ある死にたくなるほど晴天の日に

葉月 望未

「……道徳?はっ、笑わせんなよ」




——最悪、だ。


 今日は過ごしやすい気温だと、天気予報でお姉さんが言っていた。

空を仰ぐと晴天だった。


透き通るような青さは高く、それはもう嫌になるほど清々しく、風は柔らかく秋の涼しさを運んでくる。


 それが寝不足の気怠い体と心にひどく追い討ちをかけた。


 雨や曇りなら少しは安らぐのに、こういう日に限って晴れているなんて。

まるで光や青さに嘲笑われているような気さえする。


 世間一般に良い天気だと言われる今日。


どこへ出かけようか、何をしようか、なんて晴れやかな気持ちなのだろうか。

それに比べて俺は——。


 瞼が目に重くのしかかり、肌は花粉に荒れて痒い。一歩がずんっと体に響いて吐きそうになる。


 なんとか駅まで辿り着くと、いつもと少し違う光景に「ああ、」と肩の力を抜いた。


改札前に立ち止まっている人が大勢いる。案の定、アナウンスが流れていた。



『——人身事故が発生した影響で』



 電光掲示板には「遅延」の赤い文字。

 雑踏の中、聞こえてくる声。


「今日は大事な会議だってのにいい迷惑だよ。くそ、バスもタクシーも混んでて乗れやしねえ」


「ええ、そうなんです。電車が動かなくて。出社も何時になるか」


「死ぬなら勝手に死ねよ。いい迷惑だよ、全く」


「えーやだあ!イベント遅れたらどうしてくれんの!」


焦燥、苛立ち、嫌悪を気持ちの悪い唇で言葉にし、駅を埋め尽くす重さから目を逸らした。



「……い、ってぇ」


無意識に触れてしまっていた耳から痛みを感じ、驚いて指先を見ると血がついていた。

 休日、久しぶりにつけたピアスをシャツに引っ掛けてしまい、ちゃんと消毒をしなかったせいで膿んでしまっていた。


痒くて無意識に掻いてしまう。溜め息を吐き出した。


 「会社に、連絡……。」

と、スマホを取り出して真っ黒な画面を見つめ。……ぼうっと、してしまう。



 人が今日、死んだ。電車に轢かれて、死んだ。きっと、多分、いや、間違いなく。


 いつだったか、それはまだ大人はみんな凄いんだって信じていた、あの頃。人はみんな平等だと、学校で習った。道徳を習った、はずだ。



「……道徳?はっ、笑わせんなよ」



 俯いて嘲笑し肩を震わせる。


 道徳の授業では、正しい回答をする。それはもう驚くほどの模範回答を。

 困っている人がいたら助ける、人が嫌がることはしない。この場面で、どうすべきが問われたらきっと『死を弔いましょう』なんて言うはずだ。


——それが、一歩、社会に出たら道徳なんて模範回答は、ゴミと化すわけで。


 「死」は平等じゃないのかよ。どうして死んでからも蔑まれなきゃならない?



ふと顔を上げると女性とちょうどすれ違うところだった。目が合う。


嫌悪の目が、向けられる。


今度は深く俯いた。


きっと、あの女性の目に俺は「気持ちの悪い男」とでも映ったのだろう。



「あ、すみません」


 ドンッとサラリーマンの男と肩がぶつかり、よろけてしまった。男は定型文を読み上げるように謝り、俺のほうを全く見ない。


 雲の影に覆われ、薄暗くなる。


 どうしてだろう。人が死んだのに。きっと何かを思って死んでいったのに。


 顔も名前も知らない人間のことをどうしてそんなふうに言えるんだ。誰かの大事な人かもしれないのに。お前ら、大事な人が飛び込み自殺したって聞いたら「迷惑だ」なんて笑って言えるかよ。


 ……くそみてえな世界だ。


 左手で拳を強く握ると自然とスマホを持っている右手にも力が入ってしまった。



 今日は珍しく何も心配事のない日だったんだ。


 それなのに夜は眠れず、朝の目覚めは最悪で。


いつも明日のことを心配して眠る息苦しさや焦りがないからか、いつもより自分が薄っぺらい気がした。地に足がついていないような、ぼんやりといつも通り、ただ体が動いているだけのよう。よう、じゃないな。俺の外側の体だけが勝手に動いて、昨日と同じことを繰り返しているだけ。


 俺の体調はいつも通りで、晴天が眩しくて辛くて。でもそれが、平常運転で。


 でも。天気の良い、多くの人が口を揃えて言う過ごしやすい日に、知らない誰かが、死んだ。



「……っ、」



 ああ、苦しい。目が熱い。喉の奥も。


どうして俺は、こんな、くそみてえな世界で生きながらえているんだ。


 今日は、何も心配事がない日。けれど、心が限界を、超える。

——涙が雫となって、落ちていくのを俺はそっと見つめていた。

……何もない日だからこそ、限界を、超えたんだ。




——死にてえなあ。



 ひいっく、と情けのない大きな嗚咽が溢れる。


 「死にたい」と思っている俺を、人々が避けて通り過ぎていく。嫌な視線を感じる。


 ふらふらと歩き始め、頭の中で死に場所をぼんやり考え始めた。



 ——もし電車に飛び込んだら、くそみてえな世界に少しくらいは迷惑をかけられるだろうか。ああ、でも、電車に飛び込むのって案外、そんなことを思って飛び込むものじゃないのかもしれない。体が勝手に動いてふらりと簡単に。その動作はあまりにも自然なはずだ。



 ——もし綺麗な場所で息絶えられたら。

 透き通る海の一部に。艶のある草原、その谷の深淵で。

あとは……俺の想像力じゃ、全然浮かばないな。


こんなもんか。ダサいな、本当。まあ、でも……。


「どうでもいいか、そんなん」


 別に冷たいコンクリートに体を打ちつけられて死んだって、いいか。



 そもそも俺はもうこの世界になんの期待もしていない。


学生の時は差別やら規律やら押さえつけられる圧迫感やらに辟易していて、いつになったら自由になれるんだろうと首元まで締まる学ランに触れながら思っていた。




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