1-4 和菓子職人とホッチキス

 放課後、ムカゴが休憩を貰って和菓子屋の厨房から出た時、けたたましい狂笑と甲高い奇声が二階から響いてきた。

 作業靴のまま二階に駆け上がると、ムカゴの部屋で畳の上に投げ出されたクコが両手足をジタバタさせながら笑い声を上げており、側にはおばさんが「あー、ああーっ、あああ、ああーっ!」と気を動転させて頭を振り乱していた。


 窓際のちゃぶ台には、緑茶と餅を入れていないぜんざい。ついさっきまで大人しくおやつを食べていた形跡だ。


 ムカゴはクコに駆け寄り、抱き上げた。クコの首がぐいっと曲がって、開いた瞳孔がぎょろりとムカゴに向いた。クコは今も喉を震わせ、哄笑している。


 ――普段のクコは「これ、なにー?」何かを指差して、ムカゴが答えれば満足そうににんまり微笑む。脇腹を擽れば、「きゃっきゃっ」と笑うのだ。


 こんな、ケタケタと口角を引き攣らせて笑ったりしない。


 もしや笑い発作か。ムカゴは必死で脳内の少ない知識を引っ張り出した。


「すぐ病院にっ」


 いや、それでは駄目だ。周囲の人間に、この子がどういう目で見られるか。

 「気味の悪い子だ」とでも囁かれようものなら、ムカゴは怒りのあまりそれを言った相手を絞め殺すだろう。


 頼れる人、頼れる人っ、誰かいないか⁉ 荒唐無稽なことを言っても信じてくれて、クコを異常扱いしないような。


「……イツキさん……」


 オープンキャンパスで出会った大学生の名が浮かんだ。すぐに着信ボタンを押した。イツキは間髪入れずに通話に出てくれた。


『ムカゴ? 久しぶりー』


「あ、あ、イツキさんっ……」


 もう五分近く、クコが苦しげに笑い続けていた。

 早く何とかしてあげなければと思うほど焦って言葉が出てこない。


 イツキは緊急事態を察したのだろう、緊迫感を伴いながらも冷静な声音。

『落ち着け。何があったか順を追って話してみろ』


「ク、クコが、笑ってて、笑いが止まらない感じで、ずっと、もう苦しそうに、呼吸困難になってたら、僕、どうすれば」


『――救急車は呼んだか?』


「あ、呼びます、今」


 そうだ、これは流石に救急車を呼ばなければならない事態だろう。何故思い至らなかった。


『待て、呼ばなくていい。今は何言っても頭に入んないだろうから、俺の言うことに取り敢えず従ってくれ』


「は、はい」


『お前は、クコちゃんもおばさんもそこに置いて、今すぐに出来る限り遠くに離れるんだ』


 頭が真っ白になった。イツキの言葉の意図が見当もつかない。


「そ、それは出来ません。こんな状態の娘を放置するなんて出来るわけないです!」


 ムカゴは、自分では説明のつかないほどクコを愛していた。

 ムカゴの親は養育能力のない人間だった。それに見切りをつけて家出した。実質、それはムカゴの方から両親を棄てたのだった。


 クコを拾い、「この子は自分の娘だ」と宣言した時、子供を愛さない親はいないと思った。血の繋がりなどどうでもいい。両親が自分を愛さなかったのは、彼らがその未熟さのために親になれなかったからだ。


 この子が教えてくれた、自分は人を深く愛せる人間であると。この子を腕に抱く以上に、多幸感に包まれた経験はなかった。


 そういった話を時々どもりながら、イツキに叩きつけた。イツキは辛抱強く聞いていた。そして、


『愛しているのなら猶のこと、クコちゃんのために離れろ』


 その言葉に頷くことは到底できなかったが、クコをこのままにもできない。

 イツキならばクコを落ち着かせることができるというので、待ち合わせることとなった。


 ムカゴは藁にも縋る思いで、クコを抱っこ紐で抱えて走った。痙攣したように笑う娘の耳元に、息を切らしながら囁き続ける。


「クコ、クコ、落ち着いて。お父さんが助けるから。大丈夫だから。いい子だね、クコ。いい子ね、いい子ね、……お願い……」

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