第2話

 個室の扉が開いたのは、宝石のように輝く夜景を横目にメニューを眺めていた時だった。

「あら、思ったより早かったわね」

「お前なぁ……。突然呼び出しておいて労いの一言もナシかよ」

 疲れと呆れが混じった表情で、靴を脱いだ相手が入ってきた。

 率直すぎる男の第一声に条件反射で返そうとして、寸前で思い留まる。

(そういえば、さっきカズヤにも言われたっけ……)

「心配する素振りすらない」、「人を気にかけることもしない」と。

 まさに今同じことをしていたと気づき、真矢子は盛大に落ち込んだ。確かに自分は相手への気遣いを怠ってきたのかもしれない、と。

 彼氏に愛想をつかされた原因を思わぬ形で突きつけられ、項垂うなだれる。これで一方的に相手を責めるのはお門違いだ。

 わざわざ呼びかけに応じてくれた相手に、開口一番告げるべきことではなかった。

 今更手遅れだと知りつつもフォローを試みる。

「えっと……、その、お疲れさま。急に連絡したのに来てくれたのね。寒かったでしょうから、もう少し暖房強めにしてもらう?」

「何だ? 急にしおらしくなって。お前らしくもない」

「あんたが労えって言ったからでしょうが! 謙虚になったらなったで気味悪がられるし、一体どうしろって言うのよ!」

「悪い。普段の芝田とあまりに態度が違いすぎるから面食らった。それぐらい威勢がいい方がほっとするな」

「何なのよ、もう……」

 真矢子は脱力した。

 結局人によって自分に望んでいる姿が異なるのなら、使い分けるしかないということか。そんな労力、できれば使いたくはない。

 少なくとも、この男の前では、取り繕ったり変に気を遣ったりしなくていいとわかっただけよしとする。

 どうせすぐには変えられないのだ。それなら、素を出せる相手にはこれまでと同じ距離感で接したい。


「それにしても、前振りもなく電話してきたと思ったら、『今からすぐ来い。ヤケ酒につき合え』だからなぁ。俺に予定があると思わなかったわけ?」

「この間会った時は彼女いないって言ってたじゃない。私だって、相手のいる人を今日なんかに選んだりしないわよ」

「そういう芝田はどうなんだ? クリスマスなんだから、彼氏とデートなんじゃないのか。まあ、俺と会ってる時点で大方のところは察するが」

「わかってるなら聞かないで。待ち合わせ場所にも来ず、散々人を放置した上で、電話越しに『別れる』の一言よ。あんな奴との最悪な思い出で今日を終わらせたくない」

「……そういうことか。事情はわかった。つき合ってやるから好きに飲め」

「ありがとう。でもここは私が全部持つから、須賀野も好きな物を食べて」

 と、メニューを渡しながら、向かいに座る須賀野すがの しゅうを見やった。


 須賀野がコートとスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた状態で寛ぐ。

 シャツの袖から覗く腕時計が男性物にしては細身で、シンプルなシルバーの文字盤が照明に反射して鈍く光っていた。

 やや長めの前髪をサイドに流し、切れ長の瞳をすっきりさせている。

 その顔立ちから、黙っていると怖そうなイメージを与えることも多い。一方で、口元は柔和な笑みを湛えていて、初対面の人間を身構えさせない術を身につけていた。

「この店は元々今日来るつもりだったのか? 和食好きとしては相伴にあずからせてもらってありがたい限りだけど」

「別の店を予約してたけどキャンセルしたわ。ドタキャンされた時点でフレンチの舌じゃなくなったのよ」

「それはますます幸運だな。せっかく芝田が奢ってくれることだし、しっかり食べるか」

「私もそうする。遠慮なく食べて飲むわ」

「普段から遠慮なんてしないのに何言ってるんだか」

 苦笑しながらも、既に須賀野はじっくり選ぼうとする真矢子を待つ態勢を作っていた。


       ***


 須賀野の存在を認知したのは、大学時代に偶然講義で言葉を交わしたことがきっかけだった。

 聞けば同郷とのことで、地元の話で盛り上がってすぐ打ち解けたのは言うまでもない。

 部活やサークルには入らなかったので、大学で会うのは教室だけだった。でもその接点が後々まで影響した。二人の交流を呼び水にしてお互いの友人達とも繋がりができ、気づけば仲の良いグループができあがっていたからだ。

