2-8 妖精と箸置き

 そうこうしているうちに奥の扉が開き、クコが駆けてきた。


 クコの口が元のように戻っていた。ムカゴは堪え切れずに膝から崩れた。


「……良かった……」


 ほろりほろりと頬を伝う涙を手の甲で払って、クコの髪の毛の先に触れた。


 本当は抱き締めたくて堪らない。けれど、この子を人間にしておくためには極力ムカゴは近付くべきではない。


 クコは父の涙を不思議そうに見ていたが、そのうち父が悲しんでいることは分かったのだろう、つられて瞳を潤ませた。


「クコ」


「うん! クコだよ」


 名を呼べば、この子なりの真剣な顔で返事がくる。


「……お父さんね、クコのお口がなくなった時、もう二度とクコの声が聞けないかと思ったんだ。すごく怖かったよ……」


 クコが口を引き結んで、こくりと頷いた。意味の全てを理解しているわけではないだろうが、ムカゴの安堵はきっと伝わっている。


「お願い、クコのお歌を聴かせて。お父さん、ここで聴いてるから」


 クコが笑顔になって、何処で覚えてきたのやら「あいあいさー」と敬礼した。とことことホノカの元に歩いて行き、何か耳打ちした。


 ホノカが電子ピアノを弾き始めた。

 幼い声がメロディーを紡ぐ。


「あめあめふれふれ かあさんが 蛇の目でおむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ らんらんらん!」



 雨が降り始めた。柔らかい糸のような春の雨が店の窓を濡らす。


 イツキが雨に促されたように、「クコの一番好きなところは?」と尋ねた。


「口があろうがなかろうが僕がクコを愛していることは揺るぎません。ただ僕が許さないだけです」


 ムカゴが不服そうにそう答えたのは、クコの口が無くなった時に狼狽えたことをイツキに揶揄されたと感じたからなのだろう。


 許せないのではなく、許さないのだ。


 ――ムカゴにはクコを崇拝しているふしがあるとイツキは感じていた。クコを純粋なまま保つためにはどんなことをしてもいいと思っているのではなかろうか。


 ムカゴにとってクコを傷つけた敵を排除することはもはや感情の問題ではなく、使命なのだとイツキは理解した。


 取り敢えずその解答には苦笑するしかない。


「“クコの全部が好きです”ってとこ省略すんなよなあ」


「あ、すみません、それは当たり前すぎて答えた気になってました」


 イツキは頭を掻いて「愚問だったな」と詫び、無邪気に歌うクコに目を向けた。


「クコちゃん、将来絶対美人になるよなあ」


 イツキが笑うと、ムカゴの前髪から垣間見える目が微笑み、頬に赤みが差し、珍しく口角までも少し上がった。


absolutelyアブソリュートリー……!」


 訳すれば「絶対に!」「その通り!」だ。


「あ、うん、なぜ英語?」


「クコは世界規模の美人になるからです」


 断言した。


 ……まあ、そうだろうけど、事実なんだろうけれども。

「親バカ」の最上級ってなんだっけ、と考えながら、親バカじゃないムカゴは逆に怖いわな、と思い直した。




 ホノカがピアノを弾き続け、クコのリクエストで次の曲になった。


「茶色の小瓶は~ 不思議な小瓶さ ひとっ振りするっだけ 何でも飲めるよ」


 ピアノの周りでいつからかピクシーの子供たちが歌っていて、クコが腕をふりふり腰をふりふり踊っていた。


 その楽しげな光景を見守っていたムカゴは曲が終わると、決意したように頷いて、ぼそりと提案した。


「ホノカさん、クコのお母さんになってくれませんか?」


「えええっ⁉」


 ホノカが椅子の上で飛び跳ねるのと同時に、


「ほんと⁉ おかあさん⁉」


 クコが目を輝かせた。

 イツキが慌てて「待て待て待て、ダメダメダメ!」と割って入る。

 ムカゴは不服そうに少し口を尖らせた。


「……別にホノカさんにイツキさんの恋人を辞めろとは言いませんし、」


「ダメ! それでもダメ!」


「何で、ですか?」


 ムカゴは心底イツキの拒否する理由が見当もつかないらしい。


「俺が嫌だからだよっ!」


 イツキがやけくそのように叫ぶと、ホノカが黄色い悲鳴を上げた。


「きゃ~そんなあ、私を取り合わないで~」


 ……楽しそうだなあ。





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