12月19日

 数か月過ぎて、年の瀬の声が聞こえてくる12月19日。年末の休みに向けて「自分の仕事をいかに年内に終わらせるか」というレースでも開催されているかのように、背中を押されるような慌ただしさが社内に蔓延していた。今日は金曜日ということも手伝ってか、土日の休みに向けてその勢いはいつもにも増している。


 腕時計を見ると18時5分。目の前の書類を片付けて…19時にはなんとかなるだろうか?と退勤時間を目算しながらPCと向かい合っていた。真澄さんは30分前に上がっている。彼女のデスクは綺麗に整頓され、社内の慌ただしい空気とは別世界のように見えた。しかし、仕事はきっちり(それ以上に)熟しているのが尊敬に値し、羨ましくも感じるところだ。私はそんなに器用じゃない。


 大量の領収書の中に、明らかに私用のランチのものを発見した。経費にしようという企みなのだろうが、名前まで書いてあるから犯人は歴然だ。

「丸山さん!これは経費になりません!」

 領収書を掲げてみると、社内全員の視線がそれに集まる。

「あ~、ごめん、ごめん天崎さん。間違えて渡しちゃったみたい」

 小太りで少し髪の薄い丸山さんはコミカルな動きで領収書を受け取りにきた。同時に社内が笑いに包まれる。

 無駄なやり取りで帰宅時間が遅くなることにイラっとし、舌打ちをしたい気分だったが、決して給料が高くないサラリーマンの小さな抵抗だろうか…と思うと同情の念も沸き、「しっかりしてくださいね」とだけしか言えなかった。


 そう、このようにいくら年上の社員にだろうと、経費担当としては言わなければ言えないときがある。仕事だから仕方ない。しかし、これを男性社員の目線で見れば、「堅物の経理担当」としか思えないんじゃないだろうか。これでは社内恋愛なんて発展するわけがない。


 8月に別れた彼は、友達とバーで飲んでいる時に知り合った。俗にいうナンパだ。建築関係の仕事をしている同年代の男性。スポーツが好きで学生時代は野球をやっていたらしい。社会人になってからも野球やサッカーなどいろんなチームに所属していた。体を鍛えるのも趣味だったようで、筋肉質の体で動物的な荒々しいセックスを好んだ。AVのような行為を私にも求めたが、別に嫌いじゃなかったから彼に応じた。上手くいっていると思っていたのは私だけだったようで、突然「好きな人ができたから別れたい」と。一年ほどの付き合いしかないから彼の全てを知っていたわけじゃない。「結婚」を意識していなかったわけじゃないが、「早く別れることになってよかった」と強がってみせたのが数か月前。


 PCを閉じたら時間は19時10分を指していた。男性陣の年末に向けてのレースは継続しているようで、数人の男性社員がデスクワークに集中している様子だった。


「お疲れ様です」と声をかけ事務所を後にした。


 もう、今年も10日で終わってしまう。毎年、「年内にやり残したことはないか?」と焦るが10日程度でできることなんてそんなにないってこともわかっている。せいぜい大掃除をいう名目で普通に部屋を片付けるくらいだろう。

 更衣室のロッカーを開けて、「ここも掃除しなきゃな…」と呟いてみた。男性社員から頂いた旅行のお土産なんて(特に置物…)、部屋に持って帰ろうとは思えない。でも捨てることもできない。そしてこのロッカーに一時保管するのだった。女子のロッカーなんてそんなものだ。だから、お土産は食べ物に限る!

 年末は実家に帰る予定だ。結婚の話題は避けてほしいが、数日滞在するのだからそうはいかないのだろう。ケンカにならないように気をつけようと思っていても、帰ることには母親と一戦交えることになるのがいつものこと。いつから実家の居心地が悪くなったのだろう。


 外はもう真っ暗だ。寒波が来ているようでマフラーと手袋が手放せなくなっているここ数日。先日購入したカシミヤのマフラーを巻いてエレベーターの前に立った。金曜日の仕事が終わった達成感を小さく感じ、今夜の至福のビール一杯に思いを馳せている。


「あれ?エレベーター来ない…」


 エレベーターが5階でずっと止まっている。5階は今改装中で、いろんな業者が出入りしているようだった。きっと、何か運ぶのにエレベーター独占しているんだ。待ってても乗れない可能性がある。

 隣にある階段の扉に視線を移した。3階だから階段で下りてもそれほど苦でもない。私は非常階段と書かれた扉を押して、人気のない階段フロアにヒールの足音を響かせながら階段を下りて行った。


 3階から1階なんてそれほどかかるものじゃない。数回、体を反転させ折り返せばあっという間…、のはずだった。

 まだ2回しか体を反転させていない2階を下りたところで座ってる男性に遭遇してしまったのだ。

 スーツ姿の背中は丸く、(元気さは全く感じられず)何か凹んでいるのは見てとれる。


「あれ?山…下くん?」


 ウェーブがかった栗毛の、この姿は新入社員の山下君だ。(もう、入社して9か月ほど経っているから「新入社員」とは失礼かもしれない…)

「あ、天崎さん…」

 振り向いた大きな目は潤んでいるように見えた。


 こんな人気のないところでしゃがみ込んで、目を潤わせている…。とてもバツの悪い所に来てしまったと、エレベーターを待たなかったことに後悔した。


「どうしたの?こんなところで」


「ご、ごめんなさい!邪魔ですよね、こんなところに座ってちゃ…」

 山下君は少しお尻をずらして、私が通るスペースを開けてくれた。この空いたスペースを通って「それじゃ、お疲れ様」と言って通り過ぎて、家に帰って週末の解放感の中、冷えたの缶ビールに口をつけるか。または、この明らかに何か悩んでいる青年に声をかけ、先輩らしく何かしてやるか。でも、経理の私に何か言えるのだろうか?いや、仕事の悩みかどうかもわからない…。そもそも、悩んでいるのか?

 私は沈黙していたのは数秒だろうが、脳内ではフル回転の思考の末…。


「山下君、あなた退勤は済ませた?」


「あ、はい…」


「今夜、予定あるの?時間ある?」


「いえ、予定は何も…」


「じゃあ、私にちょっと付き合いなさい」

 ヒールの音を響かせ階段を下りる私の後を、小さな足音でついてくる山下君。それは、悪さをした飼い犬が、主人の機嫌を伺いながら後をついてくような様…。別に、山下君とは主従関係でもないし、直属の部下でもないし…、階段に座り込んでいた新入社員と、それをたまたま見つけた先輩社員の関係だ。

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