第8話 気づかれてはいけない気持ち

「今日は……まあまあの出来じゃないかしら……ねぇ」

 過田先輩の声と共に緊張が解け一旦心を落ち着かせることができた。

 普段部活動で使用しているパート別に分かれた練習用の広いスタジオとは別に、バンド練習のための小さなスタジオをジャズ研究会は所有している。それぞれ大スタ、小スタという風に呼んでいることを過田先輩が最近教えてくれた。

 バンドメンバー全員が集まり皆で音を合わせて三日。

 そのせいもあってか、またあの出来事を思い出してしまいそうになる。

 でもこの2カ月、間宮先輩とのマンツーマンレッスンにより大分人慣れしてきており、以前よりも幾分から気持ちに余裕を持てている。

 そしてなにより、

――こんなに近くで奏音さんの歌声が聴ける!

 小スタはその名の通り大スタよりも狭く5人も入れば各々の機材も含めて移動スペースは限られ、互いの距離は手を伸ばせば触れることができるくらい近い。

 だからスタジオの中央でマイクを握り佇んでいる奏音さんとの距離は自然と近くなる。演奏中何度か目が合い演奏の緊張とは別の意味の汗をかいてしまった。

 ケホ、ケホと何度か咳をし、彼女はペットボトルの水をごくごくと飲む。その時に喉仏が脈動する姿を目にし、弾かれるように視線をそらす。そして自身の体に熱を帯びているのに気が付いた。

――こ、これじゃ変態じゃない……!

 そんな私とは打って変わって真横で綾野さんが大きなため息を漏らしていた。

「ごめん、うちミスりまくってもたわ……」

「そんなことないよ。精度は一回目よりも正確になってきてるし」

 奏音さんが励ますも表情は変わらなかった。

 綾野さんの音取りがすべて終わった後、私と二人で今の綾野さんの技術では演奏が難しい部分は弾きやすいようにアレンジの作業に入った。音数を原曲に対して違和感のないように減らしていった。

 ……のだが、綾野さんは可能な限り原曲のままで弾きたいらしく音数を減らすといっても単純な作業にならず、どうする、こうするで何度も押し問答を繰り返す羽目になった。

 彼女の願いを簡単に引き受けてしまったことを後悔しつつも何とか完成までこぎつけ綾野さんはとても喜んでいた。喜んでいたのだが……。

「うぅ……椿さんといっしょに知恵絞ったんに……」

「ま、まあ、原曲を聴きながらの演奏とバンドで合わせる演奏はまったくの別物みたいだから、何度もみんなで一緒に演奏して雰囲気に慣れるしかないのかしらねぇ」

 野垂れる綾野さんを過田先輩はいつものおっとりとした口調で慰めようとした。

 私もバンドを始めた頃はなかなか雰囲気に慣れず思うような演奏ができず悩んだこともあった。皆最初はそうなのだろう。

「うち以外みんな出来てるやんか」

「……そんなことない。まだリズムが安定してない」

 ドラムスティックをくるくると回しながら早稀さんが答える。過田先輩は顎に手を当てて首をかしげている。

「そうねぇ……。キーボードは技術的にはそこまでだけれど、使う音色が多いからいろいろと設定が大変かしらねぇ」

「私もそうだな。音程を合わせるのが難しいかな。でもまあ、何とかなるかな」

 奏音さんは喉元を押さえながらペットボトルの水を口につける。綾野さんは、えー、と抗議の声を上げる。

「ほんまに?うちからしたらみんなの演奏もう完璧に聴こえるんやけど」

 綾野さんは頬を膨らませながら奏音さんを睨む。

「本番までまだ1カ月ぐらいあるし。きっと大丈夫さ。ねっ椿さん」

 と唐突に奏音さんは話題を私に振った。

「えっ!?き、きっと大丈夫よ、綾野さん一生懸命練習していたし、まだ時間もあるのだからそんな落ち込むことはないわよ」

「そうなんかなぁ……」

「まあ、回数をもっと重ねていったら良くなるよ」

 失礼と奏音さんは言って、手に持っていたペットボトルを綾野さんの後ろの棚の上に手を伸ばし置く。

「にしてもこの部屋、ちょっと狭いね」

 奏音さんは取り囲んでいる私たちを一周見渡す。

「そうようねぇ……ふふ」

 過田先輩は口元を押さえて朗笑する。

「えっ?どこか笑いどころありましたか?」

「いいえ違うの奏音ちゃん。さっき合わせたときにね、これだけ距離が近いから奏音ちゃんの息継ぎとか聴こえちゃってその……ちょっとドキッてしちゃった」

 少し照れた表情で二つ結びの髪を弄りながら語りだした過田先輩。

「いやいや、ちょっと先輩何を言ってるんですか。私は普通に歌ってるだけですよ」

「あらそう?私だけなのかしら、そう感じるの」

 二人の会話を横で聞いて緊張と興奮を感じていた。

 先ほどの演奏中。最初は自分の演奏に集中していたのだが、奏音さんの息継ぎのブレスが聴こえ段々変な気持ちになってしまった。そのせいで後半の演奏は少しもたついてしまった。

