第7話

 ティロルは小さく息を吐いた。


 ロラゲが毎日の鍛錬を欠かさない理由がわかったからだ。


 フレダ・ティロル。 


 彼女は庶民の出だ。


 父は街の図書館で司書をやっていたが、病気がちな母と自分を養って不自由のない生活ができる程度には収入があった。


 そんな彼女は、ロラゲが彼の家にそこまで固執する理由が理解できなかった。


 否、理解はできた。


 この学校には貴族や銘家出身の生徒が数多くいるし、彼ら彼女たちは自発的ではなくとも、親兄弟から期待と責務を背負わされて送り出されてきていることがほとんだ。


 そんな話を聞くたびに、ヒトの在り方の境界線が曖昧になる。


 肉体を覆うように、彼らには姓(かばね)が付きまとう。


 あるいは、個の内側にプライドと本能が見え隠れする。


 外側と内側。矛盾しているが、印象としてはこの通りだ。曖昧な境界線。ぼやけた外殻。


「ねえ、こんな考え方があるの」本で読んだのだけど。


 これは、自身の意見じゃない。そういう前提で聞いてほしい。そう伝えた。


 ──ズルいわね。


 しかし、会話を求めたのはロラゲからだ。身が弱って、心も落ち込んで、ふやけて曖昧になりかけた形を確かめるために壁や床が欲してきた。


「ヒトは思うことで、ヒトは存在する」


「……どういう意味?」


「この世界が虚構で、黒猫が頭の中で思い浮かべているだけだって、あなたは否定できる?」


「は?」


 ロラゲの回答を待たずして、ティロルは続ける。


「あなたたちや、貴族が大事にする一族も、黒猫が想像しただけ。この世界には。いえ、この世界すら存在していないのかもしれない」


「なに言ってるんだよ」


 当然の反応だ。

 己の話には文脈がない。水を流しているところにいきなりチキンスープを紛れ込ませたようなもの。これだけで、自分の言いたいことを推測しろというのは、さすがに知識を持っている側の傲慢だろう。


「もし、世界が作り物で。誰かの物語で。私たちの行動やこれまでやこれからの歴史が決まっているとしたら」


「世界はアリア様がくださる運命で作られている。そんなことが書いた本、発禁処分だよね」


 その通りだ。帝国と公国、両方の国で、アリア教に反する思想の流布は禁止されている。だが、あくまで流布だけだ。


「所有や思想するのは自由よ」


 個人で〝楽しむ〟分には、憲兵隊は手を出せない。


「それに、私はアリア様の教えを否定しないわ」


 どこぞの誰かの思想を知るためだけに、本を所有しているに過ぎない。


「でも、授業から寮の部屋に帰ったら、ベッドの下に隠していた官能系物語が机に置かれてたこともあるから気を付けたほうが──」


「…………」


「ちがっ! これは、そう、友達! 友達の話!」


「そう。あなたに友達がいて何よりだわ」



 衛生科教師、フランシア・ゴルトンは再び憤った。


 ──エロ小説読んでるのに、なんでさっきの冗談に気づかない!


 ご休息とか、鉄板ネタだろうに。


 官能系、というか卑猥な冗談においてご休息=子づくり行為は鉄板ネタだろうに。どうして二人して気づけない。


 特に、ギヨーム・ロラゲ。


 ティロルはまあ、いい。官能系物語を読んだことがなくて、知らないなんてこともわかる。


 だが、ロラゲ、君は気づいてしかるべきだろう。


 まさか、気づいてスルーした?


 もっと恐ろしいのは、気づいていたうえでわからないフリをしていたときだ。


 ゴルトンの発言のみならず、ティロルからのご休息の意味についての問いかけにも

慌てず無知を示した。


 恐ろしい。


 己の感情を隠し通し、相手と同等の知識量を演じられるのは、世渡りにおいて重宝していくスキルだ。


 しかし、

「相手に意識させないのも損だと思うがな」


 雰囲気作りは大事だぞ、と扉越しに若人たちへアドバイスを送るのだった。

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