烏鵲堂の平和な日常

忘れられた記念日

 初夏の始まりを思わせる目映い日差しがすずらん通りを照らしている。街路樹を揺らしながら吹き抜ける風は、まだ幾分かの涼やかさが感じられた。

 神保町古書店街に並ぶ烏鵲堂はゴールデンウィークの始まりとあって、朝から大勢の客が訪れていた。ネットの口コミを見て都外からやってきたお客さんも多いようで、帰り際に「良いお店ですね、また来ます」と何度も声をかけられた。


 客商売ということを一応心得ている曹瑛も、忙しさのあまりこの日の午後は笑顔が消えて真顔になっていた。常連のお客さんたちは余裕が無くなったときの曹瑛の姿になれているらしく、驚く様子もない。店長のクールな横顔が素敵だとひそひそ話を交わしている。

 

「曹瑛さん、この注文はどうする」

 書店のバイトに来ている中国人留学生が質問にやってくる。普段、書店の切り盛りに慣れている高谷が今日は休みだった。

「書名と連絡先を訊いておいてくれ。在庫があるかは後日調べる。今日は店頭に並んでいるものだけ売れば良い」

 高谷がいればその場で在庫確認もできるが、その説明が面倒だ。曹瑛はお客さんのテーブルでお茶を淹れながら、早口の中国語で答える。


 レジ前の茶器の物販も好調で、3階の倉庫から何度か在庫を運び出すことになった。連休だからと少し多めに仕込んでいた点心も、夕方には売り切れてしまった。

 閉店時間になり、手早く片付けをする。仕込みは営業時間に済ませておいた。書店のバイトの子にはもう上がってもらっている。店内には曹瑛ただひとり。


 書店の片付けを済ませた後、2階のカフェに上がってくる高谷にお茶を出すこともない。時に榊や伊織が閉店後にふらりと立ち寄ることがあるが、今日は誰もいない。ビルの谷間に沈む夕陽がカフェスペースをノスタルジックな色合いに染め上げる。曹瑛は格子窓の影を眺めながら小さなため息をついた。


 一日我慢していたタバコが吸いたくなり、裏路地へ出る。ポケットからマルボロを取り出して火を点けた。煙が建物の隙間の狭い空へ真っ直ぐに立ち上る。星の見えない空だ。ネオンの光で空が曇っている。曹瑛は煙を肺に吸い込んだ。ふと、ポケットにしまいっぱなしのスマホを見る。

「・・・これは」

 着信履歴に思わず声が漏れた。

 ―宮野伊織

 ―榊

 ―高谷

 ―兄貴

 ―孫景


 短時間にこれだけの着信があるとは、何か事件でも起きたのだろうか。曹瑛は眉を顰める。記憶を辿れば、5月3日を空けておくよう伊織に言われていた気がする。面倒くさい気もしたが、伊織に電話をかけることにした。


「瑛さん、やっと連絡ついた。どこにいるの。お店は真っ暗だし探してたんだよ」

 伊織の声にはやや焦りが感じられた。

「何かあったのか」

「もう瑛さん、今日のこと忘れたの」

 平然と答える曹瑛に、伊織は呆れている。

「みんなもう集まってるよ」

「・・・今日は疲れた」

 大勢で飲み会の気分ではない。俺は行かないから勝手にやっておいてくれ、そう言いかけたときスマホを耳に当てたままの伊織が路地に駆け込んできた。その剣幕に曹瑛は思わず後退る。


「こんなところにいた、早く行こう」

 伊織が曹瑛の腕を引く。

「行くって、どこにだ」

「百花繚乱だよ」

 “百花繚乱”は烏鵲堂の隣にある中華料理店だ。

「俺は帰る」

 曹瑛が伊織の手を振りほどいた。

「主役が来ないと始まらないでしょ」

「主役、だと」

 曹瑛は怪訝な顔を向ける。伊織はにこりと笑った。

「そうだよ、早く行こう」


 曹瑛は訳が分からぬまま“百花繚乱”の2階に連れて来られた。2階は個室になっており、伊織は“鳳凰の間”と書かれた扉を開ける。

「おう曹瑛やっと来たか、待ってたで」

「遅いぞ」

「電話に出ろ」

 劉玲と孫景、榊にたたみ掛けられて曹瑛は憮然とする。千弥と獅子堂の姿もあった。

「もう、いいじゃん今日は忙しかったんだよね。曹瑛さん、誕生日おめでとう」

 高谷の言葉で、この会の目的を初めて知った。


「誕生日・・・」

 曹瑛は呆然とする。自分の誕生日など覚えていなかった。暗殺者時代、組織に渡された身分証にはいつも違う名前、違う生年月日が書かれていた。幼少の頃に誘拐され、組織の中で育った。本当の誕生日など知る由も無かった。


「お前がこっちに来て書類を作るときに、劉玲が確認してくれた日付だ」

 榊が立ち尽くす曹瑛の肩を叩く。榊は烏鵲堂の開店手続きを引き受けており、提出書類に目を通していた。そう言えば、代表者の生年月日は5月3日と書いておけ、という話になった気がする。

「その日付はいい加減なものだろう」

 曹瑛は困惑する。適当に決めた誕生日に何の意味があるのか。


「お前とよく遊んだ村はずれの関帝廟、覚えてるか」

 故郷の村にある、麦畑の中の崩れかけの関帝廟。子供の頃、その狭い庭で遊んだ記憶がかすかに蘇る。

「いっしょに御札を収めたことがあったやろ。その日付を確認してきた」

 劉玲の言葉に、曹瑛は目を見開く。両親は行方知れず、村の戸籍には2人の記録は無い。ただ一つ、可能性のある手がかりが生年月日を書いて収めた木札。それを探してきたという。

「誰も管理してないのが幸いして、札がまだ残ってたんや」


「じゃあ、乾杯しよう」

 皆でビールを注ぎ合う。故郷ハルビンのビールだ。曹瑛のグラスには伊織が烏龍茶を注いだ。“百花繚乱”の店主が腕によりをかけた本格的な中国東北料理がテーブル一杯に並ぶ。

「乾杯!生日快乐」

 賑やかな宴が始まった。


 覚えてもいなかった誕生日。それを祝われることも初めてで、曹瑛はどこか居心地が悪そうだ。

「一年前の今日だった」

 榊の言葉に曹瑛は首をかしげる。

「お前が新しいことをやりたいと、日本へやってきた日だ。誕生日に実感が無いというなら、烏鵲堂立ち上げの記念日ってことでいいんじゃないのか」

「うん、それはいい。今日は記念日だよ」

 伊織も頷く。


 料理がきれいに片付いたところで、高谷がケーキを出してきた。いちごの乗った生クリームのケーキだ。

「これ、俺と千弥さんとの共同制作」

 千弥は料理が得意らしく、最近はお菓子作りにハマっているらしい。

「それと、これはみんなから」

 伊織が包みを曹瑛に手渡す。開けてみると、上質な生地の黒い長袍で、肩口に白と黒の糸で見事な烏鵲の模様が刺繍されていた。

「ありがとう」

 曹瑛はぎこちない笑みを浮かべる。


「ええなあ、俺の誕生日も祝って欲しいわ」

 ビール瓶を片手に、劉玲が曹瑛の肩に腕を乗せる。

「兄貴は何日だった」

「俺の木札は腐ってて、文字が読めへんかったんや」

 劉玲は大笑いする。曹瑛もつられて笑った。


―新しい人生の記念日に。

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