初喧嘩


中国から無事に帰ってきて,歌子と再開した。「お疲れ様。」とハグしてくれた。歌子は,何でも海外の文化が好きだから,ハグも大好きだ。


いつもの歌子で最初は安心したのだが,付き合っていると,前とは,どこかが違うような気がしてやまなかった。前は,どんな時も私に対して温かく接してくれたのに,いつもではないが,時々びっくりするくらい冷たくされるようになった。


ある時,私から会おうと誘った時のことだった。変な返事が来た。

「時間を有効に使いたいので,今日はごめんね。」


歌子の返信を読み,イライラせずにはいられなかった。

一体,どう言う意味!?私と会うことは,時間の有効な使い方ではないと言いたいの!?歌子って,こうやって損得勘定で人と付き合う人だったっけ?


私と会うことは,時間の有効な使い方ではないのかもしれない。もっと重要な用事があるかもしれない。他にやりたいことがあるのかもしれない。しかし,普通は,そうであっても,それをはっきりと言わずに,断るのは私の常識だった。「今日は,忙しいからごめんね。」なら,曖昧だから,傷つかないが,歌子の言い方は,とても打算的で,冷たくて,心に突き刺さった。


歌子がこういう風に返事をすることが増えた。その度に,戸惑いと憤りを感じるようになり,ある日,とうとうキレてしまったのだ。


歌子に,

「時間を有効に使いたいとか,どう言うことだ?ひどいよ。そう言うことを言われると利用されているだけだと思ってしまう。あなたは,私と付き合いたいんじゃなくて,中国語を教えて欲しいだけでしょう!?私は,中国語を教えたくないのに,教えるためにきたんじゃないのに,いつもそればかり!」

と責めるような内容の長文のメールを送ってしまった。


返事は,「そんなことないよ。時間を有効に使いたいのは,色々やりたいことがあると言う意味だよ。それの何がひどい?」のようなものだった。


歌子の自覚の無さにまたむかついて,他にも色々言ってしまった。歌子は,途中から無視する様になった。これも,また怒りに油を注ぐようなものだった。


次,交流広場で出会った時は,みんなの前では,歌子はいつも通りだった。交流広場が終わり,帰る時間になると,私から声をかけた。

「じゃ,またね。」


歌子も,同じように挨拶を返した。


しかし,私は,このまま帰るわけにはいかないと思った。一度自分の家に向かって歩き出したのに,歌子のことが振り切れずに,追いかけた。

「あなたと喧嘩したくない。色々言って悪かった。ごめんなさい。」

と謝った。


「もう通り越しているから,いいよ。最初は,ムカついたけど…文章力が素晴らしすぎて,逆にムカつくと言うか…日本人は,あんなこと言わないよ。利用しているとか,その言い方は,しない。おかしい。役に立っていると思うよ。それを利用されていると言われるとね…まあ,これからは,接点は減るし,残念だけど…。」

歌子は,とても冷たくて厳しい表情で言った。


「じゃ,何?もう関わってくれないの?そんなにひどいことをしたの?」

気がついたら,私は,泣きそうになっていた。


「バカ。」

と歌子は,顔が急に優しいものに変わり,あまり力を入れずに私のほっぺを引っ叩いた。


少しも痛くなかったが,引っ叩かれて驚いた。気がついたら,泣いていた。

「傷つけたくて言ったわけじゃない。ただこのままだと,仕事に役立つような技術を何も身につけられないから,不安だ。今の仕事は期間が決まっていて,いつまでも続けられない。いつか翻訳の仕事に就きたいと思ったら,このままではダメだ。」


歌子は,これを聞いて,共感できたようで,頷いた。

「そうか。」


少ししてから,歌子が付け加えた。

「そして,思うけど,発音は日本人とは少し違う。私に聞いたら,完璧になれるのに…でも,これまでの子は,本当に日本語ができなかったから,喧嘩とかしたことがないし。まあ,一人だけよくできる人がいたけど…前この町に来た中国語教師で,発音が完璧な人がいたの…でも,あの子は,あなたほど深く勉強していなかった。だから,私に聞いていた。「爆破」と「爆発」はどう違うの?とかね。それで,あの子とは,教え合えた。でも,あなたには,わかるだろうね?爆破と爆発の違い。本当に,よく勉強している。日本語で十分やりとりができるし,私を必要としていない。」


