第20話 オバケに会った日


 夢を見た。まだ小学生だった頃の夢。


 その日は土曜日で、学校はお休み。だけど二つ年上のお兄ちゃんと私は、夕方まで校庭で友達と一緒にボールや遊具を使って遊んでいた。


 その日はお昼過ぎまでミニバスケットボール部が他校と練習試合をしていて、体育館が使えなかったのを覚えている。だけどお兄ちゃんはバレーボールがしたいと言って、本当はダメなのに夕方の体育館に侵入したのだ。


 すでに練習試合は終わり、バスケ部は撤収していて、電気も消えて仄暗い。

 誰もいない夕方の体育館。友達は『ここ、夜はオバケ出るって噂あるよ……』と怖気付いていたが、お兄ちゃんは『大丈夫だよ!』と友達を強引にその中へ引き込んでしまった。


 一方の私はというと、あまりバレーボールには興味がなくて。体育館の入口に座り込み、お腹が空いたなあとひとり考えながら飴玉をくわえては、口の中でころころと転がす。


 暇さえあれば飴玉を舐めていたせいか、様々なフルーツ味のそれがたくさん入っていたはずの袋の中身はいつしか嫌いな檸檬味だけになってしまっていた。いくら探せど好みの味は見当たらず、私は溜め息混じりに肩を落とす。



『あ~……イチゴ味も、メロン味も、もうなくなっちゃった……レモン味、好きじゃないのに……』



 むう、と唇を尖らせ、飴玉の入った袋をリュックにしまった私。するとその時、突然お兄ちゃん達が悲鳴を上げながら体育館の入口まで全速力で駆け戻ってきた。


 顔面蒼白の彼らに私は目を丸める。



『お兄ちゃん、どうしたの!?』


『お、オバケ……! オバケがいる!』


『え? オバケ?』


『体育館倉庫から、泣き声がしたんだよ! 助けて、助けて、って……!』



 お兄ちゃん達は顔を青ざめて震えていたが、当時まだ十歳前後だった私の反応だけは他と違った。オバケという未知の存在に、恐怖心よりも好奇心の方が勝ってしまったのだ。



『えー! ほんと!? いいな、見たい!』


『はっ!? おま、何言ってんだ! やめろよ結衣、呪われるぞ!』


『大丈夫だよ、だって泣いてるんでしょ? きっとお腹すいてるんだよ! オバケ、レモンの飴玉好きかなあ……私、ちょっと会ってくる!』


『おい、結衣!』



 止めようとするお兄ちゃん達の静止を振り切り、私は仄暗い体育館の床を蹴って駆け出した。当時おてんばだった私は知っていたのだ。体育館倉庫は普段鍵がかかっているけれど、裏の通路の壁にはおデブのテッちゃんがぶつかって出来た大きな穴が空いていて、そこから中に侵入出来る事を。


 普段は大きなマットが積み上げられ、ガムテープで塞がれている穴。それを一つ一つ崩して、私はすすり泣く声が聞こえる狭い倉庫の中に侵入した。


 そして、あの日、私は出会ったのである。


 男の子のオバケに。




 * * *




「……ん……」



 ──ピピピ、ピピピ……。


 スマホのアラームが朝を告げ、私は寝惚けた意識をなんとか浮上させて枕元で鳴り続けるそれに手を伸ばした。しかし先に別の手がその音を止め、続いてあたたかな体温が私の背中に密着する。


 なんだろ、あったかい。いい匂いがする。


 ぼんやりしたまま寝返りを打ち、無意識にその温もりを抱き寄せた。すると腕の中のそれが一瞬びくりと身を強張らせたように感じて、私の意識はふと鮮明な色を帯びる。


 どくどく、早鐘を打つ鼓動。それがすぐ近くから耳に届いて、私は顔をもたげた。



「……?」


「……おはよ」


「お……はよ……」



 視界を埋めつくしたのは、やけに至近距離にある武藤くんの顔。……あれ? 何で武藤くんがここに──と一瞬考えて、ようやく私は昨晩自分が彼の家に転がり込んだ事を思い出した。


 他に寝る場所がないという理由で、武藤くんのベッドを借りて一緒に眠りについた事も。



「……!!」


「……六藤さん、意外と積極的だね。自分から抱きついてくるとは思わなかった」


「……っ、し、し、失礼しましたっ!」



 寝ぼけて抱きついてしまった事を同時に認識し、私は声を裏返すと即座に彼から離れて距離を取る。あまりに恥ずかしくて両手を握り合わせながら背を向ければ、とんと肩に顎を乗せられた。



