第一章 洋館の眠り姫

戌神の涙

 その森は、足を踏み入ようものならば入った者は迷う。けもの道があるのでもない。乱雑に茂る中を無理やり進むのだから、それはある意味当然と言えた。


「これは完全に、迷ったな……」


 案の定、猫雅も道に迷っていた。道は猫雅を拒絶するように狭く、誰かの意思があるようにさえ思えてくる。

 森に入ってしばらくは進むことがなんとか叶っていた。しかし、この先――木々の幅がさらに狭くなっている。とても人一人が通れる幅でもない。


「帰れ……帰れ……!」

「誰だ!」


 頭の中に直接、言葉が入り込んでいくような不思議な感覚だった。


「ほう、私に名を問うか。戌神様の名を汚すめ……!」


 戌神様の名を汚す猫人。

 侮蔑と、嫉妬だろうか。声に込められた感情は侮蔑だけではないように感じられた。


「猫人……?」

「君からは猫の気配とともに、戌神様と同じにおいがする。しかし、猫が神になったなど聞いたこともない……」

「猫、神……?」


 猫雅は首を傾げながら、言葉を零す。猫神の名は、人々が生きる世界ではあまり知られていないようだ。


「ネコガミ、か……。仮にそのような神がいたとして、その神では十二支ではないだろう。少なくとも、私は知らん。君が何故戌神様の汚すような真似をしているのかは知らないが、今すぐにやめたまえ」

「違う! 俺はあいつに裏切られて……っ!」


 そこで猫雅の思考が、止まる。

 あいつとは誰なのか。猫雅の頭の中は自問自答エラーで埋めつくされていた。


「俺は……今」

「君は……もしや、記憶を失っているのか。……それは申し訳のないことをした。ここに謝罪しよう」


 その言葉と同じくして、木々がうねりをあげる。まるで猫雅を歓迎するかのように、木々は道をあけた。


「もしかすれば、力になれるかもしれない……! 通るがいい。猫の神よ」


 猫雅は進む。今までとは明らかに違う、道のりに猫雅は感嘆の表情を浮かべていた。木々をこのように動かせることが、新鮮に感じたのだ。


 そして見えてきたのは、巨大な狼。純白の毛並みと、翡翠の瞳。耳の内側はほんのり赤く、狼は丸く横たえている。


「私の名はヒュートラム。戌神の眷属である!」


 狼はそう、名乗った。

 ヒュートラムは目を見開いて、ぎゅうっと閉じる。それから身体を縮めていく。やがて狼からスラリとした手足が見え始め、人の姿が影となって見えた。


「待たせてしまったね。私がヒュートラムだ」


 整えられた髭が特徴的で、背は高く、黒い燕尾服を身に纏っている。漆黒の髪はオールバックにまとめられ、白いメッシュが一房垂れ下がっていた。ただし、狼の耳はそのままだ。


「……君は失った記憶について、どう思っている? 取り戻したいとは思わないのか?」

「取り戻し、たいかどうかは……分からない。でも、俺は失った記憶の中で何があったのか……それだけは知っておきたいと思う」

「そうか」


 温かい陽の光が差し込んで、猫雅の頬にある猫髭のような紋様を照らす。それを見て、ヒュートラムは目を見開いた。


「それは、神威紋……まさか!?」

「ん……?」


 予想もしなかったヒュートラムの驚き様に猫雅は首を傾げるも、詳しく追求することまではできない。なぜなら猫雅は、神威紋と聞いて何を指しているのかが全く分からなかったからだ。


「神威紋がある。だが、しかし……!」


 ヒュートラムの脳内で思考回路が渦を巻く。神威紋――神を象徴するその紋様は、干支のそれでもない。ヒュートラムの全く知らない紋様だった。

 ヒュートラムのよく知っている紋様は戌神の所有する神威紋で、『戌』の文字が象られている。しかし、猫雅のそれは図形だ。円の周りを回る羽のようなものが浮かび上がっていた。


「ええと。ヒュートラム、さん……?」

「私に敬称をつけるのはやめたまえ。ヒュートラムで結構だ」


 ヒュートラムはさん付けをされたくないようで、表情がとても冗談であるようには見えない。

 どうやら、ヒュートラムは猫雅が記憶を失っていたとしても、神であることを理解したために恐れ多いようだ。しかし、口調に変化はなかった。

 特にといって、猫雅が気にしているという様子もないわけだが。


「じゃあ、ヒュートラムと呼ぼう。……俺の失った記憶について何か、知っているのか?」

「いや、知っているのではない。手がかりがあるというだけだな……」


 ヒュートラムが示したのは記憶そのものではなく、手がかり。


「神ならば、神刀を所有しているはすだ。ならば、君も神刀を持っているのではないか?」

「神刀……」


 どこか心を揺さぶられるような、親しみのある言葉だった。なんと言えばよいのだろう、それは長い時間を共に生き抜いたような感覚だ。


「その様子だと、神刀という言葉に聞き覚えがあるようだな」

「直接は知らない……でも俺は、


 目を見開きながら、猫雅は言葉を紡ぎ出す。手の平を上にしてそれを上から覗き込む。

 その手は震えていた。


「かつて戌神様は、乖理刀フェノデロスという神刀を扱っていた……。しかし、今の戌神様はどこか様子が違うと聞き及ぶ。君は何か知らないか?」


 戌神の豹変。

 ヒュートラムが言うに、戌神は心を閉ざしてしまったために他の神と交流を持たなくなったらしい。


「では、君はこの神威紋に見覚えは?」


 そういって木の枝を取り出すと、地面に紋様を描く。戌神の『戌』を象った紋様が、そこにはあった。


「……っ!?」


 時折、夢を見る猫雅だが、に関係があるのだとすぐに気がついた。紋様までは見えなかったが、ぼんやりと見えたその輝きは戌神の神威紋と酷似している。


「ふむ、そうか……。やはり君は神で間違いはないな。私も戌神様の眷属故に夢で会うことができたのだが……今はもう、姿を現してくれないのだよ」


 ヒュートラムはそう零すと、下へ向けていた視線を上へ動かした。

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