第2話 依頼人

 北池袋中華街――

 中華街というには一本の通りに限定されているが、池袋在住の中国人にはなくてはならない通りであり、美星メイシンはその通りの奥まった所にある漢方薬店の前で昭和の風景写真から抜け出してきたような古びた外観の建物を見上げて、ため息をひとつついた。


 ――面倒くさいなぁ……。


 心の中で悪態をひとつついて肩を竦めてから、美星メイシンはハニーブラウン色のポニーテールを踊らせながら、昭和の建物を思わせる古びたガラスの引戸を引いて店内に入った。

 ガラリという今どき中々聞かない引戸が開く音と共に、乾物臭い漢方薬店独特の臭いが美星の鼻腔びこうをくすぐる。


「よう。いらっしゃい」


 店のカウンターの奥で新聞を読んでいた男性が引戸の開閉音に広げ読んでいた新聞を下ろし、角縁の黒いセルフレームの眼鏡を指先で上げながら、無精髭面の口元にニヤけた笑みを浮かべた。


「いい加減、自動ドアにしたら?」


「その引戸の古さがいいんだよ」


 男性は四〇代後半くらいと思われる落ち着いた雰囲気を醸し出していたが、肌艶は三〇前半くらいに思え、どこか年齢不詳のニヤけた顔立ちをしていた。体つきもヒョロリとした印象を受けるのに、腕周りなどががっしりしていて奇妙な違和感を感じる不思議な男性だった。


師叔シーシュ。こう頻繁に呼び出されると、あたしの大学生活に支障を来たすんだけど」


「仕方ない。世話になった人の紹介だ」


 店主は肩を竦めて見せると、あっちだと言うように店の奥の階段を顎で指し示した。

 それを見た美星は面倒くせーという表情を浮かべ、トボトボとした足取りで階段に向かい足を止めて振り返った。


「これは貸しひとつだかんね!」


「わかったわかった」


 さっさと行けというように店主はシッシッと手を振り、再びカウンターの奥の椅子に座り込むと新聞を開けた。


 美星が登る薄暗い階段も、これまた昭和の戦後の建物にありがちなはしごと大して変らないような急な傾斜の階段だった。

 ギシギシと音を立てる階段をゆっくりと登った美星は、その先にある磨りガラスの扉をノックし、静かに押し開けた。

 部屋は古びた印象の四畳半ほどの広さで、中央に円卓と椅子が置かれているだけだった。いや、入口脇の壁に八卦鏡はっけきょうが掛かっており、それだけが異彩を放っていた。


「あなたが美星メイシンか……。ずいぶん若い方でしたね」


 円卓に座っていた男性がそう話しかけてきたが、美星はちょっと待ってと手を上げて、壁に掛かっていた八卦鏡はっけきょう凸面鏡面とつめんきょうめんをクルリとひっくり返し、凹面鏡面おうめんきょうめんに切替えた。


「これで、この部屋の会話は外に漏れないわ」


「なるほど……。噂に違わぬ用心深さだね」


「どうも……」


 美星は軽く頭を下げつつ、男性の様子を窺った。

 仕立てのいいグレイのスーツを着た二〇代後半~三〇代前半と思しき男性。細い顔立ちで神経質そうな印象を受けるが、それでもイケメンと言われる顔立ちには入るだろう。アッシュに染めた短い髪も、彼を若く見せるポイントかもしれない。


「今村と言います。IT企業の社長をしています。よろしく」


「よろしく。楊美星ヤン メイシン巫術師ウーシュシーです」


巫術師ウーシュシー……?」


 聞き慣れない言葉に今村は首を傾げた。


道士どうしではないのですか? あと、こちらのご店主の娘さんですか?」


道観どうかん――道教の寺院――で修行はしましたけど、縛られるのが嫌で道士ダオシーにはなりませんでした。だから巫術師ウーシュシーです」


「なるほど……」


「それとこちらの店主楊叔宝ヤン シュパオとは直接の血縁はありません。私の師匠の師兄弟にあたるので、師叔シーシュと呼ぶ関係です」


 店主との関係を説明してから、美星は円卓に左肘をついて身を乗り出し、その手で口元を隠しながら今村の顔を見上げた。


「それでご用件は?」


 あまりお行儀のいい格好とは言えない美星の態度に今村は苦笑しつつ、彼も少し身を乗り出して話しはじめた。


「今、この東京に呪詛じゅそが大量に振りまかれているのはご存知ですね」


「今にはじまったことじゃないかと……。一九八〇年代のオカルトブーム以降、ずっと民間呪詛は広まっていますし、そもそも大戦前も、当時の上海シャンハイレベルの酷い状況だったと聞いています」


 第二次世界大戦直前の上海シャンハイは、魔都と称される街だった。列強国が租界そかいという治外法権地域を作り上げた上にスパイが暗躍し、日常的に暗殺が横行していた。当然、暗殺の中には呪詛による死亡も数え切れないほどあったと言われている。


