第4話 目付きの悪いスーパーマン
ラブホテルで武藤くんと一夜を過ごした、あの日。
結局私はいつのまにか彼の腕の中で寝落ちてしまい、始発をだいぶ過ぎた頃にようやく目を覚まして、ホテルを出た後はそれぞれの電車に乗り込むと別れの挨拶も程々に帰路についたのだった。
幸いその日は仕事が休みだったため、酒と腰痛による気怠さを引きずって出社する羽目にはならずに済んだわけだが──折り畳み式のスマホカバーの内側には、いつのまにやら『武藤 綾人』の名前と携帯番号が記された紙が挟まっていて。
迷いに迷った挙句、一応連絡先を登録してしまった私は、やはり都合のいい女なのだと思う。
「……恋愛の練習の話は、ちゃんと断ったくせに……」
ぽつり。トイレの鏡の前で呟き、髪の毛を結い直しながらあの日の事を思い出す。
──俺と、また、恋愛の練習しない?
そう彼に持ち掛けられた誘いを、私ははっきりと断った。
そりゃあ、常識ある大人なら誰だって断るに決まっている。もうあの頃みたいに子供じゃないんだし、もし了承してしまえば〝キスだけ〟の関係で終わるはずがない。
酔った勢いでああいう事になってしまった以上、「恋愛の練習相手」という言葉がどういう意味なのかぐらい理解できる。
「……セフレなんて御免よ、ばか」
苦く呟いた私は、軽く化粧を直してトイレを出た。するとそれを見計らっていたかのように「ちょっとぉ、六藤さん!」と高い声が呼び止める。
ぎく、と身を強張らせた途端、カツカツと響くヒールの音。来るだろうとは思っていたけど、やっぱり来たか……と私は腹を括った。
「あ……お疲れ様です、
「お疲れ様です〜、じゃないわよ! どういう事なの、この前の飲み会! 何の連絡もなく勝手に帰るとかどういうつもりなわけ!?」
「す、すみません……あの、ちょっと飲みすぎて、その……体調が悪くなっちゃって……」
「嘘ばっかり! アイジくんが言ってたわよ、男と一緒に手繋いで抜け駆けしたって! なんでそういう事するかな〜、有り得ないよね!? せっかく彼氏と別れたばっかりで傷心してるっぽい六藤さんの事、ああやって元気づけようとしてあげたのに! そういう態度はどうかと思うんだけど!」
早口で捲し立てる同僚兼先輩──真奈美さんに、「誰も頼んでないわよ……」と内心ぼやく。
この人の言う事の八割は自分に都合のいい解釈で自動翻訳された虚言だと思った方がいい。あなたのためだと彼女が声を大にする事のほとんどが、捏造もしくは誇張された的外れな見解なのだ。事実無根の覚えのない妄想設定が付与されて、あたかも自分が被害者、あるいは救世主であるかのように話を大きくする事で有名な人なのである。
アイジくん、というのは、あのしつこかった男の名前だろう。彼も余計な尾ヒレを付けて一連の出来事を話したに違いない。おかげで捏造されてねじ曲げられた嘘の事実が見事に露呈してしまっている。
そもそも私、別に傷心してませんけど。勝手にそういうテイに仕立て上げて、『フラれて落ち込んでる後輩を元気づける良い先輩』を演出したかっただけでしょ。
そう胸の内だけで毒づきながらも、表情だけは申し訳なさそうな演出に努めた。そうしないと、これは長引く。
「いえ、彼とは別に何も無くて……あの、アイジさん? に私が絡まれてると思ったらしくて、連れ出してくれたというか……」
「あのねえ、男に弱み見せて守ってもらえるのなんて若いうちだけよ? 六藤さんって今たしか二十五歳だっけ? 同棲してた彼氏にフラれたからってねえ、ヤケになって男捕まえて勝手に消えるとかどうなの? 先輩に恥かかせるって考えなかった? その年になって後先考えずにそういう事するの有り得ないから」
「はあ……すみません……」
どうやら真奈美さんの脳内での私は、『彼氏にフラれた寂しさを埋めるためにヤケになって見知らぬ男と逃避行した』みたいな設定になっているらしい。
それを否定したところで多分この人は素直に聞き入れてくれなさそうだし、連絡もなく帰った事に関しては私の落ち度だ。ここは素直に謝るのが無難。
「あの……本当にごめんなさい。帰るにしても、連絡はすぐにするべきでした……。もちろん私の分の食事代はお返ししますので……」
「そんなの当たり前でしょ! そもそもあなたねえ、謝ればいいってわけじゃないのよ! どうせ男にもそうやってしおらしく控えめな性格を装ってチヤホヤされようとしてるんでしょ! そういう女ってのはねえ、愛されるのは最初だけで本性がバレたらすぐに見限られ──」
「──あ、六藤! やーっと見付けた!」
まだまだ言い足りなさそうな真奈美さんは妄想で塗り固められた偏見だらけの説教を続けようとしたが、不意に別の声が割り込んだ事でその態度が急変した。彼女の視線の先には、すらりと背の高い赤茶けた短髪の男性社員の姿。
「さ、
先ほどよりもワントーン高い声で彼の名前を呼び、真奈美さんはサッと髪を耳にかける。
その場に現れたのは、同じ部署の同僚の一人・佐伯くん。私とは同期で、社内でも人気のある明るいイケメンだ。
彼はにこりと笑顔で真奈美さんにお辞儀すると、なぜか私の元へ駆け寄ってくる。
「ここにいたのかよ〜、探したわ! 今から会議室で先方との打ち合わせが入ってんだけどさ、ほら、今度のキャンペーン企画で使う動画の件」
