見せたわけでは無いけれど、いま私の狼狽うろたえる様子を目の当たりにして楽しげに口角を吊り上げたのが何よりの証拠だろう。

 黒蛇に対して今だに拭いきれない謎の恐怖心から、微かに震え自然に後ずさりを始める足に力を込め、汗ばむ両手を握り締めてオッドアイの瞳をまっすぐに見上げた。


「蛇が、喋るわけ、ないわ……そうでしょう……?」


 喉が渇いているせいだろうか。声が、わずかに掠れてしまう。

 少しの沈黙を置いて、しゅるりと床を這い私の目の前へ移動した黒蛇は、とぐろを巻きながら小首を傾げて見せた。


「……ああ、その通り。蛇が人間のように口を聞くわけがない。ただ……『偶然』、お前が私の言葉を理解できた。それだけの話だ」


 瞬間、嫌でも理解させられる。どういう原理かは謎だが、この黒蛇は――明確な意図を持って人の言葉を発しているのだと。

 この恐ろしい生き物が口を聞くのは、ここが不思議の国だから?当たり前の事象なの?それとも、


「これは……私の妄想なの?」


 疑問に対し、黒蛇は二股の舌をのぞかせつつ息を短く吐いて笑った。


「全て妄想でした、などというハッピーエンドは用意されていない」

「それじゃあ、本当に現実? 不思議の国だから、蛇が口を聞くの?」


 三つ目の質問を投げた途端、黒蛇はゆっくりとした動作で私の周りを囲うように移動したかと思えば、長い胴体で全身を緩やかに締め上げ顔を覗き込んでくる。


「……っ!?」

「私は、お前の質問に二度も答えた。次は、お前が私の質問に答えるべきだと思わないか?」


 きっと、全力で暴れてしまえば拘束から逃げ出すことは可能だろう。だが、黒蛇の持つ二色のビー玉に姿を映されると、強い『恐怖』に侵され体を動かすことができなかった。

 喉まで込み上げた胃酸を飲み込み、「わかった」と言う代わりに何度も頷けば、黒蛇は目を細めて私の体を解放する。


「Do you drink me?」

「……っ、」


 再度、黒蛇――“彼”が尾の先で器用に絡めとり、ずいとこちらへ差し出してきた小瓶を両手で受け取って、シャンデリアの光に透かしながら中身を観察した。

 液体は無色透明で、「ただの水だ」と言われれば「そうなのね」と安心できるかもしれないけれど、それはあくまでも話し相手が『普通の人間』だった場合のみだ。

 喋る黒蛇という異様な生物が、どこからともなく出現させた小瓶と液体……そんなもの、


「こん、な……何が入っているのか得体の知れないものなんて、飲むわけがないでしょう……!?」


 躊躇ためらいなく飲み干せるものがいるとしたら、よほど知能指数の低い生き物か他人を疑わない幼児、愚かしいほどに心の綺麗な人間のみだろう。

 小瓶を突き返すと、黒蛇はゆっくりと鎌首をもたげて二色の瞳で私を見下ろした。


「……お前が、それを言うのか?」

「〜〜っ!?」


 今の一瞬で全身を襲った感覚は、寒気などという可愛い言葉ではとても足りない。

 筋肉が硬直して、呼吸は喉で詰まってしまう。脳みそを直接鷲掴みにされ、床に向かって押さえつけられているかのような錯覚を覚えた。


(な、なに? なに……?)


 ああ、わかったわ。これは――……恐怖。

 彼のこぼす言葉の一つ一つが、私の心を『恐怖』という名の猛毒で侵しているのだ。


「自分の『罪』を忘れこそすれど、愚行まで海馬から消えるほどにお粗末な脳みそではないだろう?」

(愚行……?)


 ちろりと覗く二股の舌を見て、ようやく記憶が脳裏をよぎる。


(……あ、)


 そうよ、そうだわ。私もに同じ事をした。

 今までどうして忘れていられたのかわからないけれど、


(……あれ?)


 何か……もう一つ、忘れているわ。

 私は今日、誕生日以外にどんな『嬉しい事』があったんだっけ?


「では、二つ目の質問だ。お前の犯した罪の名前は?」

「……私の、罪……?」


 やっとの思いで絞り出した声は自分でも驚くほどに小さくて、黒蛇は愉快そうにくすくすと笑いながらとぐろを巻く。

 先程から心臓は痛いほどに脈打っていて、このまま口から出てくるのではないだろうかという漠然とした不安に駆られ、慌てて小瓶を床に置き両手で口を塞いだ。


「……少し意地の悪い質問だったな。どうせ『今のお前』ではまだ思い出せない事だ、気に病む必要はない。“そのまま静かに話を聞いているといい”……」


 言葉の意味を問いたいというのに、私の意思とは関係なく両手のひらはぴたりと口に貼り付いたままで、黒蛇は静かに二、三度舌を出してからしゅるりと私のすぐそばに這い寄る。


「……私が怖いか?」


 怖くなんてない……と、虚勢を張る余裕もないほどに畏怖いふの念を抱いているわ。


「私に恐れを抱くのは、お前が罪を背負っているという証拠に他ならない」


 私は何も罪を犯してなんていない……そう、そのはずよ。


「このワンダーランドへ来たからといって、終わりではない。これから先も、『私達』は常に『お前達』を見ている……その事を、夢の中でも忘れるな」


 赤べこのように何度も頷けば黒蛇は少しのあいだ私の瞳をまっすぐに見つめ、なんとも不思議なことに彼が「両手を離して構わないぞ」と呟いた途端、磁石顔負けの引力で貼り付いていた両手はすんなりと口を解放した。