 そんなことを思い出してしまい顔が赤くなってきているのを気付かれないように二人とは違う方向に視線を向ける。

 すると早稀さんと目が合った。いや、前髪で目元は見えないのだけれど……。早稀さんは私の瞳をじっと見詰めている。

 咄嗟に早稀さんとの視線を逸らしてしまった。

――不自然に思われただろうか……。


 その後何度か通しで曲を合わせ今日のバンド練習は終了した。

 練習中ずっと早稀さんが私を見ているような気がした。もしかしたら赤面しているのを悟られてしまったのではと考えたら気が気ではいられなかった。同級生のことを変な目で見ていると思われたかもしれない。

 奏音さんと綾野さん、過田先輩は片付けが終わり部屋を後にしていたので私と早稀さんの二人が取り残されていた。

 先ほどの件もあり私は急いで片付けを終わらして部屋を出ようとしていた時だった。

「……ねえ、椿ちゃん」

 出ていこうとした矢先に早稀さんに呼び止められた。嫌な予感を感じつつも私は彼女の方向に体を向ける。

「えっと何かしら、早稀さん?」

「……もしかして奏音のこと、気になってるの?」

「ええっ!?」

 部屋の空気は一瞬にして凍りつき、何と返事をすればいいか高速で頭を働かせた。が、何も思い浮かばなかった。

 やっぱり変に思われている。何とかこの場を乗り切りたかったが会話のボキャブラリーが不足している私には無理なことだった。

 しばしの沈黙の後、早稀さんが口を開いた。

「……やっぱり。まあ、言いにくいよね本人には。椿ちゃんは特別奏音と仲良しさんだったから」

「そんな、えっと私は……」

 掠れたような声しかだせない。そして焦燥感が体を駆け巡る。曇らせた表情の早稀さんは私を見遣り、実は……と言葉を発した。

「……私も前から奏音のこと気にはなっていたんだよ」

 えっ?と私は小さく呟く。

 聞き間違い……ではない。思考が追い付かなかった。まさか、早稀さんも奏音さんのことを……。

 その時、私は妙な焦りのような感情を抱いた。

「……奏音にはこの曲向いてないよね」

 えっ?と今度ははっきりとした口調で私はもう一度呟いた。

 どういうことなのだろう。この曲に向いていないとはどういうことか。私の中で繋がらず話が見えてこなかった。

「えっと、ごめんなさい早稀さん。何の話かしら?」

「……何の話って、クレイドルのキーについてだよ。奏音は原曲のキー合わせようと無理してる。本当の地声はもっと低いはずなのに」

「……ああ、キーの話だったのね」

「……そうだよ、キーのことだよ。あのまま続けたら声を潰してしまうかもしれないから」

 どうやら私と早稀さんとの会話に齟齬があっただけだとわかりの肩の荷が下りた。私の気持ちに気付かれていないことに安堵し大きく息を吐いた。

 そして先ほど感じていた焦りはすっかりと消え失せていた。何に対して焦りを抱いていたのだろう……。

「……ん?椿ちゃんは何か別の事と勘違いしてたの?」

「いいえ、何でもないわ!」

 慌てて両手と首を左右に振った。

「でも……奏音さん無理をしているようには見えなかったけど」

 たしかに今日の練習でも何度か咳き込んではいたけれど、そこまで深刻な状態には見えなかった。

「……今はまだ大丈夫かもしれないけど、症状が出てからだと手遅れになっちゃう」

「そういうものなの?」

「……そうだよ。私の好きなネット出身の歌い手さんがいたんだけどライブをよく体調不良で休んでいたんだ。後になってわかったんだけど喉を酷使してたんだ。それも自分に合わないキーで歌っていたのが原因だった」

 ボーカルの云々をよく理解していない私はそうなんだ、と答えるしかできなかった。前髪で瞳は隠れているけれど、悲しそうな表情をしているのは感じ取れた。よっぽどその歌い手が好きだったのだろう。

「……このまま続けるのは私的には少し心配」

「そうね、でも私と早稀さんの二人だけでは決められないし……」

「……まあまだ様子見でいいとは思う。せっかく決まった曲を別の曲に変更するのは嫌だしね」

 それは確かに嫌だ。せっかく苦労して練習してきたことが無駄になってしまう。

「……ところで、さっき椿ちゃんは何の話と勘違いしていたの?」

「ふあっ!その話はもういいからっ」

 その後、何と勘違いしていたかについての押し問答がしばし繰り広げられたのだ。

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