切っ掛けは突然やって来るのです

 10月13日(火) 晴後曇


 今日は何と言えばいいのでしょうか。半分落ち込んで半分舞い上がる、そんな出来事が起こりました。結論として今の私は最高にハッピーです。為替相場が大変動したとか、全てのポジがプラスで決済されたとか、そんなことではありません。彼女です。彼女にしては珍しいミスをやらかしたのです。


 午前9時、そして午後4時15分。


 それが今日取れた予約でした。昼にも夜にも早すぎる時刻です。それでも予約がふたつ取れたのですから不満を言っては罰が当たりますね。朝食はとらずに出かけました。


「あれ、朝イチの勤務なのですか」

「はい。いらっしゃいませ」


 驚きました。今朝は彼女には会えないだろうと思っていたからです。

 昨晩彼女は22時に勤務していました。つまり深夜勤だったのです。現在のファミレスの営業時間は24時までですが閉店後も作業はあるでしょうから帰宅は午前1時頃のはず。

 そして今日、この時刻から勤務に就くには開店前の作業もあるでしょうから遅くとも午前8時半には家を出ているはずです。そんなシフトを組まねばならないほど人手が不足しているのでしょうか。気の毒でなりません。


「昨晩遅かったのに大変ですね」

「仕事ですから」


 笑顔を見せてくれてはいますが声に元気がありません。動作も少し緩慢です。やはり疲れが残っているのでしょう。

 思い出します。会社員だった頃の私もこんな感じでした。体が疲れてもやりがいのある仕事ならば少しもつらくはありません。しかし上司や同僚から精神的にプレッシャーがかかると肉体的疲労は増大します。趣味ならば何日徹夜しても平気なのにテスト勉強は1時間やっただけでヘトヘトになる、それと同じ理屈です。


 諸悪の根源はあの男!


 ただでさえキツイ仕事なのに昨晩は不埒な客の相手までさせられたのです。にこやかに応対してはいましたが心理的負担は相当なものだったはずです。私が退店した後はあの客ひとりだけになってしまったのですからね。


「このピザをお願いします」

「マルゲリータピッザァひとつですね」


 残念ながらこの店には朝定食がありません。ランチセットも10時からなので頼めません。お得感はありませんが手頃な価格のピザにしました。


「昨晩は迷惑な客がいて大変でしたね」


 言ってから後悔しました。彼女の眉がピクリと動いたのです。そして明らかに曇った表情になりました。やはり彼女にとっても嫌な出来事だったのでしょう。


「お客様、ですから……」


 彼女にしては歯切れの悪い返答でした。本当は罵倒したいのです。そうに決まっています。セルフの水を汲みにいかされるようなことまでされたのですから。しかし職業上、客を悪く言うことなどできようはずがありません。本音を隠して言い繕う彼女の心情を思うと胸が痛くなりました。


「あの男、いえ、あの客はあなたとどんな……」

「えっ?」


 思わず口に出てしまいました。一番知りたいこと、あの男と彼女との関係。ただの客と店員の間柄なのか。それとも仕事を抜きにした知り合いなのか。考えないでおこうと思っても昨日からずっと頭の中を駆け巡り続けている疑問。


「な、何でもありません」


 その先は続けられませんでした。そこまでの会話をするにはまだ親密度が足りないと思われたのです。それになにより私の言葉を途切れさせたのは彼女の反応でした。今まで見たことのないほど暗く沈んだ表情になったのです。昨晩はよほど不愉快なことがあったのでしょう。これ以上、彼女に嫌な思いをさせるのはこくと言うものです。


「今週は105円台で推移か」


 彼女が去った後は気を紛らわせるためにスマホで為替チャートをチェックしました。先週の106円到達はほんの一瞬だったようです。売り抜けられてラッキーでした。今週はショートから入りたいところですが、こんなに彼女のことが気になっていると取引に集中できないでしょう。やはりしばらくお休みしたほうがいいようです。


「お待たせしました。きゃっ!」


 ぼんやりしていました。そして何が起きたのかすぐにはわかりませんでした。チャートを眺めている時は目も耳も完全にお留守になるのです。彼女が料理を運んできたことさえ気づいていませんでした。


「えっ?」


 太腿に冷たさを感じました。その感覚が広がっていきます。テーブルを見るとコップが倒れて表面が濡れています。ピザの皿を置くときに誤ってコップに触れて倒してしまったようです。


「す、すみません」


 動転する彼女。私もまた驚いていました。これまで一度も彼女がミスする場面を見たことがなかったからです。と同時に普段の理知的な彼女からは想像もできないくらい困惑した表情がとても魅力的に感じられました。ギャップ萌えというやつでしょうか。


「今はこれで拭いてください。すぐにタオルを持ってきます」


 ポケットから取り出したハンカチを私に渡すと、彼女は小走りで奥へ消えました。ハンカチからは微かに甘い香りがします。そして片隅には小さな「おそ松さん」のイラスト。かなり気に入っているようです。


