第2話:転勤後、子供達は東京の大学へ

 宮入俊英は、1950年4月、東京都立大学経済学部を卒業しN生命に入社し、最初、すぐに新潟へ転勤となり、一目惚れした新潟の女性の水上静恵さんと激しい恋に落ち12月15日結婚。1951年9月15日、宮入晋平が生まれた。


 その後、1955年5月に女の赤ちゃん宮入圭子が生まれた。新潟で8年過ぎ、転勤で、長野県の辰野に引っ越した。宮入俊平は、塩尻、岡谷、諏訪、伊那、飯田を担当した。息子の宮入晋平は、多感な小学校から中学3年の12月まで自然豊かな辰野で過ごした。


 父は、1967年の12月、東京へ引っ越し、N生命八王子支店に勤務。この頃、宮入晋平は、東京都立大学経済学部を受験することを決めた。そして1970年2月に受験して合格した。母は、寒い信州から暖かい東京へ行けると喜んだ。


 4歳年下の妹の圭子も東京行きを大歓迎した。12月29日、8時、引越しのトラックが辰野の借家の前に泊まった。そして6人の男が出てきて次々と荷物をトラックに積み込んだ。昼過ぎに父が家に帰って来て宮入家の4人は、父の車に乗り八王子のマンションに向かい16時過ぎに到着。


 そして3LDKのマンションに入った。マンションのエレベータ乗り、次に部屋の狭さに驚いた。その後、電話が入り荷物の搬入は明日、朝と連絡してきた。8時過ぎにトラックが来て荷物を運びこんだ。14時過ぎには、引っ越しが完了し、書類にハンコついて引越し終了。


 両親の部屋と晋平と圭子の部屋と10畳のリビングで家賃は10万円と聞かされた。既に、晋平は、都立大学に合格していたので、試しに京王八王子まで徒歩15分で行った。その後、京王線特急で明大前、井の頭線に乗り換え渋谷へ、東横線に乗り換え東京都立大学へ75分かかる。


 東京都立大学では、体育系のクラブには入らず経済研究会に入り為替、株式、商品「原油、金属、貴金属」の同好会に入った。そしてメンバーは男子6人女子4人の10人。しかし、毎週、顔出すのは、会長の海山幸次、副会長の西野勝子と宮入晋平の3人だった。


 海山は、日本経済について戦後の日本の景気は、アメリカ、欧州の邪魔が入らなければ、必ず、高度成長すると楽観視した。しかし西野は、日本は、上手にカジ取りしないと欧米に利用されるだけであると悲観論者。これ回避するには、日本でしか作れないような高度な技術が必要だと論じた。


 研究室の先生の松下弦蔵先生は、西野の考えに近かった。しかし、短期的には、欧米の意向で、日本経済が潤う事もある。その時が投資の絶好のチャンスだと話していた。やがて4月になり圭子は、地元の都立中学の3年生に入り受験勉強を続けた。


 母は、家族の面倒を専念し就職しなかった。しかし、父がN生命のセールスとして高い給料をもらったので経済的には全く問題なかった。この頃、圭子は、中央大学を受験したい父に伝えOKをもらった。その後、予備校に通い始めた。やがて、夏が来て、秋、冬となり東京の冬が暖かいと母が驚いた。


 冬でもマンションに入る日差しで、眠くなるほどだと喜んでいた。この年の夏は、サマーランドへ出かけ日焼けした。しかし、東京の夏は暑く、夜になっても気温が下がらず、母は、体調を崩した。そこで24時間クーラーを入れる生活になった。


 それでも父は営業で外回りをして汗臭いシャツとワイシャツ毎日取り換えた。秋、冬が来て1971年となった。今年の3月20歳を向けるので株投資したいので百万円貸して欲しいと言うと5%の利子で貸すと言った。 この年の4月、中央大学の経済研究会に女性部員が入会。


 彼女は、大学職員として採用され、事務の仕事をしている三輪沙織さん。仕事の傍ら生きた経済の勉強がしたいと経済研究会に松下弦蔵先生に入会を懇願し彼女の情熱に負け入会を認めた。しかし自分でよく勉強していて考えもしっかりしていた。その姿を見て宮入晋平は、一目ぼれした。

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