第十二話 結婚


 クリスチャンから結婚祝いとして握らされたものを見るために右手を開くと、そこには鍵がひとつありました。


「まあ、これで何が開けられるのですか?」


「私達の愛の巣となる、新居の扉です」


 クリスチャンの家の合鍵ならずっと前に渡されています。愛しい彼の顔を見上げると、何故かクスクスと笑いながらしきりに私の左側へ目配せをしています。


「え、もしかしてクリスチャン……」


「そのもしかですよ。以前の家主が亡くなって以来、今もまだ名義はうちの会社なのです。他に買い手がつかないように保管しながら少しずつ修理をしていたのです。やっと目途がついて買い取ることが出来ます。とは言っても、特別従業員価格だとしても私が払えるのは頭金だけで、私達二人の名義にして一緒に残額の支払いをしていけたらと……」


「あ、貴方という方は……私、何と言って良いのか……」


 私の目には涙があふれてきて、言葉に詰まってしまいました。とめどなく流れる涙を拭いもせずクリスチャンに寄り添って、落ち葉の舞う中に建っている煉瓦造りの家を信じられない思いで眺めました。


「他の家も見てみたいのでしたら、貴女の納得が行くまで物件をいくらでもご案内いたしますよ」


「私たち二人が一緒に住むのでしたらこの家以外にはありませんわ」


「それでは奥様、まだ改装中ですが参りましょうか」


 クリスチャンに手を引かれて私は夢の家の敷地に足を踏み入れました。手が震えて扉の鍵が上手く回せない私の代わりに彼が扉を開けてくれました。


「きゃっ!」


 そこでクリスチャンは私を横抱きにして家の中に入りました。


「私たちの愛の巣へようこそ」


 今年の初め、前回に来た時は居間の改装だけが終わっている状態でしたが、今はもう壁が全て綺麗に塗り替えられていました。涙はまだはらはらと流れており、私は言葉を失っていました。


「さあ、発泡酒と簡単な食事を用意してあります。乾杯しましょうか」


 食卓には花が飾られていて、いくつか美味しそうな料理が並べられており、すぐに食事が始められるようになっています。


「以前もそうでしたけれど、貴方はいつも用意周到なのですね」


 クリスチャンはこの家で私たちが初めて結ばれた際も、とても素敵な演出をしてくれていました。


「貴女をどうやって喜ばせようか考えるのが私の楽しみです」


「クリスチャンったら……」


 彼の甘い視線に私の体はとろけてしまいそうです。


「それでも乾杯の前に貴女と確認し合っておきたいのですが、こちらが家の売却価格と、私の提案する支払い計画です。後日こんなはずじゃなかった、と言われないためにもね」


 クリスチャンが書類を見せてくれました。


「まあ、クリスチャン、支払いはほとんど貴方の負担ではないですか……私、もう来年初めには借金を払い終えるので、月々の支払いが少々増えても構いませんわ。貴方は頭金で貯金を使い果たしてしまうのではないですか?」


「今まで独身で稼いだお金の使い道も特になかったので、私は貯金だけはあるのです。もっと頭金を払ってもいいくらいなのですから。人生何があるか分かりません。早く家の支払いを終えてしまう方が賢明ですよ。貴女にこの家の前で出会って、どうしようもなく強く惹かれた私です。貴女に巡り逢うために私はずっと独り身だったのだ、と確信しているのです」


「わ、私……」


 再び涙が溢れてきました。


「さあ、涙を拭いて下さい。乾杯しましょう。貴女も少しだけならお飲みになりますよね」


「はい。いただきますわ」


 クリスチャンが発泡酒を注いでくれました。未だに夢見心地で彼と杯を交わしました。


 食卓に準備されていたのは軽くつまめるものでした。一口大に切ったパンにチーズや酢漬けの野菜、干し魚などです。


「これは全てダフネが作ったものですね」


 パンに塗ってあったオリーヴのペーストの味付けや、野菜の切り方と盛り付けですぐに分かりました。


「さすが、母上の舌はお嬢さんの料理が利き分けられるのですね」


「ダフネは私と貴方の動向をどこまで把握しているのですか?」


「彼女を責めないで下さい。いつもダフネさんに協力を仰いでいるのは私なのですから。それにクロエさんにも」


「確かに、娘二人に私たちの仲を応援されているのは分かっていましたわ。私に隠れて三人で画策しているだなんて」


「それはもう、色々とね。今晩はお二人から貴女の外泊許可も頂いています」


 クリスチャンはお茶目に片目をつむってみせます。


「えっ?」


「記念すべき今夜は私たちの新居で過ごしたいのです。いいですよね?」


「ええ、私も貴方と朝を迎えたいですわ……」


「良かったです。先程馬車で目隠しをした貴女があまりにも色っぽかったので……馬車の中でけしからん行為に及んでしまいそうでした。先に求婚して受け入れてもらってから、とはやる気持ちを抑えながら自分に何度も言い聞かせていたのです」


「ま、まあ……」


 彼の瞳に炎が灯ったのが分かりました。私は真っ赤になってうなずきました。


 そして食事の後、私はクリスチャンに手を引かれて二階の主寝室に上がりました。彼はなんと娘たちから渡されたという私の着替えも持ってきてくれていたのです。


 寝室の壁と床は綺麗になっていて、家具も何もなく、真ん中に大きなマットレスと寝具が置かれているだけでした。


 そこで普段よりも情熱的なクリスチャンに貪欲に求められた後、私は彼の腕の中で幸せを噛みしめていました。


「今夜のために寝台も買って運び込んで置こうかと思ったのですが、女主人となる貴女の意見も聞いてからにしようかと……浴室もこの部屋も貴女の趣味に合わせて改装して家具を揃えましょう」


「まあ、貴方は職業柄、沢山のお家を見ておいででしょう? ですから貴方の要望や意見もおっしゃって下さい」


「夫婦二人で一部屋を使い、寝台は一つ。それだけですよ、私の希望は」


「私、いびきがうるさくて寝相も悪いかもしれないのに?」


「そうですね、それを今晩検証しましょうか」


「もう、いやですわ、クリスチャンったら……それでも私たちが一緒に朝を迎えるのは初めてですものね」


 そして私たちはお互いの温もりと愛に包まれて眠りに就いたのでした。




 翌朝はクリスチャンがコーヒーを入れてくれて、これまたダフネが準備してくれていた朝食を二人でとりました。


「正式にはこの家はまだ貴方の会社のものなのですよね。私たち、勝手に泊まってしまっても良かったのですか? 不法侵入に当たりませんか?」


「昨晩は従業員の特権ということで、許してもらいましょう」


 それから私はクリスチャンに送ってもらって帰宅しました。幸い娘は二人共もう出勤していて留守でした。初めての朝帰りなので気恥ずかしくて彼女たちに合わせる顔がなかったのです。


 その日の午後、善は急げということでクリスチャンの事務所に行き、家の売買契約書に二人で署名しました。


 私の憧れの一軒家が晴れて二人の所有になったのです。にわかには信じられず、まだまだ夢見心地でした。




***ひとこと***

クリスチャーン! キャロリンの手に握らせたものは給料三か月分が相場と言われる婚約指輪と思いきや……なんと一目惚れしたあの家だとは……給料何カ月分ですか!


結婚 アイビー / ボダイジュ

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