番外編5 もうここにいなくても(薫視点)

 かおるの祖母、万智子まちこが入院していたころのこと。




 祖母は健康だった。持病も無く滅多に調子を崩さなかった。なので母も渋々ながらも祖母の郊外でのひとり暮らしを送り出したのだ。


 そんな祖母が病に倒れた。すい臓がんだった。難しい箇所のため毎年の特定健診では発見できず、痛みが出て来てから診断されてすでに手遅れだった。


 母の希望もあって、祖母は薫たちの家から行きやすい総合病院に入院することになった。母は頻繁に世話を兼ねた見舞いに行き、父や弟の優、薫もできる限り顔を出した。


 余命宣告もされていて、永らえる確率はかなり低く、そのことは薫も知らされていた。薫はいつも穏やかな笑顔を浮かべている祖母が大好きで、その時が来るまで少しでも多く会いたかった。


 入院してすぐの頃、ベッドの上でふんわりと笑顔をたたえながら祖母は言った。


「薫ちゃん、あのねぇ、お婆ちゃんのお家に来てくれる猫ちゃんおるでしょう」


「ああ、おったな」


「あの子、私が入院してしもて、お腹空かせてへんやろか。心配やわぁ」


 祖母は言ってまなじりを下げる。


 薫も祖母の家で何度か会った黒猫のことだ。毎日決まった時間帯に家に来るらしい


「だからその時間はお出掛けでけへんねん。困ったわぁ」


 祖母はそんなことを全然困っていない様な笑顔で言っていた。


「猫が来るんって、確かいつも昼ごろやっけ。じゃあ今度その時間あたりに行ってみるわ」


 祖母が入院したからと言って家を放っておくわけにも行かないので、母が掃除や風を通すために行くことになっていた。と行ってもそう気軽に行ける距離では無いので時折だが。


 祖母が退院して家に帰れる可能性は低い。それでも母が家を手放さないのは、祖母宅の環境を気に入っていることもあるのだろうが、元気になって欲しいという願掛けの様なものもあるのかも知れない。


 平日だと薫は仕事で行けないが、土日祝なら一緒に行くことができる。なんならひとりで行っても構わない。そうしたら母は祖母のそばにいることができる。


 普段料理以外ろくな手伝いもしない薫だが、窓開けと簡単な掃除ぐらいならできるだろう。


「ありがとうねぇ。助かるわぁ。いつも猫ちゃんにあげてるかりかり、お台所に置いてあるからね。動物用のお皿に半分ほど入れてあげてね。でねぇ、毎日あげられへん様になってしもたから、その分贅沢なご飯にして欲しいねん」


「かりかり買い換えたらええんか?」


「ううん、いつものかりかりにかつお節とか煮干しとかしらすとか、ちょっと多めに乗せてあげて欲しいんよ。塩分は控えてあげてね。茹でたささみとか焼いた鮭乗せることもあるけど、それは手間やからねぇ」


「祖母ちゃん、俺ささみぐらい茹でれるで。鮭も焼けるし」


「そうやんねぇ。薫ちゃんお料理するんやもんねぇ。でもそこまでしたらお台所も掃除せなあかん様になるから、そこまでせんでええよ」


「そうなん? 祖母ちゃんがええんやったらそれでええけど」


「うんうん。ご飯あげてくれるだけで充分や。面倒掛けてしまうけどよろしくねぇ」


「おう。任せといて」


 薫が笑顔で言うと、祖母は嬉しそうににっこりと微笑んだ。




 翌週、薫はさっそく車を走らせて祖母の家へと向かう。途中にスーパーに寄って小パックのしらすを買った。


 祖母宅にあった食材は、すでに母親が引き上げているはずなので、乾物含めて何も無いはずだ。それもあって昼食にしようとさばの味噌煮弁当も購入する。電気を止めてはいないので電子レンジは使えるはずだ。


 薫が祖母宅に着いた時には昼までに余裕があった。まだ黒猫は来ていないはずだ。


 祖母が入院して数日。毎日迎え入れてくれた家に無人の状態が続いているから、黒猫も何かを察してもう来なくなってしまっている可能性だってある。薫は猫の知能などに詳しく無いからどうとも判断ができない。


 母が祖母から預かっている鍵を使ってドアを開ける。木製の開き戸で、鍵は現代のしっかりとしたものだ。鍵にはビーズ製の猫のキーホルダーが付いていた。


 祖母は日本家屋を意識してこの家を建てたが、耐震などもしっかりしていて、中は先々のことを考えて玄関以外はフラットな造りになっている。


 薫はつい鼻をひくつかせたが、あまり埃っぽいとは感じない。普段から祖母が綺麗に掃除をしていたので、数日放っておいたぐらいではどうにもならないのだろう。


 薫はまっすぐ居間に向かって電気を点けると、真っ先に縁側のガラス戸と雨戸を開け放った。今日は良い天気で風も穏やかだ。部屋が陽の光で明るくなったので薫は電気を消した。


 まずは他の部屋の窓も開けなければ。平屋だし部屋数はそう多く無い。祖母の寝室と客間、水回りぐらいだ。


 風を通すためにそれぞれの部屋のドアも開け放っておく。すると家中に緩やかな風が流れ込んで来た。


 まずは居間の掃除をしてしまおう。掃除道具が入れられている収納庫からはたきを取り出してぱたぱたと掛ける。そして掃除機だ。軽くて使いやすいとコードレスのスティック掃除機である。


