第7話 お菓子を焼くわよ! ~完成編~

 と言っていられたのも最初のうちである。


 小麦粉が増えれば増えるほど重く硬くなっていく。


「まだ入れるの?」

「まだです」

「これ全部?」

「全部です」


 菓子職人が徐々にではあるがどんどん小麦粉を増やしていく。

 粘度が減っていき、硬度が増していき、へらで分けるのにも苦労するようになっていく。


 レギーナはロビンを忘れてアーノルドのことを考えながらざくざくと空気を入れる作業に没頭した。

 あの人が余計なことをしたせいで、あの人がいなかったら、今頃わたしは――いやいや、今までの失敗があったからこそロビン様と出会えたのだから、そこはもう考えず――しかし十回の婚約失敗の恨みはいかで晴らしてくれようか――わたしの心の傷!


「せいっ! どりゃっ!」

「レギーナ様、作業中に大きな声を出されますと、飛びます」

「はい、ごめんなさい先生」


 どうにかこうにか苦労して練り込んだものがひとつにまとまった。クリーム色のかたまりはふんわりと丸くて、その姿を眺めていると愛しささえ感じるほどだ。


 一口大、レギーナの親指の先くらいの大きさを意識して、ひとつひとつちぎって丸める。小さな可愛らしい円形のものをいくつもいくつも天板に並べていく。おいしく丸く焼き上がりますようにという祈りを込める。


 ちぎってもちぎってもなくならない。


「これ、全部でいくつ作るんだったかしら」


 菓子職人が苦笑した。


「ひとり頭十個として考えて、三百個くらいですかね」

「さんびゃく!? わたし本当にそんなに大丈夫と言ったの!?」

「はい」


 自分の考えなしに呆れた。

 このかたまりを、残り二百九十個。

 目眩がする。


かまの支度が終わったら手伝いますから」

「いや、いいわ。わたし、がんばる。みんなわたしの手料理を望んでいるんだもの、一個たりとも気を抜かないわ」


 菓子職人がふと微笑んで「真面目ですね」と言った。


「私たちはそういうお嬢様をお慕いしているんですよ」


 泣けてくる。世界中のみんながそう言ってくれればレギーナはどれだけ幸福だっただろう。

 今のレギーナは物を深く考えなかったせいで想像の二十倍近い小麦粉とバターのかたまりと悪戦苦闘している。よく知りもしないで大言壮語を吐いた。そんなお気楽な娘のどこがいいというのか。だから婚約破棄されるのだ。


 気を取り直して、作業に集中する。今はロビンのことである。おいしくできますように、おいしくできますように。


 やがて、三百個の丸いかたまりが完成した。


「では、窯に入れますよ」


 菓子職人が窯の口を開けた。


 一瞬、灼熱の温風がレギーナの頬を撫でた。


 熱い。


「……え、ここに入れるの?」


 菓子職人は慌てた。


「危険です、私がやりましょう」


 はっと気を取り直す。


「大丈夫よ、ここに入れればいいのね、私がんばるわ!」


 天板を持ち上げた。


 めちゃくちゃ重い。


 道理で鍛えられた腕の男性がやる仕事であるわけだ。

 菓子職人への尊敬の念を新たにした。

 こんな作業を毎日していたらレギーナの腕もむきむきになるに違いない。

 引き締まった細い二の腕を目指す身としてはがんばるべきかもしれないが、とりあえず一朝一夕では無理だ。


 なんとか窯に押し込む。雄叫びをあげながら、だ。


 最後まで突っ込めた。


 指の先が窯の鉄板に触れた。


「あっつっ!」


 菓子職人は無言でレギーナの手首をひっつかみ、水道から汲んで置いておいた水に指を突っ込ませた。


「ほら、言わんこっちゃない! お嬢様の大事なお体に傷がつこうものなら私は悲しゅうございます! 旦那様やアーノルド様にも何とお詫び申し上げたら!」

「ま、まあ、こんなこともあるわよ!」


 ひりひりして痛むが仕方がない。これも自分が望んだ苦労である。自分はがんばっている。えらい。この試練を乗り越えてこそ辿り着く高みがあるのだ――とレギーナは当初の目的を完全に忘れ去って涙を飲んだ。


 ここから焼き上がるまでは少し休憩である。


 レギーナは菓子作りがいかに大変だったかを菓子職人や昼食を作りに来た料理人たちにこんこんと話した。

 そして改めて菓子職人の彼を褒めたたえた。

 彼が作るのはこんな簡単なものだけではない。それも、レギーナたち親子だけでなく、家中の人間に作ってくれている。

 その苦労はいかばかりか。


 レギーナがあまりにも真剣だったからか、彼は涙を浮かべて頷いた。


「お嬢様がそうおっしゃってくださるのなら、二十年この仕事をやってきたかいがありました」

「そんな、大袈裟な」

「最初はどうなるかと思いましたが、最後にいい経験をさせていただいて、私は幸福な職人です」


 驚いて目を丸くした。


「最後? 辞めてしまうの?」


 すると職人のほうも驚いた顔をした。


「お嬢様のほうがご結婚なさったらこの城を出てゆかれるのでしょう」


 いまさらそれに気づいて、レギーナはショックを受けた。


「お嬢様が私の作ったものを召し上がられるのもあとどれくらいかと思うと、最近は一日一日よりいっそう励ませていただいております」


 今になって、自分は結婚について軽く考えていたのではないか、という思いがよぎった。


 そうか、結婚したら、この城を出ていくのか。


 結婚したい、婚約したい、ということばかり考えていて、具体的に何が我が身に起こるのか、具体的なイメージが湧いていなかったのかもしれない。


 唐突に寂しくなった。


 が、香ばしい、焼き菓子特有のいい匂いがしてきたので、レギーナはすぐ忘れた。


 今度こそ、熱くて危ないということで、菓子職人が窯から天板を引き出してくれる。


 先ほどより少し膨らんだ小さな丸い焼き菓子が、三百個並んでいた。


「うわあ……!」


 喜びのあまり思わず声を漏らしたレギーナに、菓子職人が「お見事です」と言う。


「では、粉砂糖を振りましょう」

「はい!」


 作業用の大皿に焼きたてあつあつの菓子を並べ、ふるいと白く細かい砂糖を用意した。


 さらさらと振りかける。

 理想の形にできあがっていく。

 最初のうちはどうなることかと思ったが、今度は達成感で泣きそうだ。


 ところが、である。


 そのあたりで、菓子の匂いを嗅ぎつけてきたらしい。


「できあがりましたか?」


 衛兵の青年数人が厨房に顔を出した。

 レギーナは何も考えることなく笑顔で「ええ」と答えた。


「いただいてもよろしいですか?」

「召し上がれ!」

「やったー!」


 それを皮切りに、また、次から次へと家の人間たちが訪れた。

 小間使いの少年たち、家庭教師の女性、庭師の男性たち、洗濯場の女性たち、政務に携わる文官たち、軍務に携わる武官たち――

 あれよあれよと言う間に、菓子がどんどん減っていく。


「……あれ……」


 最後に、アーノルドが顔を出した。


「こら、お前は! 料理なんぞする令嬢があるか! 怪我でもしたらどうする!」


 言いながら、菓子に手を伸ばした。


「慣れないことをして、指先に巻いているその布は何だ、火傷したのか、もう二度とこんなことはするな、……うまい、うまいな……」

「ちょっと、なに勝手に食べてるの! 兄様の分はないわよ!」

「こんなに大勢の人が食べているというのに俺の分がないということはなかろう。それにこういうのは焼きたてが肝心だ」

「やめて! これはロビン様の! ロビン様のために作ったものなのーっ」


 最初に取り分けておくべきだった。


 最終的に皿の上に残ったのは、三つだけだった。


「ロビン王子だと? あんなやつのためにお前は火傷の危険を冒してまで料理をしたのか。もう二度とこんなことはするのではない」

「ひどい! 兄様最低! 大嫌い!」


 しかもいまさらこんなことを言う。


「だいたい、ロビン王子が、お前が作ったものを食べると言ったのか?」

「えっ?」

「一国の王子が敵国で作られたものをそう簡単に食べるものだろうか」


 レギーナは皿を手にしたまま愕然とした。


 皿の上に残った三つを眺める。


 この菓子は、ロビンの口には入らないのだろうか。


 涙が込み上げてきた。


 奮闘してきたこの時間は、何だったのだろう。


「……レギーナ」


 アーノルドの、剣だこのある大きな手が、レギーナの頭を撫でる。


「残ったら俺が食う。取っておけ」


 レギーナは鼻をすすりながら答えた。


「テオドールとお父様の分を残しておくのを忘れてしまったわ……」

「…………」




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