あの日に帰りたい

沼田くん

第1話

 柿沼翔太は、新幹線と普通列車を乗り継いで、かつて訪れたことのある田舎町の駅に降り立った。

「谷浜駅」

 二十歳の年に民宿でアルバイトをしたことがある、日本海を一望できる土地だった。

「三十年ぶりか…」

 感慨に浸る翔太を迎えたのは、長い年月が経って古くなっただけの変わらぬ駅舎だった。駅員が居た駅舎が無人駅になっていた他は、何も変わっていないように思えた。

 改札に、小さな四角い箱が設置されていて、そこに切符を入れ、待合室を通り抜けた。すると駅前から、これも時だけが経って古くなった、見覚えのある民宿の看板が屋根の上に掲げられているのが見えた。

"民宿 ○○"

 惹き付けられるように駅前の坂を上がり、町並みを右、左と見渡した。あの当時の記憶がよみがえり、懐かしく思えた。何かが変わった様子が見えず、三十年前の二十歳の時そのままが見渡せた。

 翔太は、右に足を向けて宿泊する民宿に向かった。一軒一軒に記憶がよみがえった。魚の買い出しに行った商店も、八百屋もあの頃のままに時間が経ったようで驚きもしたが、懐かしく思えて嬉しくもなった。

 アルバイトをした民宿は、線路を渡って地下道を抜けた宿泊する宿の途中にあった。

"民宿 渚"

 夏の間だけ開けている民宿に人影はなく、古く、屋根が崩れかかっていた。二階のガラス戸越しに、障子の破れが幾つも見えた。

 (閉めたんだろうか…)

 ミナミちゃんと出会ったぼろぼろになった建物に、寂しさが沸き立った。

 後ろ髪を引かれる思いでそこを離れた。

「ごめんください」

 すると、しばらくして、「はあい」と返事があって、満面に笑みを称えた女将さんに迎えられた。

「柿沼です。お世話になります」

「よくいらっしゃいました。どうぞ、お上がりください。お疲れでしょう」

 二階の角部屋に案内された。一人部屋だった。相部屋を想像していた翔太は、ほっと安心の吐息をついた。相部屋は、相手が気になって落ち着かず、好きになれなかった。

「ゆっくりなさってくださいね。お風呂を沸かしますが、お入りになりますか?」

「はい、お願いします」

「明日は、六十キロを走るんでしたね

「はい」

 翔太は、隣町の海テラス名立をスタートのウルトラマラソンに参加するのだ。

「車でお送りしますので何時になさいますか?」

「送ってくださるんですか?」

 ひと駅。時間も駅で確認してあった。

「百キロに出られる方をお送りしますから遠慮はいりません。走り終わったら電話してくださいね、迎えに行きますから」 

「それでは甘えさせていただきます。七時にうみてらすに着きたいんです」

「わかりました。六時半過ぎに車を出しますね」

 そうして、退室しようと部屋の入り口に向かうする女将さんを呼び止めた。

「あの、渚は、今は営業していないんですか?」

 女将さんは振り向いて、

「はい。親せきの方が引き継いでしばらく営業していたようですけど」

「ご家族はどうされてますか?学生の時にアルバイトをしたんですけど、お元気でしょうか」

「いらっしゃいますよ。娘さんは、お嫁に行かれましたが」

 言うと、女将さんは部屋を出ていき、将太一人になり、女将さんの煎れてくれたお茶をすすると、受け付け会場で受け取った袋からゼッケンと、シューズに取り付ける計測チップを取り出して畳に広げた。

 六十キロの長い距離を思い、完走できるだろうかとの緊張やら、不安やら、また、どんな景色が見られるだろうとの期待、ワクワクした気持ちまでが入り交じって息苦しく感じられた。

 五十キロは経験していても、更に長い距離は初めてだった。

 明日の天気は、曇り時々雨。ところにより、強い雨が降るようだ。

 強い雨…。

 ウェアがびしょ濡れになると、雨水を吸って重くなるのだ。重い足を引きずって走りたくはない将太だった。

(どしゃ降りになりませんように)

 祈るような想いで、ランニングにゼッケンを取り付け、計測チップを靴紐に通した。

 制限時間は八時間。

 最初の目標を、前島記念館にきめていた。フルマラソンに近い距離。そこでどれだけ貯金を残せるかだった。

"えちご・くびき野 100㎞マラソン"

季節は秋、十月。六十キロは八時スタートだった。。

 

 翌日、大会当日の朝は小雨が降っていた。部屋を出た翔太は、朝食を摂るために階下に向かった。

「おはようございます」

 広間の真向かいに厨房があり、開いた小窓の向こうに、背中を向けた女将さんがいて、挨拶をした。

「おはようございます」

 振り向いた女将さんから、張りのある声が返ってきた。寝ていないだろうに。

 朝、五時に近く、宿を共にした100キロを走るランナーがスタートする時間が迫っていた。女将さんは、朝食のお膳を出し、車でスタート会場に送っていて、朝がまだ明けないうちから起きて働いているはずだった。

