限界と恋

「ノゼちゃん、こっちにいる?」

 丁度作業を終えた頃、薄い木の扉のノック音と共に春人の声が響いた。

 震えそうだった。私は、春人を置いていく。もう二度と会えることはない。

 一度深く息を吐き出す。そう、これは、最初から決まっていたはずなのだ。


 古い木戸のアルミのノブを回して、ガチャリと重厚な音をさせて軽い扉を開く。

「ただいま。今日は一緒に、オムライスを作ろう」

 陽光が差し込んだようにキラキラとした表情で私を見る春人が、買い物袋を掲げる。

 ぐっと喉が詰まった。

 もう少し、もうほんの少しだけ。

 どうか春人の笑顔を曇らせずに、側にいたい。


 目に焼き付けるよう春人の姿を見つめて、一緒に料理をした。

 じっと見ている事に気づくと、少し照れたように視線を揺るがせる春人の姿を、泣きたい思いで記憶に刻んでいた。

 一緒に食事をして、一緒に片づけて。永遠に続いていくかのような、何の変哲もない日常風景。

 それでも、窓辺から橙に染まった光が差し込んで来る頃には、もうこれ以上決着を引き延ばす訳にはいかなくて。

 私は春人の隣に並んで座ったまま、真っ直ぐに彼を見つめて口を開いた。



「あのね、春人。私、伝えなければならない事があるの。本当は…」

 滲みそうな涙を、眦に力を込めて堪えた。眉間にも深く皺が寄っている。

 私はこんな女だっただろうか。こんな女に、なってしまった。

「私は記憶なんてなくしてない。本当に、遠くから来たんだ」

 春人は真っ直ぐに私を見ていた。私の表情を見て不安げに目を開き、そっと私の手を握る。

「私ね、千年先の未来から来たの。映画の画像が残ってて、その中の春人に恋をして、会いにきたの」

 会えて、良かった。そう思うと、こんなに狂おしいのに口元が緩んだ。ほろりと涙が伝って、視界の端で虚空を煌めかせる。

「帰らなければならないの、もう」


 突拍子の無い話に違いない。なのに春人は私を瞬きを忘れたようにじっと見つめ続けている。

「ノゼちゃんが……記憶喪失とかじゃないって、気はしてたけど」

 重ねた手がぎゅっと握りしめられて、小さく消え入りそうに春人が囁く。

「そう、僕を知っているんじゃないかって、そんな気がしていて。だから、不思議で。でも、本当に、そんな物語みたいなこと………」

 出会った頃に、物語みたいと目を輝かせた姿はそこにはない。惑うように、縋るように、視線を彷徨わせて俯いて。

「でも……君の存在は、あまりにも不思議だったんだ。だから、そう言われても、……疑えない」


 搾り出すように低く音を枯らして、春人が紡いだ言葉が耳に届くと同時に腕を引かれた。急激に引き寄せられた私は、春人の腕の中にいる。

「……どうして?いなくならないで。ここにいてよ」

 悲愴な声が、私に懇願する。

 そうできれば。私の身一つで、この魂ひとつで、それが叶うならば何だってするのに。

 吐く息が震えて、胸がひくりと空気をしゃくった。


「私たちは、出会ってはならなかった」

 温かな身体に、全てを委ねるように身を任せたまま、空っぽで冷静な頭で言葉を綴る。

「私たちは決して出会う訳がなかった。私がここにいることはね、歴史を変えることなの」

「……ここにいるのに」

 強く背を抱かれる。頭の上から降ってくる唸るような声音は、曇っている。

「そう、ここにいてはならなかった。私は春人を一目見て、満足するつもりだった。そうしなければ、ならなかった」

 アクシデント続きのDay1。それでは足りなくなってしまった。でもそのアクシデントがなかったら、私はこんなに幸せを知ることはできなかっただろう。

 終わることがわかっていても、私は今まで生きてきた中で一番幸せな時間を過ごしていた。それは、何にも代えがたい時間だった。


「もう既に、あるべき時の運行を乱している可能性だってある。タイムパラドックスはいかなる理論上も許されない。そしてね、私の技術では、今日が帰れる限界なの。帰れなければ……きっと、破滅しかないの」

 私が顔を押し付けた春人のシャツは、じんわりと濡れていく。静かに、ただ事実だけを語っているのに、詰まり詰まり息の途絶える声音は不安定な音になってしまっていた。


 ふっと、身体が軽くなった。私の身体が、春人から引き離される。

 顎元を攫うような指先は力強くて、されるがままに春人を見上げる。

 濡れた瞳には、あの仄暗い情熱が灯っていて。息も心臓も止まってしまいそうだった。

「僕はもうすっかり、ノゼちゃんを好きになってしまったんだ。それ以外なんて、考えられないくらいに。破滅してもいい。君と一緒にいたい」


 唇が降る。間近の春人の唇が触れる。

 決して異論を認めたくないというかのような力で私の後頭を抱いて、息が紡げないほどに何度も、長く触れ合う。

 呼吸が上手くいかずに唇をほどけば、食まれて、舐め上げられて、忍び込まれる。

 それは何もかも私が知らないもので。

 絡められ、弄られ、何度も触れたことがない場所を侵食される事に、そうやって求められることに、ひどく悦びを感じて心を蕩かされた。

 必死に上下する胸から急いて喘ぐ呼吸も、耳の奥でで鳴り続ける鼓動も。全部止まってしまえばいい。

 だけど、春人の息も心臓も、決して止めさせたくはない。


 脱力した腕に力を入れて、春人の胸を押す。その微細な抵抗に、春人は顔を離して荒く息を吐きながら私を不安そうに見つめた。

 あがった息をゆっくりと深呼吸して整える。ほろほろと滑り落ちる涙は止められない。

「私も、滅んででも側にいたいくらい春人が好き。初めて人を好きになったの。だから、無かった事にさせないで?私がいなくても、貴方がいなくても、私たちは出会えなかった」

 私はきっと、笑っていた。初めて愛した人に愛された奇跡が、とても幸せだった。


「それでも、僕は君を離したくない」

 私の頬に、ぽつりと雫が降ってくる。二人分の涙が、空中を煌めかせて消える。

 言葉なく春人は私を抱きしめる。

 私ももうそれ以上の言葉を持たない。肩に伏せられた口元から、押し殺した嗚咽が響くのをただ聞いていた。

 そして、縋るその腕を解けない。



 タイムリミットは、夜更けまで。

 もう時間なんてわからない。ただ春人を振りほどけないまま、静けさの満ちた夜の空気を肌で感じていた。

 抗わなければ。

 そう思いつづけている内に、いつの間にか意識は朦朧と春人の温もりに浚われた。

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