第3話 天気雨

 目を覚ますと光が射す。光が射すから目を覚ます。宇宙で輝く星と布団で眠る私に因果関係があるのだと考えると、たいしてこの世界は大げさなものでもないのかもしれない。


 大なり小なりあるのだとして、今日の起床はミニマムサイズに小さい出来事だ。キッチンの方から聞こえる換気扇の音で起きたのだから、太陽だってなんだそりゃと諦め半分納得してくれるに違いない。


 色彩が何段階か落ちた部屋は白黒写真のように薄暗く、けれどこの絶妙な陰険さが私は好きだ。飛び起きて顔を洗って歯を磨く。そんなことをしなくていいんだと気付くからだ。


 さて、と微睡みから目覚めたての脳が毒にも薬にもならない一人語りを終えたところで体にかかった布団をめくることにした。


「え?」


 けど、あらわになったものが肌色一色だったので驚いた。なんで私裸なんだ。


 最近になって腹回りの肉が減った体をつまんで唸ってみる。


 どうせキッチンにいるのは澄玲だ。違ったら、それはそれで目新しい一日が始まりそう。


 というわけで、答えは澄玲に聞いてみることにする。


「澄玲ー?」

 

 う、と思わず喉を押さえる。


 声は掠れていて、喉がヒリヒリする。冬の乾いた空気を一気に吸い込んだような感覚だった。


 水分を欲して腰をあげようにも、力が入らない。背中の骨が軋むように痛み、片腕は乱れたシーツの中に突っ込まれ新鮮な冷たさを受け取っている。


 テーブルに目をやると、空いた缶チューハイが3本ほど転がっていた。


 酔い潰れるまで飲めたらよかったのだけど、どうにもすべての記憶を忘れられるほど酒というのは万能ではないらしい。


「まつりー? どうしたのー? って、なんで頭抱えてるの」

「なんで私なの」

「どういうこと?」

「な、ん、で。私が下なの!」


 ぐわあと奇声をあげて布団にくるまる。上下がめちゃめちゃになって、枕に足が乗った。


「だって気付くとまつりが仰向けになってるんだもん」

「気付けばあんたが私に乗ってるんでしょ」

「えー」


 私の腹の上になにかが乗って、声が降ってくる。ほら、と指を指すと「ほんまや」とわざとらしく驚いてみせる。ちなみに全然面白くない。


 澄玲は私から降りるどころか体に倒れこんできて足を絡みつけてくる。服をパンパンに入れて洗濯すると、こんな状態で出てくる。もしくはイカ、タコ。ワニが獲物を食いちぎる時に回転するみたいに。形容すべきものは山ほどあった。


 そんなもみくちゃ状態のまま私と澄玲は布団で暴れ回った。


「だってまつりがお酒飲んだら、そういうことしたいって合図でしょ?」

「違うわ」

「あいた!」


 頭にチョップをくらわすと、ぽかんと小気味の良い音が鳴った。こいつの頭は空洞なのか? もしくはカニ味噌でも詰まっているのだろう。


「じゃあ、まつりは上がいいの?」


 長いまつ毛が、精密に交差する。その奥で無垢に光る琥珀色の瞳は暗がりの中でも映えていた。


「そうじゃなくて、上とか、下とかなしに」

「あー、そういう。えへへ、まつりってほんとかわいいね」

「なっ、がきんちょのくせに何を――」


 反抗しようと開けた口に、蓋がかかる。


 重くないくせに、しっかりと密閉してくる熱い蓋は吐息を熟成させ甘いものに変えていく。


 肩が跳ねたが、それも一瞬のことだった。力が抜けて、布団に体が溶けていく。


 長い交わりは、次第に熱情を帯びていく。どんどん上達していっている自分に憂う。いったいどこへ向かっているのだろう。


 上達は満足度に繋がる。ただそれはあまりにも機械的すぎる。技術ではなく、思いが強くなったと捉えたほうが乙女チックでロマンティックだ。私のどこにこんな少女が抱く憧れのようなものが眠っていたのかは知らないが、この行為はそんなものを目覚めさせるのだ。


