常世の暁

下村ケイ

前編

 地球の自転が止まり、太陽がその動きを止めた。昼だった地域は二十四時間の間煌々と光り輝く太陽に照らされ、一年を通して夏の気候となり眩しく光り輝く夏休みの国となった。夜だった地域は明けない夜に閉じ込められ、寒冷化に伴い永遠に降り続ける雪に覆われた。夕暮れだった地域では、一部の人々がビルの屋上から身投げをし、残された一部の人間によってたくさんの詩が作られた。二十四時間夕焼けを見詰め続けると、時に人は狂ってしまうらしい。あの夕焼けは人の胸に様々な不思議な感情を呼び起こすのだ。

 そして私が暮らしているのは、そういった、夕暮れの街だった。

 私は昆虫学者で、永遠に続く夕焼けが昆虫の生態系に及ぼす影響を調査していたが、ここ数週間はひどい体調不良に悩まされており、研究の進捗はほとんど絶望的と言って良かった。私は日々鉛のように全身にまとわりつく倦怠感を持て余していた。私の精神はひどく衰退し枯渇しており、そういった悲観的な視点を介して眺める未来は灰色よりも憂鬱な色合いで以て私の眼前を塞いでいた。

 これもまた、尽きることのない夕焼けの及ぼす作用なのだろうか。

 似たような症例は既に多数ネットで報告されていた。

 そんな折、私は既存のどんな蝶の翅にも見ることのできない、極めて美しい色合いをしていると言う新種の蝶の目撃情報を耳にした。当初こそその存在を、昆虫学者として私は疑っていた。そんなものは、夕焼けが人々を錯乱させた結果として生み出された幻覚をその根拠にした都市伝説の類なのではないか、と。

 しかし、それと同時に、もしもそんな色が実在するとしたら、という可能性に私の胸がさざなみ立った。もしもそんな色が実在するとしたら、生きている間に、一度でもいいからその色をこの目で確かめてみたい。誰かが聞いたら嗤うかもしれないが、私はそこに一縷の望みのようなものを感じた。大袈裟に言うなら、それは私にとって縋り得る、生きる希望なのだと言えた。私は重い扉をこじ開けて外出を繰り返すようになった。路傍にまだ見ぬ蝶の色を求めて、私は茜色に照らされた街並みをあてもなく歩き続けるようになった。


 私の母は、優しい女性だった。それ以上の言葉も、あるいはそれ以外の言葉も彼女には相応しくないと思う。そんな母を、私は私なりに好いていた。しかし彼女は、世界がこんなことになる前に他界していた。残された父もまた病に犯され、この街の病院に収容されていた。父の体を蝕む病の正体を私は知らなかったが、死期がそう遠くないことは医学に疎い私の目にも明らかだった。日に日に衰弱し痩せ細っていく父を、しかし私は何もすることもできず、ただただ週に一度だけ、私は父が収容されている病院を訪ねる。病院の廊下に漂う消毒薬の匂いを嗅ぐと、いつも私は死を連想する。正体の知れない、しかしそこに儚くも存在する死について連想する。ここにはきっと無数の生と死が行き交っていて、もしも生きることが様々な記憶や体験によって汚れていくことだとしたら、死はきっと世界で一番清潔なものに違いない。だから、人間は死に近づく程、病室の真っ白いシーツの上で少しずつ漂白されていくのだ。

 愛煙家だった父の体からは、もうなんの匂いもしなかった。

 病室の窓には厚手の遮光カーテンが引かれ、天井に配置された蛍光灯が乾いた光を放っており、病的なまでに清潔な感じのする雰囲気を漂わせていた。父は私に気付いても、いつもの如く何か大きなものを諦めてしまった人間のような表情を浮かべながら遠い眼差しで宙の一点を見詰めている。私も私でこういった時に気の利いた明るく陽気な言葉を嘯く器量を持たないため、この奇妙な面会時間は往々にして沈黙の占める割合が多い。どれくらいの静けさが漂っただろうか。父はふと、私の方には目もくれず、ただただ独り言のように呟いた。

「虚しい人生だった」

 その瞳は弱々しく白濁し、顔面は蒼白く、淡いグリーンの入院着とのコントラストが残酷なまでの儚さを演出していた。死期を悟った人間にかけてやるべき言葉など私には持ち合わせがなく、私はただただ父の顔を見詰めていることしかできなかった。どこか儀礼的な感じのする時間だけが、静まり返った病室を流れていくのだった。


 私に友人はいなかったが、孤独に居心地の悪さを感じたことはなかった。むしろ、私は孤独によって安寧を手に入れたとも言えるかもしれない。代わりに、胸の奥に蟠る感情を自分以外の人間と共有する機会を失った。同居人は物言わぬ昆虫の標本だけである。揺らぎの介在しない生活の中で、安寧が一転、徐々に私の首を締め付けていたのを感じることがある。そういう時、私という吹けば飛ぶほど軽い人間はあまりに無力だった。

 ひぐらしが鳴いていた。夜も朝も訪れない夕焼けの街だが、彼等だけは本来の夕刻に沿ってどこか物寂しげな音色で鳴く。終わることのない茜色の空は既に見飽きて久しいが、日ごと訪れるひぐらしの澄んだ鳴き声は好きだった。私は例の蝶を探しつつ、ひぐらしの鳴き声を聞きながら、当てのない時間を潰すようにデタラメに道を歩き続けていた。一時間ほど歩いて、そろそろ帰宅することにした。

 散歩が徒労に終わった虚しさが、暁の空と否応なく化学反応を起こし、私の胸は喪失感で満たされた。そういった精神状態に陥るとき、私が頻繁に思い起こすのはかつての恋人だった。私にもかつて恋人と呼べる女性がいた。私たちは将来を約束していたが、我々の先に待ち構えていたのは永遠の夕焼けだった。彼女は賢明にもこの街を去った。彼女との連絡はそれきりとっていない。

 帰宅し、私は食事の支度を始めた。と言っても献立はいつもと同じ、冷蔵庫に備蓄してある業務用冷蔵弁当である。冷蔵庫を開き、平積みにされた弁当の容器を一つ掴み上げると、冷蔵庫を閉じた。そのまま電子レンジを開く。冷えた弁当を入れる。スイッチを押す。ぶーん、という音を立てながら弁当が淡い茜色に照らされて回転する。我ながら貧しい食生活だとは思うが、それを不快に思う感性はとうの昔に摩耗していた。

 弁当を食べ終えると、私は居間の中央に置かれた一人掛けのソファに深々と座り込み、サイドテーブルに置かれた特製の煙草を咥え、父から貰った年代物のライターで先端に赤い火を点した。胸いっぱい煙を吸い込み、ライターを絨毯の上に放り投げると、数秒の間だけ息を止めてから、出し抜けにふーと白い煙をゆっくりと吐き出した。様々なパターンの濃淡を描きながら透明な空気と攪拌されていく白い煙の向こうで、壁に掛けられた無数の昆虫の標本が音も立てず、微動だにせず、静かに眠りに付いている。私は妙に落ち着き払った眼差しでそれらを見詰めている。私は何を失ってしまったのだろう。何ら具体的な輪郭を帯びない物思いにたっぷり時間を費やしてから、私は再び煙草に口をつける。煙を思い切り吸い込み、先ほどと同様の手順で肺に煙を留めてから、数秒後にふーと吐き出す。少しずつ意識の外殻が熔解していくのを感じる。

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