「確かに……。しかし、異様なほどの呪詛が今年になってばらまかれたと聞いています」


「どこから……それを?」


「それは、私の特別な情報ソースなので明かせませんが、横浜の道士の一人から……だと答えておきましょう」


「ふぅん……で?」


 さっさと本題に入れと美星は暗に促した。


「一〇代~二〇代前半くらいの若い子たちに呪詛をばらまいている呪術師じゅじゅつしがいます。生死を問いませんが、そいつの呪詛を止めて欲しいのです」


 生死を問わずと言う言葉に美星は目を細めた。


「穏やかじゃないのね……」


「私の姪が……呪殺じゅさつされました」


 目を伏せながら今村が差し出した新聞記事の切り抜き。それは埼玉県で女子高生が事故死したという小さな記事だった。


「あれは……事故死ではありません。下半身を何かに喰われていたのですから……」


 下半身を喰われたという穏やかならぬ表現。それを裏付けるように、今村は検死時に撮影されたと思しき腹部から下が失われている少女の写真を新聞記事の上に載せた。


「ある筋から入手した検死時の写真です。不思議なことに、私以外の親族は、この死体の不自然さに気づかないのです!」


「呪詛がかかっているから、にしかそれは見えない。普通の人には、せいぜい傷みの早い死体くらいにしか思えない」


「だから私は調べました。羽黒ハグロという名前の呪術師です。ネット界隈に存在し、若者に低価格で呪殺方法を教えている奴です! 奴を……奴を……」


 そこまで言って今村は、堪えきれなくなったのか頭を抱えて嗚咽おえつをもらしはじめた。


「相手は得体の知れない呪術師ヂョウシュシー……ね」


 今村が少し落ち着くのを待ってから話を続けた美星に、今村はすがるような表情を見せた。


「やっていただけるのですか?」


「高いよ」


「ここに一千万あります。前金でこちらを。成功報酬で、さらに一千万でどうでしょう?」


 合計で二千万円。女子大生が一回の仕事で得る報酬としてはあまりにも高額だが、行なうことが殺人も問わないという仕事だけに、それが適切な価格なのか想像がつかない。

 しばらく目を伏せて考えていた美星は、口元に微笑を浮かべた。


「成功報酬が千五百万なら考えます」


「それで! それでお願いします!」


 上乗せする価格も価格だが、それに簡単に応じてしまう今村の資金力も相当なものだった。


   ◆◇◆


 今村を送り出してから、美星が八卦鏡はっけきょうの凹面を凸面に戻すと今まで恐ろしいほどの静けさを保っていた部屋に、急に騒がしい街路を行き交う人々の声が入ってくるようになった。

 その後、美星は円卓の裏や今村が座っていた椅子の下などをチェックしてから、階下の漢方薬店に降りた。


「仕事になったようだな……」


 新聞を畳みながら立ち上がった店主――叔宝シュパオに美星は苦いものを噛んだような渋い顔を向けた。


「どうせ聞いてたんでしょ? どう思った?」


 叔宝はニヤけた表情のまま肩を竦めてみせ、数枚の印刷物をカウンターの上に並べた。


「事故は本当に起きている。表向きはひき逃げとなっていて、新聞にも下半身が喰われたとの記載はない」


 印刷物の一枚は、先ほど今村が見せた新聞の切り抜きの事故をまとめたものだった。

 さらに叔宝はもう一枚の印刷物を美星の前に出した。


「東京都監察医務院には、確かに今村沙耶香の不審死体が持ち込まれて検死を受けている。一般の監察医が調べた際には下半身がないことは気づかれていなかった」


 隠蔽いんぺいの術が掛けられた呪殺死体にはありがちな状況だった。だが、こうした検死を受けた遺体の情報を確認する術士は、大抵どの国にも存在している。それほどまでに呪術と国家の結びつきは強かった。


師叔シーシュの個人的感想はどうかしら?」


 美星は今村が置いて行った百万円の札束十束の内の一束をカウンターに置き、叔宝に向かって滑らせた。それを受け取った叔宝は、左手で刀印とういんを結びそこに一息吹きかけ、その刀印で札束をトントンと二回叩く。

 しばらくの間目を閉じ、集中するように真顔になって眉間にシワを寄せていたが、すぐに口元にニヤけた笑みを取り戻した。


「一応、お前のぶんも確認しておいてやったが全部だ。我々を騙す必要性があるようにも思えないしな。ただ……」


「ただ……なに?」


には思えなかった……。今のところ感じたのはそれだけだな」


 ふぅんと美星は口元に手を当てて考え込んだ。

 呪術による殺害痕跡が見える奴には思えない男だが、それが見える奴だった――

 敢えて叔宝がそう言うのだから、彼が今村になにか引っかかりを感じたのは確かだった。


「ちょっと保険を掛けておく必要があるかな……」


「なにかわかったら、連絡をしよう」


 叔宝のその言葉に美星は、もう一束を叔宝の手元に滑らせた。


「情報は確度かくどにかかわらず、迅速にね」


 それだけ言い残して美星は漢方薬店を後にした。

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