「へ……!?」


「……もう離れちゃうの」


「えっ、あっ……し、仕事あるから……!」


「ふーん……じゃあ、あと五分だけ。寒いから」


「きゃ!」



 さりげなく脱しようとした体をベッドの中に引き込まれ、有り余るほどの体温でぎゅっと抱き締められる。途端に硬直する体。

 昨晩は彼の宣言通り、本当に何もなかったわけだが──これはこれで緊張する。



「……六藤さん、あったか」


「あ、あの……っ」


「……今日さ、会社終わるの何時?」


「え……」



 突として問われ、私は一瞬口ごもった。しかしやがて「六時……」と答えれば、「分かった」とまた抱き寄せられる。



「じゃ、六時に迎え行くね」


「……ええ!?」


「俺ん家までの帰り道、分かんないかなと思って」


「い、いいよ! 大丈夫だから! スマホのマップがあるし!」


「六藤さんのスマホ、大事なとこで充電切れるっていう前科持ちだから信用ならない」


「う……!」



 痛い所をつかれ、私はぎこちなく目を逸らした。



「でも、武藤くん忙しいだろうし……」



 そうおずおずと紡げば、即座に彼が声を被せる。



「綾人」


「え」


「……武藤くんじゃなくて、綾人って呼んで」



 耳元で囁かれる声が甘く響いて、また心臓が大きく跳ねた。あ、どうしよう。やっぱり胸がきゅーってなる。



「……な、何で……?」


「俺達、同じムトウ同士なんだから苗字で呼び合うのちょっとややこしいじゃん。名前の方がいい」


「でも……同じ家にいて、名前で呼び合うのって、なんか、その……付き合ってるみたいで……」


「……じゃあ、ほんとに付き合っちゃえば──」



 ぽつりと呟かれた言葉。「へ!?」と思わず声を張り上げて振り向こうとしたが、すぐさま武藤くんの大きな手に頭がガシッ! と固定されてしまい振り返る事が出来なかった。


 汗ばんだ手のひらに強く押さえつけられて、私は困惑しつつ目を泳がせる。



「っ、え……!? あ、あの……今……」


「……ごめん、完全に間違えた。今のなし。……しばらく、こっち見ないで」


「え、あの……」


「違うんだよ、違くて……いや、違くはないんだけど……その……このタイミングは違うというか……」



 珍しく歯切れの悪い言葉を紡ぎ、首筋に深く顔を埋められた。先程の発言の意味がいまだに咀嚼しきれていない私の頭には都合のいい考えがいくつも浮かんで消える。


 戸惑う私に密着したまま、「……あのさ、ちょっと聞いて欲しいんだけど」と武藤くんはくぐもった声を紡いだ。



「……俺、昨日六藤さんとの電話切れた時、ほんとに焦ったの。ここ数年で一番必死に走った。煙草吸ってんの後悔するぐらい肺痛かったけど、それでも走った」


「……っ?」


「六藤さんが誰かに触られたらどうしようって思って……。最初の合コンの時も、佐伯さんと飲んだ時もそうだったけど……六藤さんが俺以外の男に触られたり、楽しそうにしてんの見るの、マジで嫌だと思ったから……」


「……な、何言って……」


「簡単に言うと、独占欲強いの、俺。六藤さんが他の男の物になるとか考えんのがめちゃくちゃ嫌なの。……ダサいっしょ、二十代半ばにもなって嫉妬深いとか。自分で引く、マジでガキみてー……」



 弱々しく続く声。武藤くんは肩に額を押し付けたまま、一切顔を上げようとしない。


 けれど〝自分だけの物にしたい〟とでも告げられているかのようなそれに、私の胸はばくばくと早鐘を刻むばかりで。



「……六藤さん」


「……っ」


「俺、中学の時、実は……六藤さんに言いたかった事があって……」



 密着した首元にかかる吐息が熱を持ち、私の体温をどんどん上げる。「聞いてくれる……?」と続いた不安げな声に心臓が掴み取られるようで、私は些か怖気付いてしまった。



「ま、待って……」


「……待ちたくない。今しか言えない気がする。聞いて」


「あ、あの……っ」


「俺、本当は六藤さんの事が、出会った時からずっと──」



 ──ピピピピピッ!


 しかしその時、枕元では再びスマホの大きなアラーム音が鳴り響く。思わずびくりと肩を震わせた私は、反射的に体を起こした。


 五分間隔のスヌーズ設定を忠実に守ったスマホの音を止め、その流れであたたかな毛布から出る。


 しん、と静けさが満たす部屋の中。私はまだドキドキとうるさい胸を押さえ、火照る顔をもたげた。



「……っ、も、もう五分経ったね! 起きよっか!」



 努めて明るく声を張るが、武藤くんからの反応はない。ぎこちなく振り向いた先では、まるでカタツムリのように毛布を深く被った彼がその中に閉じこもってうずくまっていた。



「……武藤くん?」


「……違う。綾人」


「あ……綾人くん」


「……」



 一度呼び方を訂正したきり黙り込み、武藤くん──もとい、綾人くんは布団に閉じこもったまま動かない。やはり強引に会話を絶ったのが気に障ったのだろうかと危ぶんだ私は、そっとその毛布を捲り上げた。



「……あの、綾人くん? 大、丈……夫……」



 恐る恐ると中を覗き込み──けれど、すぐに息を呑む。


 目が合った綾人くんは、まるで林檎みたいに顔を真っ赤に紅潮させて、どこか不安を噛み締めているかのような表情で私を見つめていて。


 今まで一度も見た事のないその顔に、私は思わず硬直した。


 しばらく固まったまま彼を凝視していれば、「……見るなよ……」と消え去りそうな声で呟いた綾人くんが更に頬を染めて深く蹲る。ハッと我に返った私だったが、真っ赤な彼の顔につられたのかこっちまで頬が熱くなってしまった。



「……っ、ご、ごめん!」


「……」


「……あ、あの、私……っ、お、お仕事……の、準備……してきます……」



 しどろもどろに言葉を紡いで、赤い顔を隠しつつベッドに背を向ける。そのまま彼の部屋を出て自分の部屋へと戻った私は、なんとか冷静になろうと自身に言い聞かせたが──先程の彼の発言に頭の中はぐるぐると占拠されるばかりで、一向に煩悩が晴れてはくれなかった。


 こんな自惚れた勘違い、絶対良くないに決まってるのに。



(……告白……されるのかと思った……)



 火照る頬を押さえ、期待の膨らむ胸の前で両手を合わせて握り込む。


 さらりと揺らいだ自分の髪からは、綾人くんと同じ、メンソールのシャンプーの香りがした。


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