甘え上手

「おかえりー、遅かったね?」


家に帰ると私服エプロンで台所に立つ妹が声だけで迎えてくれた。

この匂いは卵?


「ああ」


「もう少しで夕飯できるから待ってて」


「分かった」


自室のベットに身を投げ出し右手を眺める。


「柔らかかったな」


時間が経つにつれ逢坂のふわっとした髪質の感触が無くなっていく。

それに寂しいと感じてしまう自分がいる。


どの布や繊維とも違う柔らかさと滑らかさを兼ね備えている逢坂の髪は俺にすれば国宝級の価値がある。


「また、撫でたいな」


二度と叶わない欲望を口にする。それはとても小さな呟きだった。


「疼くの?」


「!」


唐突に聞こえる声に驚き上半身を起こす。


「雪か、入る時はノックをだな……」


そこに立っていたのは包丁を握り締めたエプロン姿の雪だった。

今の構図を第三者が見たら殺人現場と勘違いしそうだ。


「大声で呼んだし、ノックもしたよ。それでも返事が無かったからわざわざ呼びに来てあげたんだからね。感謝してよね」


「それはすまなかったな。ところで包丁をこっちに向けるな。怖い」


感謝してよね。と言うセリフとともに包丁をこちらに向けてきた。刃先が俺を逃がすまいと光った気がした。


「料理してあげようか?」


雪は包丁を顔の横に持っていき飛びっきりの笑顔でそう言った。

ヤンデレみたい。


「悪いが勘弁するよ」


俺は両手を上げ降参のポーズを取る。


「よろしい!冷めるから早く来てね」


雪は満足顔で部屋を出て行った。


「着替えるか」


制服から部屋着に着替え階段を降りる。


リビングに近付く度に食欲をそそる匂いが鼻腔を突き抜け腹が鳴る。


「じゃーん!今日のご飯はかに玉だよ!」


「おお、それは凄いな」


食卓に並ぶのは黄金色に輝くベールに包まれているかに玉と他三品。

中華料理と言えばチャーハン、酢豚、かに玉だと思っている。

ちなみに酢豚にパイナップルは許せます。


「「いただきます」」


手を合わせた後木製のスプーンでかに玉を掬う。

ほど良い硬さの卵と餡がスプーンから零れ、滝のように皿に落ちる。


「美味しい」


口に運び一口噛み砕く。甘みの効いた餡と少し辛い小ネギのコラボレーションが食欲を増進し、手が止まらない。

十分も経たず皿の中は空になった。


「美味しかった」


手を合わせ食事は終わりだ。


「お粗末さま。私洗い物あるから先にお風呂入っていいよ」


「分かった」


カポーン


「ふぅ〜」


季節は変われどまだまだ寒い日は続いている。

一日の終わりはやはり風呂では無かろうか?


「あったけぇ〜」


やはり風呂は落ち着く。

毎日の不平不満が全て洗い流されて行くような感じがする。


「ふあぁ〜」


おっと欠伸が出た。風呂入ると眠くなくても欠伸と共に眠気が来るよね。寝たいと何度思ったことか、そういや昔『風呂での睡眠は気絶しているだけ』と言う話を聞いた事がある。真偽は不明である。


「上がったぞ」


リビングに戻り、テレビを見ながらクッキーを食べている雪に声を掛ける。


「ん?ふぁふぁ、ふぁかった」


口一杯にクッキーを頬張っているせいなのだろうが、何一つ聞き取れなかった。


「食うか喋るかどっちかにしろ」


「んぐんぐ、ごく。分かった」


雪はクッキーを仕舞い。風呂場に向かった。


「何だよ」


リビングを出る直前、顔だけこちらに向け「覗かないでね」とイタズラっぽく言った。


「覗かねえょ」


俺の呟きは雪には届いて居ないことだろう。



ドライヤーで髪を乾かし、ベットに横になりながら意味も無く天井を眺める。


静寂を物にした部屋に聞こえてくるのは近所の犬の鳴き声だけ、「お兄ちゃん?」不意に部屋の扉が開く。


ノックすると言う常識をすっ飛ばし髪から雫を垂らした雪が入って来た。

部屋の入口にちょっとした水溜まりが出来た。


「何だっ……て頭くらい拭けよ」


「ん、ありがとう」


部屋のクローゼットからタオルを取り出し雪の頭を拭く。

ある程度拭き終わり水滴が垂れてこなくなったタイミングで質問する。


「それで、何か用か?」


「お兄ちゃんこれ」


そう言って後ろ手から雪が出したものは


「ドライヤー」


だった。


「乾かして」


雪はニパーと笑う。


「自分でやれよ」


「お兄ちゃん。私はこの家の炊事洗濯掃除全てをこなして来たよね?」


「まあ、そうだな」


「たまには労っても良いと思うのです」


両親は共働きの上、家に帰ってくることは滅多に無い。それゆえ雪に全てを押し付けている節も自覚もあった。

雪はねだるような視線を向けている。


「今日だけだぞ」


「ありがとうお兄ちゃん。じゃあ早速」


「何で乗る必要があるんだ?」


言うが早いが雪は俺の膝の上に乗ってきた。近距離にある雪の髪からシャンプーの匂いが漂って来ており、少し緊張する。


「こうしないとドライヤー出来ないでしょ。優しくお願いね」


「ああ」


ドライヤーの電源を入れ、髪を乾かす。雪は髪が長い。乾かすだけでも相当な時間を使いそうだ。


「ん……あっ……」


内側も乾かすために梳くようなイメージで手を入れる。

奥から外に髪を触る。絡まりなどはなくスっと指が抜けていく。

逢坂程では無いが、触り心地は良い。


「終わったぞ」


ドライヤーの電源を止めベットの上に置く。


「ありがとう。……」


「どうした?」


ドライヤーが終わり部屋から出て行くかと思ったが、膝の上から退く気配が無い。


「ねぇお兄ちゃん。覚えてる?」


「何がだ?」


「昔よく膝の上に乗ってた事」


「ああ、覚えてるよ」


あれは小学校の時だ。その時の雪は泣き虫で泣く度に俺の膝の上に乗り良く頭を撫でていた。

俺があの時逢坂の頭を撫でたのは昔の雪と泣いている逢坂を重ねたからなのだろう。


「それがどうした?」


「今、撫でてって言ったら撫でてくれる?」


雪は淡々とそう言ったつもりだったのだろうが、髪の隙間から覗く耳が赤みを帯びているのを俺は見逃さなかった。

口にするつもりは無いけどな。


「別に構わないよ」


「お願いしても良い?」


「お易い御用だ」


そう言って俺は逢坂の時同様に優しい手付きで雪の頭を撫でる。


「今日は随分と甘えん坊だな?」


「私だってたまには甘えたい日があるんですよ」


中学生という多感な時期に家の事を押し付け雪の自由を奪っている。その事が俺には堪らなく辛い。

雪にはもっと友達と遊んで、話して、喧嘩して、そんな普通を送って欲しい。


「いつもありがとうな。そして、すまないな。雪には友達を優先させてあげたいんだけど、俺がもっとお兄ちゃんしてれば良かったな」


俺はなるだけ優しい声質で感謝と謝罪の言葉を口にする。


「!……その気持ちだけでうれしいよ」


雪が満足するまで撫で続けた。


「ありがとうお兄ちゃん。これからもよろしくね」


部屋の扉を開け振り向いた雪の顔は満面の笑みだった。


「こちらこそよろしくな。これからも迷惑を掛けて行くかもだけど」


「おやすみ」


「ああ、おやすみ」



「大胆に甘えて良かった」


人知れず笑う私だった。

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