 飯びつにいっぱいに盛られた白飯をお茶碗に盛り付けてほおばる頃、百キロの号砲が鳴った。それを胸に聴いた。十四時間の制限時間内にゴールテープを切る孤独で過酷な走りが今、スタートをしたのだ。👌

 いよいよ始まった。翔太は、身が締まる想いがして箸が止まった。三時間後には、将太も、六十キロの号砲を耳に聴き、走り出すのだ。

 しっかり食べよう、翔太は、飯びつを空にした。

「ご馳走さまでした」

 部屋に戻り、持って出る荷物の確認と、入念なストレッチをして過ごした。

 テレビに天気予報が映し出され、晴れ間が見えない、降水確率六十%の文字を目にした。激しい雨が予想された。昨日の天気予報と何ら変わりなかった。

 雨かっぱ代わりにごみ袋を着て走るランナーは多いが、将太は嫌った。一度経験はあるが、雨がやんだ後の処理に困るからだ。そうかと言って、着たまま走ると暑くてたまらなかった。  それ以来、準備品から抜いた。

 時間が着て、スタート会場の「うみてらす名立」まで送ってもらった。

 会場内は賑やかで、荷物預かりのアナウンスが繰り返されていた。

 ランナーは、ストレッチをしたり、会場の回りを走っていたり、巨大な大会アーチのバルーンを背景に写真を撮るなどしていた。荷物預かりの前には、あまり人は見られなかった。

 翔太は、適当な場所に荷物を置いて大きく深呼吸をした。スタートまで一時間を切っていた。宿で入念に体をほぐしたものの、不安だった。もう一度ストレッチをし、わずかな時間、会場の回りをジョギング程度に走った。そうして戻ると、荷物預かりに荷物を預けた。

 荷物を預けて開会式が済むと、スタート地点に続々とランナーが集まりだした。将太も、吸い込まれるようにランナーたちの後方に位置した。すると、緊張が一気に高まった。早くスタートをしたかった。待つ、この時間がもどかしく、不安で嫌いだった。走り出して、走ることに身を置きたかった。

 スタート五分前。将太の周囲は人で埋まった。

 三分、二分、一分。

 近づく号砲。熱を帯びたアナウンスが流れた。

「みなさあん!あと一分です。元気でゴールを目指してください。ゴールで待ってまあす!」

 雲に切れ間はない。どんよりとしていて、いつまた、雨が降りだすか分からなかった。降らないでほしかった。

 空を眺めてそんなことを考えていると、アナウンスから秒読みが聴こえた。

「…九、八、七…」

 そして、バーン!

 号砲が、曇り空に響き渡った。最初のコースは、ミナミちゃんの生まれ故郷、名立の家並みの間を抜けるのだった。


アルバイトの休憩時間、翔太は、誰も居ない部屋の海の見える窓辺で本を読んでいた。

「横に居ていい?」

 背後で声がして振り向くと、部屋の入り口にミナミちゃんが立っていた。カタカナなのは、どんな文字を充てるのか、まだ知らなかった。

「ミナミちゃん」

 すると、はにかんだ様子でもう一度、「入っていい?」と口にした。

「どうぞ」

 言うと、ミナミちゃんは、恥ずかしげな笑みを浮かべて窓辺に歩いてきた。横に立ったミナミちゃんから言葉はなかった。翔太もまた、言葉が出てこなかった。沈黙が二人の間に流れた。そんな時間に、翔太は、息苦しさを感じた。何か話さなければと思うのだが、何を話せばいいのか分からなかった。焦りを感じ始めた時だった。

「本、好きなの?」

 ミナミちゃんの声がした。救われた気がした。

「うん、小説が好きなんだ。ミナミちゃんは?」

「私も好き。でも、そんなに読まない」

 また、静かな空気が流れた。翔太は、女の子と二人きりになって話したことが少なかった。それゆえ、緊張で言葉に窮した。

「東京、楽しい?」

 また、ミナミちゃんからだ。

「どうかな?映画を見たり、本屋街を歩く程度にだから。後は、食べ歩きかな」

「いいな、私、東京に行ったことがないから。原宿を歩きたい」

 言って、遠くを眺めるように、海に目を向けた。

「毎日、海が見られて羨ましいけど。できることなら暮らしたいよ」

 翔太は、信州に生まれ育った。それゆえに憧れが強かった。

「海、好きなんだ、翔太さん。私は、海が日常だから、特別に感じられないの。泳げないし、私」

 ミナミちゃんは、色白な肌をしていました。一緒にアルバイトに来ている同級のノリコちゃんは色が黒く対照的でした。

「高校を卒業したらどうするの?」 

「私、保母さんになりたいの」

「だったら、東京の短大を受験してみたら?地元?」

「東京、お父さんが許すかわからないし…でも、一度行ってみたい」

 東京への憧れが強いようだった。

「また、話をしていい?」

「かまわないけど」

 笑顔と言葉を残して、ミナミちゃんは部屋を出て行った。後ろ姿を見送る翔太の胸がざわついた。そして、ざわつきは、いつまでも、長く翔太の胸に宿り残ることになった。


 

 

 

   





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