人はいつも

草谷奈々

第1話

 ちりん、と鈴が鳴る。初めてのことだった。

手に持っていたコーヒーを机に置き玄関へと向かう、そこに立っていたのは中学生程の女の子だった。私が顔を出すと驚いたように肩を揺らし、顔色を窺うようにこちらを見ていた。近所の子だろうか、あまり外へ出ないから分からないな。


「やぁ、君は来館者さんでいいのかな?」


博物館を始めてから人が来たことなんてなかったから、年甲斐もなく少し緊張してしまう。


「あ、あの、入館料って。いくらですか?」


きょろきょろと視線をさ迷わせながら話す、きっと全部が珍しくて仕方ないんだろう。


「お金は取っていないんだ、私の好きなものを飾っているだけだからね。」


私の言葉を聞いて彼女は驚いたように「でも」と喋ろうとするのを遮らせてもらう。


「もし気が引けるようならコーヒーでも買っていくといい。」


私が淹れたものは機械が入れるのとはまた違って美味しいんだよ、そう言って微笑めば彼女は安心した様に少し肩の力を緩ませた。もしかしたら、私が怖いのかもしれない。今更ながらその考えに至り、気づけなかった自分をせめる。さっと自分の手が届かない距離に移動し、改めて自己紹介をする。大昔に使われていたソーシャルディスタンスももしかしたらこんな感じだったのかもしれない、そんなどうでもいいことを考えながら。


「そういえば自己紹介がまだだったね、私はフジタと言うんだ。」

「フジタさん……。もしかして、名字ですか?」

「そうだよ、私はあまり自分の名前が好きじゃなくてね。」

「そうなんですね。あ、いや、ちょっと珍しいな。って思っただけです。すみません、聞いてしまって。」


首と肩をちぢこめて防御の姿勢をとる姿は亀のようだなと思った。


「いや、いいんだよ。大した理由じゃないし、君の言う通り私が珍しいだけさ。謝ることじゃない。」

「あ、えっと、私はアマネって言います。前からここ素敵だなって、思ってて。」


そこまで言うと彼女の顔が赤くなっていった、さっきからちょっとどもりがちだし照れ屋な子なんだろうか。


「ありがとう、そう思ってくれて嬉しいよ。好きなだけ見ていきなさい。」


赤くなったままの顔がパァっと明るくなり、順路の案内通りに進んでいった。ああいう子ならきっと展示品を壊すような悪さはしないだろう、そう思い私は冷めてしまったであろうコーヒーを取りに戻った。展示品も多いわけでは無いからそう時間もかからない。


 そう思って待っていたのだけど、来ないな……。逆走しない限りここは通るはずだし、何かあったのかな。少し見に行ってみようか。そう自分が決めた順路をさかのぼっていくと、ある物の前で止まっているのを見つけた。随分と熱心に見ているようで近づいてきた私にも気づいていない。彼女が見ているのは画材だった、イーゼルに乗ったキャンバスや絵の具、パレットに筆なんかも展示してある。


「アマネさん。」


なるべく驚かせないように声をかけたつもりだったが、どうやら失敗らしい。彼女は来た時のように肩を震わせ、バッとこちらへ振りむく。


「ご、ごめんなさい、閉館時間ですか? 」


「あぁ、いや、違うんだ。随分熱心に見ているなと思ってね、つい話しかけてしまった。」


邪魔してごめんねと続けると、彼女はぶんぶんと首を横に振る。


「君は絵を描くのが好きなのかい?」


そう聞くと、言いづらそうに顔を伏せてしまった。踏み込みすぎてしまったかもしれない、話題を変えようと口を開いた時、彼女は話し始めた。


「私、絵が好きなんです。見るのも描くのも。特に水彩や油絵の風合いとか存在感が好きなんですけど、親に部屋が汚れるからダメって言われちゃって……。」


掃除するのは機械なのにおかしいですよね、そう苦笑いを浮かべながら続ける。


「結局何言ってもダメなんです。特にうちの親は前時代的なものが嫌いみたいで。」

「それは、残念だね。前時代のものでも素敵なものは沢山あるというのに。」


価値観を共有出来ないのはしかたないとしても、無理解をぶつけられるととても生きづらくなる。親といった身近な人間であればなおさらだろう。

何かに惹かれるようにガラス戸の向こうに目をやる、展示物としてその一生を終えるであろう画材たち。見つめていると、ある思い付きが口をついて出ていった。


「もし良かったら、これ使うかい?」


そう言って視線を彼女に戻すと、ぽかんという擬音がぴったりな程に固まっていた。そしてだんだんと口や目を大きく開きびっくりしたような顔になっていく。次に首と手を横に振り、喋り始めた。


「えっ、だ、だめですよ! 貴重なのにそんな!」


一生懸命遠慮するその姿がなんだかおかしくて、失礼だけど笑ってしまう。


「はは、良いんだよ。私も今自分が言ったことに驚いているんだ。きっとこの子たちに言わされたんだろう。働きたいんだよ、だから君が良ければ使ってあげて欲しい。」


私は絵が描けないからね。そう言い切れば彼女はパァっと顔を明るくした後、またしゅんと目線を下げてしまう。


「すごく嬉しいです、でも、描く場所が無いので……。すみません。」


そういえばそんな事を言っていた、そうだな。


「もし君がここでいいなら場所は貸せるよ。何せ人が来ないからね。」


すると彼女は黙り込んでしまった、考え込んでいるんだろう。急にいろいろと提案しすぎたかな。


「コーヒーでも飲みながらゆっくり考えるといいよ、コーヒーは好きかい?」

「あ、はい。でも、えっと、砂糖は頂きたい、です。」

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