 真矢子にとって、四年間で一番楽しかった思い出がそのグループで過ごした時間だ。中でも、メンバーとして真っ先に名前を挙げるのはやはり須賀野だった。

 もちろん気が合うというのが大きな理由だ。そしてそれ以外でも、真矢子は彼に一目置いていた。

 当時から歯に衣着せぬ物言いで、周囲からややきつい印象を抱かれていた真矢子に対し、須賀野だけはどんな態度を取ってもフラットに応じていた。

 誰が相手でも調子を変えず、きちんと意見や言い分を聞く。なおかつ、自分の考えもしっかり述べ、双方が納得できる地点を探っていく。

 せっかちな性格から、何かと衝突してしまいがちな真矢子にはなかなか真似できないことだった。


 須賀野は須賀野で、婉曲な言い回しや面倒な駆け引きを必要としない真矢子の気性を気に入ったらしい。彼女が一人怒っていても、面白がって静観しているのが常だった。

 社会人になってからもグループぐるみでの交流は続き、定期的に飲み会を開いては、新人としての苦労話や大学時代の懐古話に花を咲かせていた。

 おかげで、須賀野が丁度フリーなことも知っていた。いくら何でも恋人達のイベント真っただ中な日に、問答無用でヘルプ混じりのコールをするほど無神経ではない。

 この男なら来てくれるだろうという確信があったからこそ、こうして気軽に食事をしようとしているのだ。

 それほど真矢子にとって居心地の良い関係を築いている唯一の相手が、須賀野という男だった。


       ***


「別れ話をするならするで、どうして面と向かって直接言わないの? 意気地がないにもほどがある!」

「そりゃあ、芝田の剣幕を予想してたら及び腰にもなるだろ。絶対怒ると怖い女だってバレてたな」

「元カレの前で、そんなに怒った覚えはないわよ」

「芝田が怒りを認識してた時の出来事より、もっと小さな言い合いなんかで感じ取ってたんじゃないか? 本気で怒らせると火を噴くに違いないって」

「ほんとに失礼ね! 私だって……、ちゃんと話してくれたらむやみに怒ったりしないわよ」

 確かに沸点が低い自覚はあるけれど、理由も聞かないうちから攻撃的な感情を振りまいたりしない。まずは話し合う姿勢を意識しているつもりだ。……それが上手くいっているかは別として。

 今回真矢子が釈然としなかったのは、あらかじめ会う約束をしていながらそれを破り、向かい合う形で話をしようとしなかったこと。

 そして、真矢子に嫌気が差した部分について、これまで一度も言及してこなかったことだ。

 気に障るところや至らないところがあったのなら、その都度指摘してほしかった。最後の最後に駄目出しされても改善のしようがない。改めるチャンスすら与えられず、こちらが苦い思いを飲み下すしかないではないか。

 いっそのこと、最後だからと徹底的に欠点をあげつらわれた方がマシだった。別れの儀式があまりに中途半端で、さっさと割りきることもできない。


「私に振り回されるのに疲れたって言ってた。『自分の思い通りにさせてくれる奴がほしいなら他を当たれ』って。そりゃ、ちょっと気遣いが足りなかったかもしれないけど、そんな風にしか思われてなかったのって、やっぱり私が悪いの? 自分は意見も希望も何も言わず、『お前の好きにしていい』って鷹揚に構えてたのに? いっそ『たまにはあなたの行動に従うわ』とでも答えたらよかった?」