 手を開けていられずについ拳を作ってしまうのは私の癖だ。だからいつも、澄玲の小さな手がそれを包むように重なる。・・・・・・やっぱり、私が下じゃないか。


 ようやく空気を吸い込むと、眼前で澄玲が照れくさそうに笑った。うん。恥じらいはいつまで持っていてもいい。


 こんな行為をいともたやすく行えるようになったら外国で暮らしていたのかと間違えられてしまいそうだ。


 良いも悪いもないけれど、私もやはり恥ずかしいのだった。


 口元を拭くフリをして、顔を隠す。そんな技を、いつのまにか覚えてしまった。澄玲は立ち上がるとキッチンから出来たての目玉焼きを持ってきた。


 体を起こして、ボサボサになった髪を払う。僅かにかさついていた。どんだけ汗かいてたんだ。


 昨晩のことを思い返し、自分の姿を俯瞰して想像すると顔が熱くなっていく。


「自信作です」

「焼くだけじゃん」


 ぷくーっと膨らんでいく澄玲の頬を眺めながら、半熟の黄身を割る。


「今日も絵描くの?」


 もそもそと食べる澄玲がそんなことを聞いてくる。


「まあね」


 仕事に復帰してから、私は毎日のように絵を描いていた。


 配るチラシ、それから町内に許可を取ってポスターのようなものも作り始めた。全部手作りで、コピーは無し。一つ一つ、丁寧に書いていく。


 澄玲の学校は春休みに突入したらしく、私が絵を描いてるといつのまにか隣に座ってじーっと泳ぐ筆を眺めている。それがここ最近の日課だった。一度そんな過ごし方でいいのかと聞いたことがあるが、何故か不機嫌になったのでもう聞かないことにしている。


 きっとその理由を、私は知っている。だから言うのだ。


「見ててもいいよ」

「ほんと? えへー」


 猫でも飼った気分だった。


 焦げそこそこの目玉焼きを完食し、食器を洗う。私が水洗いをして、澄玲がタオルで拭く。洗う食器も少ないのだから二人でわざわざやる必要はないのだけど、こうして何もかもを二人並んでこなしていると、心が豊かなものになっていく。


 気分というのは一定を保たない。揺らぐ時もあれば上向きになる時もある。そんな不安定なものだからこそ、支えてくれる誰かを欲するのかもしれない。


 タオルで念入りに拭いた食器を澄玲が見せてくる。私が笑って「いいじゃん」と言うと、澄玲も嬉しそうに笑う。


 焦げ臭いものより、笑顔に溢れた部屋のほうがいいに決まっている。カーテンを取っ払って、窓を開け放った。


 深緑に包まれた景色が私たちを迎え入れる。


 もうじき色づく桜のつぼみが、すぐ近くでうんと背伸びをしていた。


 二人してベランダに座り、食後の紅茶を飲む。これが私にとっての至福の時間だった。自分の望む幸せというものがなんなのか、明瞭には分からなかったけれど、実のところこんなにもありふれたものだったと知ると身構えていた過去の自分に笑えてくる。