「はっ、はぁっ……! げほっ!」


 酸素を全身で思い切り吸い込む私を眺めて黒蛇が何度目かになる笑いをこぼしたものだから、いいように弄ばれているような気がしてならず頭に血が上ってしまう。

 いっときの感情で理性から両手を離すのは愚か者のする行為だと左脳の片隅で理解しつつも、一度開いた口を瞬時に塞ぐことは難しかった。


「な、なにが……何がおかしいの……!? 私は、呼吸ができなくて……っ、死んでいたかもしれないのよ!?」

「!!」


 怒りをぶつけた瞬間、黒蛇は見るからに「開いた口が塞がらない」と言いたげな様子で言葉を詰まらせる。


(……一応、そんな表情もできるのね……)


 その様を見て溜飲りゅういんが下がり心の中でほくそ笑んだのもつかの間で、黒蛇は俯いたまま喉を低く鳴らし、


「……死んでいたかもしれない、だと?」

「そ……そう、よ」

「そうか……くっ、くくっ……ははっ……あはははっ!」


 私が先ほど床に置いた小瓶を再び尾の先で絡めとって蓋をあけると、


「ああ……素晴らしい、気に入った。実にユニークな冗談だな……『カンパイ』だ」


 そう言いながら、何のためらいもなく喉を上下させて中身を飲み干してしまった。


「な……っ!?」


 まさか『知能指数の低い生き物』がこんな目と鼻の先で実在していたなんて思いもよらず、ぽかんと口を開けたまま黒蛇を眺める。

 だが、少しの間を置いて視界へ飛び込んできた光景に自分の目を疑った。


(え……?)


 正体不明の液体を“彼”が飲み込んでから、約一分が経った頃。

 なんと――黒蛇の尾は二股に裂け、それは少しずつ人間の足へ変化していくではないか。

 いいえ、それだけではない。胴から二本にょきりと生えたものは、紛れもなく両の腕と手。


(な、に……何が、起きて……)


 理解が追いつかない私のために変化が止まってくれるなんてことはあるはずもなく、ミチミチ……ミュシミュシ……と音を立てながら、黒蛇はついに完全な『人型』へ姿を変えてしまった。


「……」

「……っ、……っ?!」


 混乱する頭を首の上に飾ったまま二、三歩後ずさり、その『人』を指差して金魚のようにぱくぱくと唇の開閉を繰り返せば、それを見た“彼”は黒髪を揺らして首を傾げ、片手で服の埃を払いつつ赤と銀の二色に分かれた瞳を細め口を開く。


「……ふむ……足元から戻るのは、少々インパクトが強すぎたようだな。では次は、頭から順に姿を戻してみるとしよう」


 人さし指と親指で顎をつまみ、自分を納得させるみたいに何度か頷いて見せる“彼”の声は、たしかに黒蛇と全く同じ『音』である。

 ずるりと子宮を這う低さと、脳みそを麻痺させる麻薬的な甘さの混ざった特徴的な声色を聞き間違える方が難しい。


(どう、なって……)


 黒蛇は“彼”であり、そして逆もしかり……ということは辛うじて理解できるものの、やはり普通の人間としての脳みそを持っている以上「そんなもの起こり得るわけがない」と認識されている出来事を目の前にした時、パニックに陥ってしまうのは当然だろうと思った。

 しかし、そんな私に対して彼は懇切丁寧こんせつていねいに説明してくれるわけでもなく、二色のビー玉に私を映して薄い唇で弧を描く。


「さて……では、改めて歓迎しよう。ようこそ、ワンダーランドへ」

「あな、た、は……貴方は、誰なの……? いったい、何者なの……?!」

「私がいったい誰か? ああ、それは大いなる謎だ……だが、自己紹介はお互い『次に会った時』の話題としてとっておくべきだろうな。それ以外で話が弾むとは思えない」

「次に、会った時……?」

「まずは、歓迎のプレゼントを贈るとしよう」


 そこで一旦言葉を切った彼は片手の人差し指を静かに立てて自身の唇に当て、チェロを奏でるかのように言葉を紡ぎ落とした。


「……“お前の元には、もう二度と『死』は巡ってこないだろう”……」

「――っ!!」


 なんだろうか、この……濃い霧が頭の中にかかり、全身の血管が大きく脈打つ感覚は。


(なに? この、感じ……)

「ああ、そうだ。歓迎の『プレゼント』を贈り終えたところで、もう一つ……私は今、“大鎌を持っている”……」


 何を言っているのかしら?と、手ぶらの彼を見てまばたきを一つした。そのほんのわずかな時間で、彼の手元に死神のような大鎌が出現する。


「……えっ?」

「お前がここへ来る時間は零時と五十五分の予定だったが、実際に到着した時間は零時と五十六分だった」

「……そんなこと、なんの関係が……」


 彼は両手で柄をしっかりと握りしめたまま大きく振りかぶり、


「一分過ぎている。遅刻は斬首だと、私の可愛いウサギから聞いただろう?」

「待っ……!!」


 少しの躊躇ためらいもなくこちらへ振り下ろされたその刃は、私の首と胴体をいとも簡単に斬り離してしまった。

 ゴン、ゴロゴロ……頭が床を転がるけれど、まるで他人事みたい。


「……首を刎ねてしまえ。自画自賛の趣味は無いが、良い言葉だ」


 ビクンビクン、胴体が魚を真似て跳ねている。

 断面から噴水みたいにびゅーびゅーと血が吹き出しているのが見えて、


(あれ? わた、し……わたし……)


 しかいが、まっくらになって……おぼえていられたのは、そこまで。

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