 自問しながら即座に頭を振った。男の三歩後ろを歩くような大和撫子なんて、到底なれそうにない。

「馬鹿だなぁ」

「……ちょっと、どういう意味?」

 端的に評した須賀野に、つい喧嘩腰で切り返す。

 貶されたのだと解釈して応戦しようとしたら、「最後まで聞けよ」とたしなめられた。

「思ってもないことを言って、必要以上に自分を責めるのは馬鹿だって意味だよ。あと、芝田は一つ勘違いをしてる」

「勘違い?」

「芝田は相手にわがまま言ってた自分が悪いって思ってるみたいだけど。それ、相手の男が彼女のわがままを許容できない程度の度量だってだけだから。芝田を受け止められる器の男じゃなかったってだけの話」

 考えもしなかった視点からの慰めに、思わず目を見開いた。

「つまり、芝田に自分と釣り合う男を見極める目がなかったってことでもあるけど」

「感心した次の瞬間に落とすのやめてくれない!?」

「心外だな。自分自身を過小評価しすぎだって言ってるんだ。もっとお前の本質を見てくれる奴を選べよ」

 何となく真矢子を持ち上げてくれているのはわかる。そのままの真矢子の性格を認めてくれる男性に出会えるはずだと、励ましてくれているのも。

 真矢子だって、妥協だらけの恋愛なんてしたくない。何でも言い合えて、多少ぶつかっても一方的に我を通したり拒絶したりせず、お互いが歩み寄れる関係に憧れを抱いている。

 理想を語るだけなら簡単だ。けれど、神様はそこまで都合の良い存在を用意してくれてはいない。

「どこにいるのよ、そんなパズルのピースみたいにぴったりはまる人……」


「目の前にいるだろ」


 箸が止まった。

 言葉の中身を咀嚼して、飲み込むと同時に相手を凝視した。

 ……今、この男は何と言った?

 真矢子に見合う理想的な男性として、自分で自分を推薦したということだろうか?

 そうだとしたら、何のために? このタイミングで敢えて波紋を投げかけてくる意味は?

 わからないことだらけなのが癪で、わざと一呼吸置いてみる。

「……随分自信があるのね」

「当然だろ。知り合って何年経つと思ってるんだ」

「もう七年……八年? 時の流れは早いわね」

「このまま思い出話に持っていって流そうとしてもいいけどな。言ったことは取り消さないから覚えとけ」

「……っ」

 あっさり意図を見抜かれた。

 ご丁寧に釘まで刺してくるあたり、聞かなかったことにしようとした真矢子の胸中を読んでいたに違いない。

 逃げを打つつもりはなかった。念のため、情報共有の一環として自分の立場を差し込んでみる。

「もしかして忘れてない? これでも一応、失恋直後なんだけど」

「その割には、泣くほど好きな素振りも未練がある様子も窺えないな」

「……」

「その理由も、俺がいるからだって自惚うぬぼれてもいいと思ってるんだけど?」

 否定できないところが悔しい。

 確信を持って揺さぶってくるところが悔しい。

 何より、


「顔真っ赤だぞ」


 いつも理知的な色を宿す切れ長の瞳が、心底嬉しそうに笑んでいる姿を目の当たりにして動揺する自分が悔しい。

 頬がやけに熱いのは、決してアルコールのせいだけではないことを理解しているから尚更悔しかった。

 どうしてそんな無防備な表情を向けるのか。どんな反論も甘く封じる準備をしているのか。

 これではまるで、まるで真矢子を以前から特別な存在として見ていたと表しているようで──。


「ちょっと……ちょっとだけ、待って。せめてこのご飯だけは美味しく食べさせて。その後なら、ちゃんと考えるから……」

 辛うじて折衷案を挙げることでこの場を回避した。ただの時間稼ぎだとわかっていても、このままだと抗えない力に流される気がした。

 仕切り直すために使った言い訳は我ながらお粗末なもので。

 しかしどういう理屈か、「食べるの好きだもんな」と須賀野も頷き、綺麗な箸遣いで魚の煮付けを平らげ始める。

 そうして僅かなタイムを申し出たものの、以降真矢子は彼とまともに目を合わせられず、料理の味も曖昧なまま食事を終えた。

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