「まつり、ねぇ。まつりまつり」

「私の名前連呼するの、子供っぽいって思われるよ」

「誰に?」

「私に」

「ならいいよ。まつりまつり」

「くっつくな顔近づけてくるなうわ」


 ぐんぐんと止まることのないそれは、私と同じ紅茶の味がした。


 唇から温もりが消え、澄玲の頭が私の肩に乗る。


「すみれね、好きなんだ」


 知ってる。などとおどける準備はできていなかった。


 変化球を待っていると、直球には手が出ない。


「まつりの名前」

「え、なんで? 茉莉って、なんかお祭りわっほーいってみたいでアホっぽくない?」


 軽い口調で言ってみるけど、軽快な澄玲のツッコミは飛んでこなかった。


「ううん、そんなことない。好き、なの。まつりって名前」

「ふーん」

「・・・・・・・・・・・・」


 名前を好きだなんて初めて言われたので反応に困ってしまう。


 澄玲も形ある返答を求めていたわけではないらしく、私の肩にもたれたまま揺れていた。


「・・・・・・出会えて、よかった」


 私の腕を掴んで、澄玲が小さく溢すように吐露した。仰々しいそれを、拾い直す手段を私は持たない。


「あんた、泣いてんの」


 肩に伝う湿ったものが、妙に温かかった。澄玲は、声には出さず、額を私の肩に擦りつけた。


 空は快晴。屋根の下は雨。変な天気だ。


「ごめんね、まつり。すみれ、変な子だよね」

「まあね」

「急に泣きはじめるし、多分、変なこと言ったりするし。どこかズレてるし」


 だけど、それを悪いことだとは思わない。


 見上げれば晴れ、隣を見れば雨。それでもいい。目を背けなければ、きっといつか虹がかかる。曇りなら、晴れるよう前向きに頑張ればいいだけだ。


「だからね、もしまつりが嫌になっちゃったらその時は――」

「ばーか」


 ぐしぐし泣きながら変な事を言うものだから、ついその額にデコピンを喰らわせてしまう。威力はなかったようで、澄玲はピクリとも動かない。


 ただ、震えたその声は、しっかりと止んだ。


「いるよ。ここに」


 澄玲の小さな体を抱き寄せる。上も下もない。横で繋がっている。


「どっちかが傾いたら、どっちかが支える。だから泣くことを我慢しない、変なことを恥じない、自分を卑下しない。もし折れそうになったら、私に寄りかかればいい」


 澄玲の涙の理由を、私は知らない。だけどこれから掘り起こそうとしたところで躓くだけだ。別に硬い鉱山めがけて振り下ろす必要はない。


 ずっと一緒にいれば、いつか地表はすり減って本来の色が見えてくる。そんなもどかしさやいじらしさがあるからこそ、人に惹かれて、好きになるのかもしれない。


「遠慮しないでいいよ。息苦しいから」

「まつり・・・・・・」


 私の胸の中で、くぐもった声が聞こえる。


 澄玲と出会ったばかりの時も、確かこんなことがあった。


 母親を亡くした悲しみに打ちひしがれる澄玲のそばにいて、ただ泣いている姿を眺めていた。 


 あの頃はそばにいるくらいしかできないと思っていたけど、実のところ。そばにいられるというのは幸せなことなのかもしれない。


 こうして触れられる。声をかけられる。気持ちを通じ合えるのだから。


「澄玲、好きだよ」

「うんっ・・・・・・すみれも、まつりが好き」 


 折れた枝同士が支え合うように、肩を寄せ合う。


 外の桜は、もうじき開花し世界に彩りを咲かせる。それでも、どれだけ綺麗だとしても、いずれ一つ残らず散ってしまう。


 だからといって悲観的になるのは時期尚早だろう。


 終わりばかりが終わりじゃない、なんて変な話だけど、私はそう思う。


 あれだけ降り積もって鬱陶しかった雪はすでに景色から消えている。あれだけ視界と心に巣くっていたのに、もはや思い出が霞んでいくようだ。


 けど、雪解け水というのはどんなものよりも透き通っている。純一無雑なそれが、地に落ちて、今度は綺麗な桜を咲かせる。そうやって巡り巡るのを季節といい、そんな時間の経過を人生というのだ。


 なんて、悟ったような事を考えながら、けれど絶対後悔しないようにと胸に刻む。


 澄玲が盛大に寝息を立て始めた。昨晩急に「朝ご飯はすみれが作る!」と言い始めて、そのせいで早起きしたのだろう。


 私は澄玲を起こさないように、新品のスケッチブックを手に取った。これもまた、ボロボロになる日が来るのだろうか。


 なら、それは始まりだ。


 さて、次はどんな絵にしよう。


 鮮やかに咲き誇る花々の横で眠る、一人の少女。そんな温かいものにしようか。


 鮭のポーチから、色鉛筆を取り出す。


 ずるっ、と腹をかっさばいているようで不気味だった。


「あはは」


 まぁ、でもいいか。


 しょうもないことで笑える。そんな日々がどれだけかけがえのないものか、私はもう知っているから。


「オーディション、合格だよ。私だけのお笑い芸人」


 春の日差しを受けて、今日も私は筆を走らせる。


 いつか、この絵で誰かを救えるように。 

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