第4話 恋情

 心を無にしてこぶしを突き出す。日課にしている正拳突き五百本をこなしながら、久しぶりに邪念が消えていい汗が掻けていると思った。

 樹希が通っていた空手道場の先生は、既に七十を超えたお爺さんだったが、昔は全日本空手道選手権の型の部で、五位入賞したこともあったようだ。

 初めて教わった頃は、既に組手をすることはなく、健康づくりの傍らで子供たちに型を教えるだけだった。

 だから樹希が教わったのは型のみで、本格的な組み手をしたことはない。もちろん瓦を割るなどのパフォーマンスもしたことはない。


 それでも先生の繰り出す正拳は、老齢にも関わらず空気を切り裂く感じがして好きだった。いったいこんなお爺さんが、どうしてこんなにも鋭い突きを繰り出すことができるのか、不思議でしかたがなかった。

 先生の話では六十年以上毎日正拳を突き続ければ、突くときにつま先から首までの全ての筋肉が、拳を突き出す動作に反応して、意識しなくても自然に動くようになる。そうなれば、特段力を入れなくても、拳のスピードは高まるのだと言っていた。

 中学に入学した直後にその先生が脳梗塞で亡くなり、当時受験勉強で道場から足が遠のいていた樹希は、先生に教えを受ける最後の時間を失ったことを悔いたものだ。

 今でも先生の教えに従い、全身が拳を突くことと一体になる感覚を求めて、正拳突きを日課にしている。

 五百本突き終えて、ここ数カ月感じなかった充実感に満たされた。余計な雑念を持たずに、突くことだけに集中した拳には、先生が言ったつま先から首までの筋肉の連動を、微かに感じた。

 冷蔵庫から炭酸水の入ったボトルを出して、そのまま口をつけて飲む。

 この気持ち良さを導いてくれたのは、間違いなく戸鞠明良だ。彼が杏里紗グループを撃退してから、樹希に対するいじめが止まった。

 いじめが止まったここ数日の快適な日々が集中力を生み、何をしても効率がいい。


 明良が進藤たちを撃退した技は、樹希の目をしても未だに何なのか分からなかった。襲い掛かって来る男たちは、一様に宙に飛び背中から地面に落ちている。

 柔道やレスリングのように、投げる前に組み合った様子はなかった。

 近いと思えるのは合気道だが、樹希は実際の合気道を見たことがないので、あの神業のような投げが、本当にできるのかどうか分からなかった。

 どんな技を使ったのか直接本人に聞きたかったが、あれから話す機会がない。

 干渉されることを極端に嫌う明良を思うと、自分が話しかけることによって、他の者に好奇の種を蒔くことは避けたかった。


 中学生になってから、クラスメートに対する興味が消えた。

 早く社会に出て母親に大人だと認めて欲しかったから、友達とじゃれ合う時間を求めることはなかった。そんな時間があるのなら、英単語の一つも覚えたい。

 でも明良と話したい欲求は日増しに高まってゆく。それが特定の人に対する自分の依存心だったら困るなと、樹希は思った。

 人に依存しないで生きて行こうとする自分の生き方は間違ってないと思う。杏里紗によってクラス中から無視されても、特段困ることはない。ちょっとしたいたずらをされても、鬱陶しいとは思うが逐次撃退できている。