「申し訳ありませんでした」


 彼女と一緒に店長らしき人物もやってきました。思ったより大ごとになってしまったのでこちらも恐縮してしまいました。


「いえ、少し濡れただけですから」

「そのタオルはお持ち帰りください。クリーニング代はこちらに請求していただければお支払いいたします」

「いえいえ安物のズボンなので。それに水ですし、そこまで気を遣っていただかなくても大丈夫です」

「本当に申し訳ありませんでした」


 彼女と一緒に頭を下げて帰っていく店長。こんなに丁寧な謝罪を受けたのは生れて初めてでしたので、どのように対応すればよいのかわかりませんでした。けれども悪い気分ではないですね。

 それ以降、彼女と顔を合わすことはありませんでした。レジも別の店員でした。やはり気まずかったのでしょう。私もどのように接すれば彼女を元気づけてあげられるかわからなかったので、ある意味助かったと言えます。


「いい匂いだな」


 タオルと一緒に彼女のハンカチまで持ち帰ってしまいました。よく見ると素材は綿ではなくシルクです。このまま洗わずに手元に置いておきたいのですが、これほどの高級品となるとさすがにそれはできません。洗って返却するのが礼儀というものでしょう。


「彼女、叱られたのだろうな」


 このアクシデントは私にとって喜び以外の何ものでもなかったのですが、一点だけ気になることがありました。彼女への処遇です。叱責を受けないはずがありません。飲食店の店員としては一番犯してはいけないミスですから。

 あの店長に小言を言われている彼女の姿を想像しただけで心がチクチクと痛みました。しかもそれを引き起こしたのが他ならぬ自分であることを思うといても立ってもいられなくなりました。謝罪すべきはむしろ私のほうなのではないか、そんな気さえしてくるのです。


「おっと夕食の時間だ」


 悶々とした時間を過ごしているうちに出掛ける時刻となりました。本日2回目の予約は午後4時15分です。

 ファミレスまでの道を自転車で急いでいると、思いもよらない事態が発生しました。あまりに驚いて転びそうになったほどです。何だと思いますか。彼女です。前方100メートルほど先の交差点を彼女が歩いているのです。


「どうして!」


 なぜ彼女があんな場所にいるんだろう、それが最初に浮かんだ疑問でした。実に愚かな疑問です。勤務が終わって帰宅する途中であることは一目瞭然なのですから。私は全速力で自転車を走らせると声を掛けました。


「あっ!」


 驚く彼女。当然です。彼女の名前で呼んだのですから。


「今日の仕事、終わったのですか。お疲れさまです」

「はい。先ほどはご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ありませんでした」


 深々と頭を下げる彼女。私服姿は制服とは違う魅力に溢れていて少々興奮してしまいました。


「あの、どうして私の名前をご存知なのですか」


 もっともな質問です。昨晩、あの迷惑な客が名前を口にしていたと説明すると「ああ、それで」と納得してくれました。


「店長とも話し合って後日お詫びの品を差し上げるつもりです。よろしければお受け取りください」


 予想外の言葉でした。たかがズボン如きでお詫びの品だなんて大げさすぎます。自転車で通勤していた時は突然の雨で何度ズボンを濡らしたことか。慌てて手を振りました。


「いえいえ、そんな大層なことではありませんよ。これ以上のお心遣いは無用と店長様にお伝えください」

「でも、それでは私どもの気が済みません」

「そうですか、それなら」


 次の一言を口に出すのはやはり躊躇しました。私たちの関係を一気に別次元へ引き上げる言葉だったからです。

 しかしこれはチャンスでした。店外での出会い、客と店員いう関係ではない状態での会話。私服姿の彼女。何もかも初めての経験です。ずっと私を導いてくれた運命が今のこの状況を作り出してくれたのです。それを利用しなければ運命に背くことになります。私は言いました。


「ではお詫びの品の代わりに私と一緒に食事をしてくれませんか。ファミレスではない別の場所で」

「えっ!」


 絶句する彼女。私の言葉の意味を考えているようです。


「それはつまり私があなたに食事を御馳走するという意味ですか」

「いえいえ、代金は私が支払います。今回の件で詫びねばならないのは私の方なのですから」

「?」


 キョトンとした顔もまた魅力的です。私は畳みかけるように喋りました。


「私が客として来店しなければあなたはミスをせずに済んだのです。そして店長に叱られることもなかったのです。つまり今回の件はあなたが私に迷惑をかけたのではなく、私があなたに迷惑をかけたのです。となればお詫びの品を差し上げるのはあなたではなく私のほうです。食事を御馳走するのも当然私でなくてはなりません。ああ、それから借りているハンカチも返却しなければなりません。それには食事をしながらが最適だと思われるのです」

「……ふふふ。面白い方ですね。ふふふ」


 それは今まで見た中で一番チャーミングな彼女の笑顔でした。私は自分の勝利を確信しました。


「わかりました。そこまでおっしゃるのならお受けしましょう」


 ふふふ、ふふふ。


 今、含み笑いをしながらこの文章を書いています。ついでに笑い声も書いてしまいました。前半は気分が重かった今日という日は、最後に訪れたビッグイベントによって人生最高の日へと変貌したのです。

 今までは客と店員という間柄にしかすぎなかった私たちふたり。今日を境にして変わった私たちふたり。プライベートで食事をする男女という間柄に変わったのです。これでもうあの迷惑客の男に引け目を感じる必要はありません。私もまた彼女に対してあの男と同等の立場になれたのですから。



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