これを聞いて,歌子がこれまで外国人とは,どう言う関係を作ってきたのか,よくわかった。そして,私のこれまで作ってきた人間関係とは,全く違う。


私は,自分にとって何かメリットがあるかどうかなど一切考えずに,人を魅了的だと感じたら,付き合うタイプだ。しかし,歌子は,逆で,自分にとって付き合ってメリットがある人にしか,最初から近づかないようだ。


確かに,歌子がしょっちゅう私に中国語について質問をするのに,私は,日本語についてほとんど聞いていない。しかし,それは,決して自分では,日本語がわかっているや,発音が完璧だと思っているから聞かない訳ではなくて,ただそういう人の使い方をしないだけだ。


私は,十年前からほとんど独学だけで,日本語を学習してきた。あまり人に教えてもらったりしていない。だから,たとえ誰か教えてくれそうな人がいても,聞こうという発想は,あまりなかった。自分で調べれば,わかるようなことは,わざわざ聞かないタイプだったし,人に迷惑をかけたり,借りを作ったりするのも,あまり好きではなかった。そして,お金を出していたらともかく,あまり人の好意に甘えて,しょっちゅう質問したりすると,どんなに優しい相手でも,負担に感じてしまうと思っていた。


歌子は,そうではないみたいだ。逆に,自分がそう言う風に頼られたり,必要とされたりしていないと嫌なのだ。この時に,初めてこれがわかった。


「私は,自分がそんなにできているとは思っていないし,何かおかしいことがあれば言って欲しい。

そして,必要としているかどうかとか関係なく,好きだから付き合いたい。」

と私は答えた。


「よし,これから厳しいチェックが入るぞ!」

歌子は,嬉しそうだったが,面倒だったのか,この後も,歌子が私の発音を直してくれたりするようなことは,ほとんどなかった…。


歌子は,自分の車を指差して,訊いた。

「乗る?」


「いいの?」


歌子は,頷いた。


こんなに簡単に仲直りできたのが不思議で,車に乗ってから,もう一度尋ねた。

「本当に,もういいの?」


「うん,前と同じでいいんじゃない?」

歌子が言って,得意のハグをしてくれた。


前と同じように付き合えると聞いて,嬉し涙が出そうになった。


ところが,この時に,互いにもう二度このことを繰り返さないと約束したのに,何度も繰り返すことになった。急に冷たくされて,私が戸惑って怒り,歌子がそれを無視したりする。この同じパターンで何度も喧嘩をした。


歌子は,「雨が降って地固まるになれば大丈夫。」や「私のあなたに対する気持ちは揺るぎない。」と言った。


私も,「雨が降って地固まる」になればいいと思っていたし,そうなっているとは信じたかった。しかし,今思えば,話を聞いてくれずに無視する歌子のことを私がどんどん信用できなくなり,きつい言葉で怒る私と彼女が距離を置きたくて敬遠する様になり,喧嘩する度にどんどん溝が深まっていく一方だったように思う。振り返ってみれば,何回喧嘩を繰り返しても,一度もその原因について話し合い,決着をつけたことがないような気がする。怒り出す私に歌子が苛立ち,無視をし,頭を冷やしてから,私が必死で謝りよりを戻す。ずっとそればかりを繰り返してきたように感じる。


この後,喧嘩したことに触れるようなことを言っても,歌子はいつも「もう忘れたから。」と言うのだった。しかし,本当は忘れていなかった。過去のことについて話すのは,「有効な時間の使い方」ではないと思っているから話したくないだけだった。「揺るぎない」と言っていた私に対する気持ちも,そこまで揺るぎなくなかった。


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