 ふと、母親の顔を思い出した。自分の生き方が知らず知らず、彼女のそれに近づいている。やっぱり親子なのかと思った。


 汗を掻いたのでシャワーを浴びて、バスから出たところで真智が帰ってきた。

「早いわね」

 もう九時を過ぎていたが、仕事人間の真智にしては早い帰りだ。

「たまにはね。学校はどうなの? 楽しい?」

 真智はたまに会っても学校は楽しいかしか訊かない。それに対する樹希の答えも、楽しいよとそこで会話は止まる。しかし今日は違った。

「不思議な人が転校してきたの」

「不思議な人?」

「うん、転校してきて初めての中間テストで学年トップをとるし、不良グループに絡まれても簡単に撃退しちゃった。おまけに凄い奇麗な顔をしてる」

「あら、好きになっちゃったの?」

 真智はあまり興味なさそうな顔だ。

「ううん、そんなんじゃない。すごく怖いところあるし」

「ふーん、まあ頭のいい子は変わったところあるから。好きじゃないんなら、気にしない方がいいかもね」

「でも、戸鞠君はどんな人間なのか興味はあるんだ」

「戸鞠……その子のフルネームって分かる?」

「戸鞠明良だよ」

 真智の顔に驚きの色が浮かんだ。

「中学生、戸鞠明良……もし私が知っている人なら、その子は大変な人かもしれないよ」

「そうなの」

「日本の経済界には旧財閥系とは別に、政界にも大きな影響力がある裏財閥というのがあるらしいの。裏財閥は日本の各地域に点在し、表に出ない形で特定の地域・業界を裏で取り仕切っている。そんな裏財閥の中の一つが北条家で、日本で金融業に携わる者なら少なくとも名前は知っている」

 樹には裏で取り仕切ることが、どういうことかよく分からなかったが、そこで説明を求めると怒られそうなので黙っていた。

「ただ最近の金融業界は、日本市場だけでは成立しなくなっていて、影響力を高めるには世界的な金融ファンドの分野に進出しなくちゃいけないの。それで徐々にその存在がオープン化されてきて、北条の名前が世界的にクローズアップされたの。その北条家の取引の代表者が、若干一五才の中学生で名前が戸鞠明良」

「それってすごいの?」

「すごいわよ。例えば基軸通貨の先物取引市場は、有力な材料があると、全世界で数兆円の資金が動くから、うまく立ち回れば億単位で利益を得ることができる。もちろん損失も大きいから、常に天国と地獄が隣り合わせの世界よ。それを小学生の頃から連戦連勝で勝ち抜いているんだから、注目されない方がおかしいわ」

「そんなには見えないけどなぁ」

「ねぇ、戸鞠君に会ってみたいんだけど」

「えっ、お母さんが……」

「うまく仲良くなってよ」

「なんか絶対嫌!」

 自分のクラスメートさえ、仕事に使おうとする真智に嫌悪さえ覚えた。話すのが嫌に成ったので、さっさと自分の部屋に入った。

 ベッドで横になると、すぐに眠気が襲って来る。勉強しなければと思ったが、睡魔には勝てなかった。


 翌朝登校しても、杏里紗から予想していたような嫌がらせはなかった。まだ明良の姿は見えない。拍子抜けして席に着くと、杏里紗が神妙な顔をして近づいてきた。

「おはよう、緒川さん。今までごめんなさい」

 突然謝られたので、樹希は間抜けな顔で杏里紗の顔をボーっと見てしまった。知っている限りでは、杏里紗は簡単に謝るような女ではない。

「うん、別にもういいよ」

「友達に成れないかな」

 これも唐突な申し出だった。周囲の者も驚いて成り行きを見守っている。

「私と?」

「そうだよ」

 あまりの急展開に樹希の頭が追い付いてゆかない。思考がまとまらないうちに頷いてしまった。

「良かった。じゃあ、今日放課後一緒に帰ろう?」

「今日?」

「そう、紹介したい人もいるし」

「いいけど、急だね」

「こういうのは時間をかけない方がいいと思って。じゃあ、後でね」

 杏里紗はこれ以上ないという、美少女の魅力の詰まった笑顔を残して、席に戻って行った。背後で誰かが見ている感じがしたので、振り向くと明良だった。

 目があったので、我ながらぎこちないなと思いながら笑顔を見せると、明良はニヤッと笑ってから手元のタブレットに目を落とした。

 その姿を見ながら、この人が先物市場の寵児かと、出会いの不思議さを感じざるを得ない。既に自立して自己を確立していることに、憧れを感じてしまう。それこそ、樹希が今最も欲していることだからだ。


 放課後に成って、約束通り杏里紗と一緒に帰ることになった。午後から雨が降り出したので、樹希は置き傘を持って教室を出る。下駄箱の前で杏里紗が待っていた。

「緒川さん傘を持っていたんだ」

 樹希が手に持った傘を見て杏里紗が嬉しそうに声に出す。

「ねぇ、私も入れてくれる」

 杏里紗の頼みに快く応じて、傘を開いて杏里紗と共に歩き出す。

 雨の日は見慣れた景色も不思議な風情を帯びる。校庭の立ち木の幹が雨に濡れて、木肌がしっとりとした色合いを見せると、造形物ではなく生物であることを意識する。特に冬は葉が落ちて、生命活動を停止させているかのように見えるだけに、その印象が強まる。