「え? ああ、夏から動いてる案件の……?」
「そう、それ! あの資料って、どこのフォルダに共有してあった? ちょっと前に動いてた案件だからド忘れしちまって……確か六藤も関わってたよな?」
「う、うん、資料は作ってたけど」
「うおー、良かった! 悪いけど、ちょっと来て教えてくんね!? あ、お話の途中ですみません真奈美さん、申し訳ないんすけど時間ないんで少し六藤借ります!」
言うやいなや、佐伯くんは私の腕を引いて強引にその場から連れ出した。真奈美さんは一瞬むっと表情を曇らせたが、すぐに笑顔を浮かべて「大した話じゃないから、気にしないで〜。会議がんばってね〜」と手を振る。
先程とは打って変わった態度に辟易しつつも、私は一応ぺこりと一礼して、佐伯くんに腕を引かれるまま小走りでついていった。
かくして、私達はPCのあるデスクへ向かう──のかと思いきや。
彼はオフィスには向かわず、途中の資料室の前で立ち止まるとその中に私を連れ込む。「えっ?」と声を発して驚く私の傍ら、彼はしい、と人差し指を立てて悪戯に微笑んだ。そのまま資料室の扉を閉め、暗かった部屋に電気を灯す。
私はしばらくきょとんと目を丸めていたが、ややあって彼の行動の意味を悟ると緩やかに肩の力を抜いた。
「……フォルダの共有場所が分からないなんて、嘘なんでしょ。佐伯くん」
「名演技だろ」
「はあぁ、ビックリした……」
どっと全身の力が抜け、近くのパイプ椅子に座り込む。佐伯くんは「いやー、怒涛の妄想説教攻撃だったなー」と笑い、続けて「お疲れ」と労いの言葉をかけた。
どうやら私が真奈美さんから攻撃対象にされていた事を察し、あの場から連れ出してくれたらしい。ピンチに駆け付けて颯爽と救い出してくれるなんて、まるでスーパーマンみたいだ。目付きは少し悪いけれど。
「お見事です……ありがと、助かった……」
「あの人、六藤が若くてチヤホヤされるの僻んでるだけだから気にすんなよ。うちの部署ってほら、平均年齢けっこう高めじゃん? 六藤が入社するまでは真奈美さんが最年少でチヤホヤされてたんだろうから」
「私、別にチヤホヤされてないと思うけど……」
「してんじゃん、俺というイケメンが」
「出た、自意識過剰。佐伯くんは唯一の同期が私しかいないから、ただちょっかいかけてくるだけじゃない」
呆れつつ言葉を紡げば、佐伯くんは人懐っこい笑みを浮かべて「いーじゃん、イケメンが構ってやってんだぜ」と得意げに
こういう発言もなぜだか憎めないところが、彼の人徳というか魅力なのだろうと思う。
「ほんと調子いいんだから……。でも、佐伯くんのおかげで助かったよ。今度お礼するね」
「お礼なら今してくんね? この後打ち合わせだからさ、お茶出しお願いしたいんだよ。俺がやるの面倒で嫌だから」
「え、そんな事でいいの? ていうか、打ち合わせは嘘じゃなかったんだ……動画の件?」
「そう、そろそろ来ると思う。まだ一回しか会った事ないけど、俺たちと同い年の映像クリエイターなんだよ。なんか去年賞も取ってて、界隈ではそこそこ有名な人らしい。しかも超イケメンでさ、スナップ写真が何度もファッション誌に取り上げられたとか何とか」
「へえ、同い年で映像クリエイター……しかもイケメン? よくわかんないけど、なんかすごいね」
「な、すげーよな。何かを生み出す仕事ってかっけー、大変そーだけど。うちの制作部の階とか見た事ある? 繁忙期とかみんな目が死んでてさ、ゴミ箱の中エナジードリンクだらけなの。マジこえー」
けらけら、楽しげに笑う佐伯くんの言葉に耳を傾け、私もつられて微笑みながら時折彼の横顔を盗み見る。
粗雑な口調だけれど、セットされた短い髪やすらりと着こなしたスーツからは清潔感と頼り甲斐を感じる彼。気遣いもよく出来るし、喋りも達者だし、同期と言えど雑用ばかり押し付けられている私とは大違い。
(今動いてる案件も、佐伯くんが提案して通った企画なんだよね……。すごいなあ、私なんて入社三年目なのに雑用ばっかりで企画会議にもなかなか出して貰えないし……)
鬱々と考え込み、取り柄のない自分と彼を比較して些かへこんでしまう。むうと唇を尖らせていれば、不意に佐伯くんは自身のスマホの画面を確認した。
「はあ、そろそろ打ち合わせの時間だな。準備しねーと」
「あ……持っていくの、コーヒーでいい?」
「ああ、うん。ありがと。一応ミルクと砂糖もつけといて。俺はいらねーけど」
「うん、分かった」
笑って顎を引き、佐伯くんと共に資料室を出る。するとちょうど誰かが目の前の通路を通りかかり、肩がぶつかりかけた私は「あ、すみませ──」と無意識に口走った。が、その時。
振り返って揺れた金髪が、私の視界に鮮明に飛び込んで来る。
「……え」
深緑色のニット帽、檸檬みたいな明るい髪。ピアスがいくつか光る耳と、端正な顔立ち。先日ホテルで別れたばかりのその人と目が合い──互いに、一瞬硬直した。
固まる私の背後では、何も知らない佐伯くんが「あれ!?」と声を張り上げる。
「お、思ったより早いですね!? ──
AYATO──そう呼ばれた彼、武藤 綾人は、来訪者用のICカードを確かに首にかけたまま、しばらく唖然と私の顔を見つめていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます