第29話 世界は水と音楽でつながっている
しかし王都滞在はおおむね楽しかった。
山に囲まれたナスフ侯国の都とは違って、パランデ王国の都は海に開けている。
港には大小さまざまな船が訪れる。
東西から不思議な品々が届けられる。
絹を染めて作られたどこかの民族衣装、巨大な四つ足の動物、大きな宝石がはめ込まれている金銀のアクセサリー、市場を満たす香辛料の匂い……どれもナスフ侯国から出なければ出会えないものばかりだ。
レギーナはアーノルドとテオドールと三人で都中を歩き回った。
どこにいても潮風を感じる。平らな街はどこまでも続いていて、海岸沿いや河岸の家々は色とりどりの屋根と窓が可愛らしい。
住人みんなが家族みたいな城下町を離れるのは少し不安だが、あれはあれで窮屈なところがある。誰も自分たち三兄弟を知らないところというのは新鮮だ。自分がロビンの婚約者だと知られたらこんなふうに遊び歩くことなどできなくなると思うが、今はまだただの少女として潮風を吸っていたい。
港は今日も出港する大型船を見送る人々でいっぱいになっていた。
船が出る。
ある者は商いをしに。
ある者は冒険をしに。
ある者は家に帰るために。
ここはすべての始発点であり終着点だ。
「ロマンチックー!」
船の甲板にいる知り合いでも何でもない船員に手を振った。屈強な男たちはレギーナを見ると笑顔で手を振り返してくれた。
「わたしもお船で帰りたーい!」
「無茶を言うな」
この街とナスフ侯国の都は確かに河川でつながっているが、この街の川は海と見間違うほど幅広で流れの穏やかな大河なのに対して、向こうの都の川は訓練された船頭が小舟を浮かべるのでせいいっぱいの急流だ。上流と下流ではこうも違うものか。
でも、水はつながっている。
ナスフ侯国で生まれた水は岩を砕き砂を浄化して魚を運びながらパランデ王国にやってくる。ファルダー帝国の玄関口となり、パランデ王国に大いなる恵みをもたらす。
今日はこの旅の最後の日だ。今夜の舞踏会が婚約のおひろめパーティになる。そして明日には渓谷の国への帰路につく。
また来ることはあるだろう。何せ来年には結婚式もあるのだ。家族旅行ももう二度とないというわけではない。
それでも、この旅の節目として、この街に感謝の祈りを捧げたい。
異国の人々が行き交っている。中には言葉の通じない人もいるかもしれない。
そういう人々を結びつけるものが何であるのか、誰よりも深く知っているのはテオドールだ。
埠頭で、彼はケースからバイオリンを取り出した。
テオドールがバイオリンを構える。いつもの調子のよさはなりをひそめ、伏せた目を守る長い睫毛が彼の白い頬に影を落とした。
第一の旋律が流れ始める。優雅な貴婦人が階段を降りるような旋律、誰もが聞き慣れているがそれでも世界中が愛する音階。
彼が吟遊詩人になりたいと言っていたのも、まったく的はずれなことではない。彼は音楽が大得意で、楽曲や歌が人々の心を結びつけることを知っている。
行き交っていた人々がひとり、またひとりと足を止める。
埠頭に突如として現れた、バイオリンを弾く金の髪に青い瞳の少年に目を留める。
人の声が少しずつ止んでいき、バイオリンの音色が通るようになる。
いい調子だ。
レギーナも、自分のバイオリンを左肩の上に構えた。
テオドールの第一旋律が一巡するのを見計らい、呼吸を合わせて第二旋律を重ね始める。
聴衆がどんどん膨れ上がっていく。
嬉しい。
この港町に自分たち姉弟が受け入れられているように感じる。
バイオリンを弾くレギーナとテオドールを、アーノルドが見つめている。
その目はひどく優しく、表情はいつになく穏やかだ。
聴いてくれているだろうか。
マグダレーナが、そしてアーノルドが愛したこの曲を、この街のみんなも愛してくれるだろうか。
一曲目が終わった。
盛大な拍手が上がった。
姉弟がどこの誰なのか知らない人々が次から次へとふたりの空のバイオリンケースに向かって投げ銭をした。お金に困っているわけではないので、後でまとめてこの街の教会にでも寄付しよう。
レギーナはその場でぺこりとお辞儀をした。
テオドールは味を占めたのか二曲目に入った。
二曲目は一曲目とは違って明るく激しい曲調だった。軽快でリズミカルな旋律は広場でみんなが踊るための大衆音楽だ。
テオドールが弾きながら歩き出すと、観衆たちも動いた。
思い思いの形で踊り始めた。
世界が音楽でつながる。
肌の色も瞳の色も、話す言語でさえ通じ合えない人々が、今、ここでテオドールの音楽に合わせて踊っている。
「やるな、あいつ」
言いながらアーノルドが近づいてきた。
レギーナは投げ銭をまとめてポシェットにしまい、バイオリンをケースに戻した。
「あの子、普段から城下町でこんなことばっかりやっているもの」
「知っている」
そして、ふと笑う。
「だから、友達が多い」
味方がたくさんいるのはいいことだ。彼が今後も大勢の人に囲まれて明るく愉快に過ごせるのなら何よりだ。
「レギーナ」
アーノルドが目を細める。
「くにのことならば大丈夫だ。お前は何も心配せずに嫁に行け」
レギーナは、力強く頷いた。
「ナスフ侯国は俺とテオドールで守る。必要ならばパランデ王国も守る。ファルダー帝国の一員として。俺は、ファルダー帝国のために戦う」
「ありがとう、お兄様」
バイオリンのケースを抱いたまま、兄の胸に跳び込んだ。
「お兄様、だいすき」
兄はケースごとレギーナを強く抱き締めてくれた。
また新しい船が入ってきた。今度は喫水線の浅い帆船だ。
「レギーナ!」
身を起こし、呼ばれたほうを見ると、帆船の上にロビンが立っていた。
船が桟橋に接岸する。
「おいで!」
レギーナは兄にバイオリンを託した。
そして、船に駆け寄った。
ロビンが手を伸ばす。
その手を取る。
導かれるまま、揺れる船の上に足を進める。
音楽が止んだ。
「あーっ、僕もーっ!」
テオドールはバイオリンを手に持ったまま船に飛び乗ってきた。
「こんにちは、テオドール。バイオリン、上手ですね」
「ありがとう! 僕は楽器もうまいんだよね。僕は何をやらせても器用でねぇ」
「僕は君のそういうところが好きです」
アーノルドはテオドールの空のバイオリンケースとレギーナのバイオリンの入ったバイオリンケースを抱えて船に乗り込んだ。
「今日の
ロビンが尋ねると、アーノルドはまたいつものしかめっ面に戻って「大昔からだ」と答えた。
「今日はよかったのか? こんな御大層な船を出させて」
「ええ、可愛い義弟の頼みですから」
テオドールがどうしても遊覧船を出してほしいというのでロビンに相談したのだ。
彼は快く引き受けてくれた。その結果がこの船だ。
「侍従官に笑われましたよ」
ロビンが歯を見せてからっと笑う。
「ロビン殿下がそんなわがままをおっしゃるなんて珍しいですね、と」
レギーナは胸の奥がつきりと痛むのを感じた。
この人はきっと多くのことを我慢してきたのだろう。自分を押さえつけ、殺し、何年も何年も耐え忍んできたのだろう。
でも、これから先は大丈夫だ。レギーナが多少強引にでも解放させる。
「たまのわがままなので聞いてもらえました」
何も知らないテオドールが無邪気に「やったー」と両手を挙げた。
「とはいえ、お昼ご飯までですよ。夜のパーティに間に合うように支度をしないといけないので」
「はーい!」
レギーナはロビンに尋ねた。
「ロビン様は、お昼はどこで何を召し上がるんですか?」
ロビンが嬉しそうに答えた。
「あなたたち兄弟といただきます。この船の中の食堂でね」
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