第16話 熱

「バカ鉄ーーーっ」


 ピピピッ。体温計から電子音が響いた後、姉ちゃんに大声で叫ばれた。


「やっちまったぜ」


「やっちまったぜ、じゃない。雨の日に走り回るからだ、アホ犬めーーっ」


 白いスキニーに、ボーダーのシャツを着た姉ちゃんが、べしんと頭を叩いてくる。見せられた体温計は38度越え。

 朝、いつもの時間に起きたとき、とてつもない眠気があった。目を開けていられないような眠気で、体が重い。おまけに、喉が痛い。唾液を飲み込むと、熱を持っている喉が痛んだ。


「おはようございます。1年A組、羽純の家族です。今朝から熱を出しまして。ええ、申し訳ございません。治るまで出席を控えます。はい。よろしくお願いします」


 姉ちゃんの大人な対応。落ち着いた声で、学校に電話してくれていた。

 電話を切るなり、いつもの調子に戻った姉ちゃんが聞いてくる。


「鉄ちゃん、食欲はある?」


「ある。腹はへった」


「朝とお昼は作って置いとく。水も4リットル置いておくから、がんがん飲んでおしっこだして、排熱して。夜は、うーん、むり。ここあちゃんに頼んでおくね」


 テキパキとそう言うと、姉ちゃんはベッドサイドに座り、覆いかぶさってくる。


「ごめんね、鉄ちゃん。お姉ちゃん、大学行かないと」


 寝ている俺の目の前に、姉の整った顔があった。大きな目がすこし、うるんでる。


「姉ちゃんの邪魔はしたくない。高校生にもなって姉ちゃんに看病されるなんて、ごめんだ」


 たったひとりの家族への、ささやかな強がり。

 でも、姉ちゃんはそんなこと全部お見通しみたいだ。


「そうね、高校生になった鉄ちゃんなら、ひとりでも大丈夫だもんね」

「うん、たぶん」


 ちょっと弱気になった。


「やっぱり大学休んで……」

「だめ」


 ベッドの上からにらむと、姉ちゃんは唇をすぼめて、ひとさしゆびを胸の前で付け合わせている。大学生なのに子供っぽくて、憎めない姉だった。


「いやーっ、お姉ちゃん、寝てる鉄ちゃんの顔を眺めて一日過ごしたい」


「暇か」


「生きがいなのよーっ。あと大学、行きたくないーっ」


 学校に行きたくないとゴネる姉に、なんて言えばいいんだろう。

 けどまあ、すぐに諦めるはず。


「ぐすんっ。お姉ちゃん、行ってくるね。元気でね」


「なんで、今生の別れみたいに言うんだ。いってら」


 俺の部屋を出るまでに、三度ふり返ってから姉は家を出ていった。

 家の中がしーんと静まり返る。


 寝よう。寝て起きたら、よくなってるはず。

 そう思っても、しんどくて寝られない。水を飲んだり、食事を食べたりながらゴロゴロと横になっていた。

 いつの間にか、心地よい眠気に包まれてしまっていた。


「しーーっだよ、しーーっ」


「い、いいのかしら」


「だいじょーぶ、てっちゃんニブイから」


 悪口の気配がする。

 長く寝ていたせいか、ぼーっとしている。

 体が、ぽかぽかと熱い。動かすのさえ、気怠く感じた。

 まだ、夢の中かも。どこか現実感のなさがある。


「眠っているの?」


「子供みたいだよねえー」


「ふふっ、たしかに。あどけないわね」


 ささやくような声が聞こえる。

 気になって、目を開けてみる。

 重い頭を手で押さえながら、周りを見た。


「あらっ」


「おはーっ」


 じっと見つめ合う青い瞳。その後ろで、見慣れた金髪ギャルが手をあげている。


「ここあ?」


「うん?」


「夢、見てんのかな。なんか、久遠の幻覚が見える」


 目をパチパチさせてみる。こすってみても、まだ見える。


 制服姿のお人形。大人びた表情なのに、女の子の愛らしさが残っている、久遠の姿。

 絹糸のように綺麗な黒髪を、従えているように歩く、強い女子だった。


 カチン。

 久遠の表情が強張って、張り付いたような笑みが浮かんでいる。

 その目に光はない。笑いながら怒ってる。


 怒った顔もいいなあ。


 でも、笑っててほしい。


 そう思ったら、自然に手が伸びた。

 右手が久遠の顔の輪郭に触れるように、伸びた。

 指先がふれる。


 あっ、すごい。


 ぴたっとすいつくような肌。すべすべする。


「ヘヘッ」


 久遠が目を丸くしてから、目じりを下げる。

 きれいな細長い指が、俺に伸びてくる。光を遮ってから、おでこにひんやりとした手の感触があった。


「あつっ。ちゃんと寝てないとダメよ」


 額を押される。

 後ろに頭をそらすと、体がベッドの上に倒れた。枕がやさしく頭をキャッチしてくれる。


「マジ? 久遠?」


 夢ではないと、気が付いてしまった。

 ふとんを引っ張り上げて、口元まで隠す。

 赤くなる顔を隠したかった。熱を持った体が、ますます熱くなる。


「触っておいて、信じられない? 羽純くんは、いったいどうやったら信じてくれるのかしら。もしかして、こんな美少女が、この世にふたりもいると思ってる?」


 思わず、ふきだした。


「っぷ、ははっ。そんな良い性格したやつ、ふたりもいない」


「そう? よく性格が悪いとか、腹黒いとか言われてるわよ」


 久遠の後ろから、ここあが飛び出してくる。


「うちも言われるーっ」


「わたしの場合、3割ぐらい本当よ。紅音さんの場合は、ちがうんじゃないかしら」


「えー、そんなことないよ。あと、なぎさちゃんのも違うよ。性格悪い子はね、友達の看病なんてこないもん。てっちゃん、よかったねーっ」


 あっけらかんと、ここあが言い切る。たしかに、と納得してしまった。久遠も「くすくす」笑っていた。


「そういや、珍しい組み合わせだな?」


 いまさら、気が付いた。このふたり、面識あったのか。


「お昼休みにね、なぎさちゃんが話しかけてくれたの。『羽純くんの家、知ってる?』って。朝にね、遥さんから連絡きてたからね『あとで、てっちゃん家行くよー』って言ったら、『一緒に行くー』ってなったの。いまからね、ご飯つくるよーっ」


「ここあ、助かる。いつも、わるいな。久遠も、ありがとう」


 ここあは、にへーっと笑う。

 久遠が、顔を近づけてきた。どきっとする。

 顔の近く、小声でささやかれた。


「風邪。うつしたら、ずっと看病するって言ったでしょ。ばかっ」


 久遠から、ベルガモットのようなリラックスできる香りがした。


「面目ない」


 にやけてしまう。布団で口元が隠れていてよかった。

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