 足元は所々に水たまりができて歩きにくいが、人工的なアスファルトの上を雨水が覆って流れ行く様は、自然が人間を飲み込んでいるようにさえ思う。

 風で横向きに吹き込む雨が顔にぶつかると、自然が生物の集合であることを主張しているような気がして、周囲を見る目が変わってくる。


 大事なのは気づきと感性なのだ。雨が降っただけで見慣れた景色を違うものとして感じることができる。今日はそんな雨の中を、自分以外の人間と一本の傘の下で寄り添って歩いている。

 否応にも、樹希の感性は研ぎ澄まされ、相手を認知しようとアンテナが感度を増す。

 杏里紗は、楽しそうに歩いている。肩が細い。手首も細くて全体的にきゃしゃで折れそうな感じだ。筋肉質な自分と比べると、女性のイメージにぴったりなのは杏里紗だと敗北感を感じる。

 昨日まで自分を憎んで、鬱陶しい嫌がらせを命じていた女なのに、今は守ってあげたいような、甘酸っぱい気持ちが生まれてくるから不思議だ。対人印象が容姿に左右されることを思い知らされる。自分の強い意志を表す目や勝気な表情が、杏里紗のいじめを引き出してしまったのではないかと、思わず反省してしまう。


 学校から駅までの徒歩十分の道程を歩いている途中で、一台の車が停車した。樹希でも知っているドイツの有名なメーカーの車だ。窓ガラスが空いて男が顔を出す。

「杏里紗じゃないか、学校帰りか?」

「零士、どうしたの?」

「仕事でこの近くに来た帰りだ。乗っていくか?」

 零士と呼ばれた杏里紗の知り合いは、浅黒い肌と、引き締まった頬がマッチして、鋭い印象を与える男だった。どこか油断ならない雰囲気がある。

「ラッキー、ねぇ緒川さんも一緒に乗って行かない?」

「私はいいわ。及川さんは乗せて行ってもらえば」

 樹希としては知らない男の車に乗せてもらうのは抵抗がある。かといって断っても杏里紗が承知しないような気がしたが。

「えー、一緒に乗ってくれないんだ。許してもらえたと思ったのに、やっぱりそうじゃないんだ」

 予想通り、杏里紗は駄々をこねた。理屈にならない無理筋の言葉ではあるが、杏里紗が言うと妙に似合うから始末が悪い。

「じゃあ、駅までなら」

 気は乗らないがせっかく和解したので、しぶしぶ承知した。ただ、今後杏里紗がこのノリを続けるようなら、残念だが付き合いを止めざるをえない。樹希の性格として、人に流される行動は耐えられないからだ。


 車に乗り込むと、零士が後ろを振り向いた。

「お友達の方、申し訳ありません。俺が気軽に誘ったばかりに、無理させる形になってしまって。杏里紗、いつも言ってるだろう。お前は親愛を表現してるつもりでも、相手は困ってしまうこともあるんだ。もう少し相手を信じて、相手の言葉を尊重しろ」

 零士にたしなめられて、杏里紗は困惑したが、すぐに樹希の顔を見て言った。

「ごめんなさい緒川さん、私これから気を付けるから、嫌なときは遠慮なく言ってね」

 樹希は自分の胸に溜まっていたモヤモヤを零士が指摘してくれたので、びっくりしてしまった。同時にこれから杏里紗に対して、思ったことを隠さず言える気がして気持ちが少し晴れた。

「謝ることはないよ。でも言いたいことを言えた方が、関係は長続きすると思うから嬉しいよ」

 笑顔を見せると、杏里紗はホッとしたように小さく頷いた。

「今の様子を見ると、二人は友達に成り立てみたいだな。どうだろう、これからの付き合いもあるし、俺の紹介も兼ねて、その辺でお茶でもしないか?」

 零士の申し出に、救われたことも有って、樹希は断れない。杏里紗と零士の関係を知りたいという気持ちがあったことも否定できなかった。

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