2. Lachen ist die beste Medizin.



 現場捜索を終え、休んで落ち着いた小泉を連れて署に戻ると、入口前に血気盛んなデモ隊が立っているのが見えた。小泉はため息をつき、私は舌打ちをしてブレーキを踏む。連中は車に気づくと、フロントガラスにプラカードを叩きつけて喚きまくる。写真を撮られそうになり、慌てて顔を手で覆った。

 メディカル反対派のデモが、最近多い。

 彼らは『警察と製薬会社が共謀して国民を騙している』と信じ込んでいる。精神病患者による陰惨な事件をでっち上げることで、人々の不安を煽り、法外な価格でメディカルを買わせようとしているのだと言ってはばからない。

「こういう陰謀論者にこそ、薬が必要だと思うんだがな」

 そう言いながら車を立ち往生させていると、すぐさま警官隊がやってきて、車の周囲のデモを制圧した。全員蜂の子を散らすようにいなくなった。あたりにはドギツい配色のビラと、捨てられたプラカードだけが残る。

 行動の自由。言論の自由。

 未だにそんなものが過保護に守られているせいで、被害妄想を患っていようが、メディカルでハイになっていようが、誰もが好きな場所で好きな時に、好きなように叫び声を上げる。そして何かトラブルがあれば、警察に全部押し付ける。

 去っていく後ろ姿をバックミラー越しに見ていると、小泉が疲れた声で言った。

「笑ってましたね、あの人たち」

「ああ」

 笑いこそが最良の薬。

 それが反対派のスローガンだった。でも実際、メディカルが普及する前のこの国では、精神病患者による残虐な殺人事件が多発していた。そしてどれだけ残酷な殺しをしても、心神喪失・心神耗弱を理由に無罪放免となったケースは無数に記録されている。でもどうせデモの奴らは、そんな事実なぞ知らない。ほとんどの人が知っていることだが、きっと知ろうとさえしていない。そういう連中なのだ。自分が見たくないものは、何が何でも見ようとしない。

 なぜならこの世で一番大切なものは、なのだから。



 デスクに戻った私は、熊谷の言っていた「別件」についての情報収集を始めた。データベースによると、ジンメルの名が最初に現れたのは二ヶ月前のことである。

 その日、アーティストを自称していた青年が、自宅近くの駐車場の壁にスプレーアートを描いたあと、スプレー缶の中身を吸引して死んだ。絵のそばには『simmel』という走り書きがあった。その他にも、首を吊ったOLの遺書、学校の屋上から飛び降りた少年の日記、入水した風俗嬢の書き込み、通勤電車に飛び込んだサラリーマンのメモ帳などからも同じ語が見つかっている。彼らは皆メディカルのヘビーユーザーだったが、関係者への聞き込みによれば、死ぬ前の数週間は、急に飲む量が減っていたらしい。

「なあ柚子崎、ちょっと働きすぎじゃないか? そろそろ休憩しようぜ」

 不意に背後から話しかけられ、振り返ると、同僚の藤山ふじやまが立っていた。

「いつの間に。びっくりしたよ」

「ずいぶん熱心に調べ物してたみたいだな。熱心なのはいいが、あまり無理すると体壊すぞ? 外で一息入れてこいよ」

 にこやかに言う藤山の手元は、しきりに両手を重ね合わせたり離したりと、落ち着きがない。私はおもむろに椅子から立ち上がった。

「じゃあ、コーヒーでも飲んでくるかな。藤山も一緒にどうだ?」

「いや、俺はいいよ。コーヒーを飲むと、薬の効果が出にくくなるってテレビで言ってたからさ。それより、ペパーミント味のメディカル持ってない? それか梅味」

「悪い。今は手持ちがない」

「それは残念。残ってるイチゴ味で我慢するか。でもイチゴ味って、ほんとどこのも不味まずいよな……」

 藤山の心底残念そうな顔を横目に、私は資料室を後にした。

 メディカルが革新的とされた最大の理由は、それまでの薬と違って、過剰摂取しても身体的な副作用がほとんどなかったからだ。もちろん一度に大量摂取すれば死に至るが、それは結局、どんなものでも同じといえる。メディカルの毒性は、コンビニ弁当に含まれる保存料のそれとほぼ等しい。

 にもかかわらず、最近は過剰摂取による自殺が後を絶たない。正確には致死量の毒で死ぬのではなく、わけだが、それも今のところ自由だ。「精神的に安定していたのだから、自殺それは衝動的な行為ではなく、本人の意思だ」と世論は考える。つまりメディカルの致死量とは、文字通りの意味ではなく、生存本能を理性が上回るのに十分な量のことを示している。


[ご自由にどうぞ!]


 給湯室に入ると、誰かの買ってきた土産の菓子類と並んでメディカルが置かれている。ショコラ、バニラ、グレープ、バナナ、抹茶。ポップな配色のコーナーを通って、奥の棚からインスタントコーヒーを取り出した。湯を沸かしていると、廊下の方から女性二人の話し声が聞こえてきた。

「あのぅ、先輩。柚子崎部長って、メディカル反対派なんですか?」

「え? なんでそう思うわけ?」

「だってあの人がメディカル飲んでるとこ、一度も見たことないんですもん。先輩は知ってます? あの人の使ってる薬」

「言われてみれば、確かに知らないわー。あははっ」

「体に悪いって言って、絶対飲まない人たまにいますよね」

「大体じじいばばあだけどねー」

「あとはぁ、自然療法信じた親にメディカル禁止させられて、その反動で成人してから違法ドラッグをやりまくって逮捕される人とかも」

「あーいるいる。かわいそうだけど迷惑だよねー。市販されてるので満足しときゃいいのに」

 彼女たちは楽しげに笑いながら給湯室に入ってきたが、私がいるのに気づいて気まずそうな顔になる。私は何も聞いていないようなふりをして、コーヒーカップを流しに置き、黙ってまた廊下に出た。


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