 そうして掃除を終え、掃除機を充電器に立て掛ける。時間を見るとまだ昼までには少し時間があった。


 黒猫が来るまでまだ間があるだろうか。だが下手に他の部屋で掃除機でも掛けてしまったら、猫が来ても気付かない恐れがある。なので少し早いが昼食にしよう。


 お弁当をそのままキッチンのレンジで温める。居間に運びラップをがしてふたを上げると、ふわっと味噌の香りが立ち昇る。


 お弁当はいろいろな種類があった。だが揚げ物はレンジで温めるとどうにも巧く行かないので煮魚を選んだのだ。


 若い薫はまだまだ食べ盛りなのでどうにも物足りない感じもあるが、べちゃっとした揚げ物はできたら避けたい。揚げ物の温めはグリルかオーブンが良いのだ。


「いただきます」


 手を合わせて割り箸を割る。まずは副菜の切り干し大根を口に運ぶ。うん、悪く無い。短冊切りにしたお揚げと適当な長さに切ったいんげん豆が入っている。お揚げから出た旨味が切り干し大根に良くみ込んでいる。


 他の副菜はきゅうりのお漬物にもやしのお浸し。しかしここでメインのさばの味噌煮に箸を入れる。


 温めたことで火が通り過ぎてしまっただろうか。少しぱさついている感じがする。だが味付けが甘過ぎずから過ぎずちょうど良かった。


 ご飯には黒ごまが掛かっていて歯応えが面白い。味わいも良い。


 そうして食べ進めて行きながらも、薫は目を縁側に向ける。


 黒猫は来てくれるだろうか。それとも空振りを食らって愛想を尽かしてしまっただろうか。


 祖母が可愛がっていた黒猫。できたら来てくれたら嬉しいなと思う。


 もうすぐお弁当が空になりそうなころ、縁側の向こうの庭に動くものが見えた。薫は箸を持ったまま腰を浮かす。


 黒猫だった。猫は軽やかに走り、ひょいと縁側に上がって来ると「にゃあん」と可愛らしく鳴いた。薫はほっと小さな息を吐いた。良かった。来てくれた。


 薫は箸を置くと立ち上がって縁側へ。腰を下ろしてそっと黒猫に手を伸ばした。黒猫はおとなしくその手を受け入れてくれる。


「留守にしてしもうてごめんなぁ。俺のこと覚えてるか? 祖母ちゃんの孫やで」


 すると黒猫は「覚えているよ」とでも言う様に「にゃん」と鳴く。薫は「そうかそうか」と黒猫ののどをくすぐった。


「腹減ったか? 飯用意するからちょっと待っとってな」


 薫は腰を上げるとキッチンへ。片隅にかりかりの箱と動物用の皿が置かれている。皿にかりかりを入れて、買って来たしらすをたっぷりと散らした。


「お待たせや」


 薫は皿を黒猫の前に置いてやる。すると黒猫はやはりお腹が空いていたのか皿に頭を突っ込んだ。かりかりかりと小気味好い音が響く。


「はは。旨いか?」


 薫はそれを見守る。食欲旺盛の黒猫は生命力に溢れている。食べることは生きることなのだな、としみじみ思う。


 祖母はもうあまり食事を摂れなくなっていた。病院食の内容はまだ健常食に近いが、量が食べられなくなっているのだ。


 それも症状のひとつなのだと言う。診断を受ける前、祖母はただ歳のせいで食が細くなっているだけだと思っていたらしい。それも発見が遅れた要因だろう。


 食べられなくなることは、死に向かうことなのだな。そんなことを思ってしまい、薫はきゅっと口を引き結ぶ。目頭に込み上げてくるものをどうにかこらえた。


「あのな、猫。祖母ちゃんな、病気で入院しとるんや」


 薫がぽつりと言うと、黒猫はぴくりと身体を震わす。


「せやからまだしばらくは帰ってこられへん。せやから飯も、母ちゃんとか俺とかが来る時にしかあげられへんねん。ごめんやで」


 一瞬かりかりを食む音が途切れる。だがまたすぐにかりかりかりと音を立てた。


 もう帰ってこられへんかも知れへんねん。そんなことは言いたく無かった。だから薫は口を閉じる。


 やがて黒猫が顔を上げると、皿はすっかりと空になっていた。


「綺麗に食うたな。旨かったか?」


 薫が穏やかに訊くと、黒猫は「にゃあ」と満足げに鳴く。そしてすっと立ち上がるとするりと庭に降りた。


「猫、俺ら次いつ来られるか判らへん。それでも良かったらまた来てな」


 黒猫はそれには応えずに、たたっと走って去って行った。


 相手は動物だ。薫の言葉がどれだけ伝わったのかは判らない。もし理解して、もうここに来なくなってしまうのなら、それは仕方の無いことだ。どこか他でご飯にありつける場所を探すのだろう。


 ご飯さえ食べられればきっと元気でいられる。ならそれでも良い。祖母が黒猫を可愛がったのと同じで、黒猫も祖母をしたっているのは薫も知っている。だがもうここにその祖母はいないのだから。


 薫は寂しさを感じながら、黒猫の姿が消えた庭をぼんやりと眺める。そしてのろのろとお弁当の前に戻ると、常温になってしまった白米をもそりと口に運んだ。




 数日後、祖母の家に行った母がにこにこと嬉しそうに言った。


「あの黒猫ちゃん来てくれたわ。美味しそうにご飯食べてくれたで。撫でさせてくれたしな〜」


 その言葉に薫はほっとしたと同時に嬉しくなった。そうか、猫、来てくれとるんやな。


「母ちゃん、次は俺が行くわ」


「そうか? じゃあ任せよかな」


 まだ来てくれているお礼を言いたい。祖母の話もしてあげたい。次のご飯は奮発しようか。家でささみを茹でて持って行こう。喜んでくれるだろうか。


 次会えるのが楽しみだ。薫はふわっと口角を上げた。

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