第3話

 女に連れられ、ソフィアは食堂へと入った。


 夕食もここで取ったが、人の入りは今の方が多い。


「昨日は休日だったから街に出て食べていた人も多いわ。それに、朝から外で食事しようという人も少ないだろうし」


 カウンターで受け取った朝食を席に運びながら二人は自己紹介を済ませる。


 隣人の名前はナタリヤ・ロプーヒナ。ソフィアの実家があるアムマイン帝国の出身で、昨年からこのエルゼール士官学校に入学している。


 つまり、ソフィアにとって一年先輩だ。


「ナタリヤ、でいいわ。ソフィア様」


「先輩を呼び捨てになどできませんわ。それに、様もやめてください」


「どうして? 祖国の貴族に敬意を払うのは当然じゃないかしら?」


「貴族であることに誇りを持っていることは確かですが、驕るつもりは一切ありませんのよ」


 事実、ソフィア自身が貴族であることは名乗っていない。それでも、ナタリヤがソフィアは貴族であると気づいたのは彼女の名前に理由がある。


 ソフィア・ヴァン・ペトロブナ。


 アムマイン帝国において、名と姓の間に〝ヴァン〟と入れば、その者が貴族であることを示す。これによって、平民は初対面でも、相手が敬意を払うべき貴族であると認識できるのだ。


「郷に入っては郷に従え。ここでは先輩であるロプーヒナさんにわたくしが敬意を払う道理はあって、ロプーヒナさんがわたくしに畏まる理由がありませんの」


「そう、それなら私のことはナタリヤと呼んで。私もソフィアさんと呼ぶから」


「承知しましたわ。ナタリヤさん」


 呼び方は軽くなり、しかし最初からお互いに敬語を用いていない事実に気づいているナタリヤは少し嬉しそうに笑う。


「どうかしましたの?」


「可愛い後輩が出来て嬉しいのよ」


「はぁ」


 特段可愛げを放ったつもりもなく、褒められている自覚も持てずにソフィアは曖昧な返事とカップを口に着けてやり過ごす。


 ──あ、これは可愛くないかもしれませんわ。


 朝食のメニューは実家で出ていたものとほとんど遜色ない。


 ブレートヒェン──円形のパン──とハムとソーセージ。バター。それにゆで卵。フルーツもいくつか。


 違うのはハムやソーセージの種類を選べないことぐらいだ。実家では、起こしに来たメイドがその日の気分を訪ねてくれ、それに合わせて用意してくれていた。


 我が儘できなくなる。わかりきっていたことなので、不満はない。今のところは。


 パンにナイフを入れ、上下に分ける。


 完全に切り分けず、少し繋がりを残しておくのはソフィアの好みだ。


 ──こうすれば、落ちませんから。


 断面にバターを塗り、その上にハムを挟む。


 口を小さく開けて、かぶりつく。


 バターの塩気とハムの甘み。至ってシンプルだが、朝食はこれぐらいシンプルなのがいい。


「ねえ、こんなこと訊くのは失礼かもしれないけど、ソフィアさんは推薦組?」


 隣に座っていた男女の会話が一瞬、流れを止める。 


 ソフィアはええ、と頷き、拳を机の上に置き、手の甲をナタリヤに見せる。 


 彼女の手の甲には赤い線が浮かんでいる。一見では蚯蚓腫れにも見えるそれは、しかしナタリヤは違う解釈を抱いた。


「鞭……? かしら?」


 彼女の言葉に、ソフィアは驚く。


「初見でそう言ってくださったのは、ナタリヤさんが初めてですのよ」


「他の人はなんて?」


「ミミズ、ハリガネムシ、糸くずなどですわ」


「……女の子の持ち物に抱く表現じゃないわね」


 凄然と言ってのけたソフィアは、言われ慣れているのだろう。


「仰る通りですわ。ナタリヤさんはどうして、これが鞭だと?」


「そうねえ、」


 と、ナタリヤは今一度痣を見直す。漠然だった印象を確かな理由で組み立て直し、


「まず、線が一定の太さじゃないでしょ? 三分の一ぐらいは太くて、あとは細い」


 そこが、太いところが持ち手だ。


 その持ち手を見えない手が振るっていたとして、躍動するのは細い部分だ。


「それに、細い部分がたわんで、だけど、上に向かうよう跳ねている。きっと、たわ

んでいるところでぶつけているのね」


 幼いころの縄遊び。手首のスナップ一つで、たわみの山が反対側まで渡っていったのを覚えている。


 入学してからの馬術の授業。鞭杖を振るえば、跳ね返る力が握る手に返ってくる。


 幼少の思い出と、ここ一年の記憶がソフィアの痣を見たことで結びつき、理屈よりも先に印象という形で抽象的な空想が生まれ、〝鞭〟というイメージを生み出した。


「だから鞭だと思ったのだけど。違ったかしら?」


「正解ですわ。私もこれは。このコードは鞭だと認識していますの」


 コードとは、一部の人間が先天的に身に着ける能力。


 その形は様々で、幾何学じみたものもあれば、ソフィアのような一本の線だけで描かれたものもある。


 持つ者が手の甲に浮かぶコードに抱いたイメージによって、その能力は決定される。


 ソフィアが自身のコードに鞭のイメージを持っていれば、彼女が抱く鞭の役目が、彼女に才能として宿っている。


 だがしかし、コードによる才能もせいぜい人間の限界や常識を超えている程度で、持たざる者が努力を重ねれば保有者と並ぶこともある。


 例えば、水を掌から出すコードを持つ者がいたとする。その者は、自身のコードを認識した時点から水を出せるだろう。


 持たざる者は、もちろん不可能だ。しかし、勉強と訓練により魔法を使役することによって、同等の現象を発動することはできる。


 言ってしまえば、その程度。コードを持っているからと言って、全人類の上に立てるとは言えない。


「コードを持つからと言って優れているとは言えませんのよ」


 そう言うソフィアの声は紙風船のようにゆるりと落ちていく。膨れているが、少し力を籠めれば形を変えてしまいそうだ。


 そのとき、彼女はどうやって乗り越えるのか。隣の部屋で膝を抱えていたら、先輩としてどうやって引っ張り出そうか。そんな事態にならないことが一番かも、と胸中で微かな先輩風を起こしながら、心配しすぎか、と収める。


 少なくとも、コードを所持しているだけで優れているのではないと、表面だけでも理解していれば十分だ。


「それもその通りね」


 肯定。


 一つの会話が終わり、ここからは食事のターン。実家や、寮のルールなどの細かい話題を継ぎ接いで、ほどよい沈黙を繰り返す。


 二人の皿から食べ物が消え、お茶を飲んだら席を立つ頃かと、そうソフィアが考え始めた時、


「いやあ、隣部屋が先輩でよかったですよ! 色々教えてくださいね! 僕の青色の春のために!」


「おう、教えてやる教えてやる。この学校、美人ばかりだから選り取り見取りだぞ」


「本当ですか⁉ 金髪で胸がデカくて、僕に激甘な娘がタイプなんですけどいますかね⁉」


 横に煩いのが座ってきた。

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