第一章:覚えのない彼と、覚えすぎている彼女

第一話:記憶の糸は妹任せ

 衝撃の体験から数時間後。


 既に夜九時も周り。

 家で夕飯を済ませた諒は、薄い水色のパジャマ姿で自分の部屋のベッドに仰向けに寝転んだまま、今日何度目かのため息をいていた。


 人生で初めて告白をされた。

 しかも相手は皆が憧れる美少女、霧島萌絵。


 流石の諒もさぞ喜んでいる……かといえば。告白されたとは思えない程の、冴えない表情を浮かべていた。


 別に彼女に告白されたことが嫌だったわけではない。

 それなのにこんな表情をしてしまう理由。

 それは、彼女が続けて口にした言葉にあった。


  ── 「わ、私! 初めて逢ってから、ずっとあなたを見てたんです!」


 萌絵にそんな事を言われたのだが。


  ──……会ったこと、あったっけ?


 残念ながら、諒にはその記憶がまったくなかったのだ。

 学区が近く、小学、中学も一緒で家もそれほど遠くない、とも話してくれた彼女だが。彼はさっぱりその名も、姿も思い出せない。


 別に諒は、今まで記憶喪失になった事はない。

 そして悲しいかな。失われていない記憶の中で、これまでの人生で女友達と呼べる相手すら殆どいなかった。

 それでも同じクラスメイトであれば、少しは名前や顔が記憶に残る瞬間もあった訳だが。


  ──名前すら、高校で知った位だもんな……。


 結局諒が知っているのは、高校生としての彼女だけ。


 彼が今までではっきりと女子として覚えている相手がいるとすれば、それはたった一人。

 中学一年に経験した、初恋をした相手位だろうか。


  ──つっ……。


 記憶を漁る中でふと、心に過ぎ去りし初恋相手を思い出してしまい、彼の心が少し痛む。

 一瞬だけ表情を歪ませた諒は何とかそれを忘れようと、ごろりと窓に向け身体を向けると、長く吐いた息と共に、苦い想い出も吐き捨てようとした。

 と。その時。


  コンコン


「おにいー。いるー?」


 部屋のドアのノックの音と共に、聞き慣れた少女の声が届く。


「ああ。どうした?」


 その身をごろりとドア側に向けながら返事をすると。ガチャリとドアを開けたのは彼女の妹、香純かすみだった。


 薄手のピンク色のパジャマを着て、バスタオルで長い金髪をくしゃくしゃと拭く彼女は風呂上がり。

 来年中学三年になる彼女だが、最近は兄から見ても随分可愛くなったなと思える、そんな自慢の妹だ。

 無論。本人にそんな褒め言葉など口にはしないが。


 頭を拭いていた腕を止めた彼女は、タオルを肩に掛けると、横になった兄に視線を向ける。


「お母さんが、お風呂空いたから先に入りなって」

「そっか。ありがとう」


 一度仰向けになり、勢いよく上半身を起こした諒は、彼女に顔だけ向けると、にこりと笑みを返す。

 だが。妹は彼がそうする直前。視線が合った時に浮かべていた表情を見逃さなかった。


「……おにい。何かあった?」


 僅かに心配そうな表情をした彼女の変化に気づき。


「お前って、昔っから目ざといよなぁ」


 妹に身体ごと向き直りベッドの上であぐらをかいた諒は、困った笑みを浮かべ頭を掻く。


「おにいが分かり易すぎるだけだよ」


 ふふっと笑った香純かすみは部屋のドアを閉め、近くの勉強机の椅子をひっぱり出し、背もたれに前のめりにもたれかかると。


「仕方ない。優しい妹が話を聞いてあげますか」


 やれやれと言わんばかりの顔で、じっと兄の顔を見つめた。


「別に。頼んでないだろ?」

「まあまあ。話したほうがすっきりするよ」


 余計なお節介。

 だが。そこにある優しさを感じ、無意識に感謝を込めた笑みを見せる諒に、香純かすみも何処か嬉しそうな顔をした。


「で? 何があったの?」

「それがさ」


 一度視線を落とした彼は、ふうっとため息を漏らすと。


「告白された」


 少しだけ真面目な顔で、さらりとそう口にしたのだが。


「……は?」


 香純かすみは耳を疑ったのか。思わず唖然とする。


  ──そりゃ、信じられないだろうなぁ……。


 彼女もまた、兄にまったく女子との付き合いがないのはよく知っている。

 今まで告白されたことすらないことも。

 だからこその反応に、もう一度頭を掻いた諒は。


「だから。告白されたんだって」


 改めて、そうはっきりと言葉を返した。

 その瞬間。


「……はぁぁぁぁぁ!?」


 香純かすみは、それはもう信じられないと言わんばかりの大声をあげると。


「嘘!? 嘘でしょ!? あのおにいが!? 人生で告白なんてされたことのないおにいが!? 今まで彼女すらいなかったおにいが!?」


 矢継ぎ早に繰り出されたのは、兄への侮辱ともとれる言葉の数々。


「……お前、ちょっと言い過ぎだよ」


 流石の諒もあまりの酷さに思わず不貞腐れ、頬を膨らますとそっぽを向く。


「あ……ごめんごめん」


 兄がはっきりと嫌そうな顔をしたせいか。

 香純かすみははっとすると、慌ててその場を取り繕った。


  ──そういえば……。


 そんな中。ふと何かを思い出した諒が、急に真顔でじ~っと香純かすみを見つめる。突然の視線を受け、今度は彼女が少したじろいでしまう。


「な、何よ。どうかしたの?」

「いや。お前、俺と同じ幼稚園行ってたよな?」

「そうだけど。って、おにいが一緒だったの、私が年少組の時のたった一年だけだよ?」

「分かってるよ。あのさ、覚えてたらでいいんだけど。お前……霧島萌絵って、知ってる?」


 諒の質問に、香純かすみは少しの間、手を顎に当て考え込むが。


「……覚えてないなぁ」


 残念ながら、首を横に振った。


「そっかぁ……」

「その子が、おにいに告白した子?」

「ああ。何か幼稚園の頃に俺に逢ったって言うんだけど、記憶にさっぱりなくって」

「幼稚園でもおにいはモテなかったもんね。女の子と遊んでた事なんてあったっけ?」

「……さらりと古傷をえぐらないでくれよ」


 肩を落とし落胆する兄の姿に、


「冗談冗談」


 などと、無意味なフォローを入れた彼女だったが。


「あ……」


 何か思い出したのか。

 突然、妙に間の抜けた声を出す。


「ん? 何か思い出したのか?」

「そういえば、一度だけ女の子に優しくしてたよね?」

「女の子に? 俺が?」

「うん。ぽっちゃりした女の子が帰りに転んで膝擦りむいてた時、その子のお母さんに絆創膏あげてたじゃん」

「んー。そういえば……」


 香純かすみの説明を聞き、改めて記憶を探ってみると。ふっと、その時の出来事が思い出された。


* * * * *


 あれはまだ、諒が六歳、香純かすみが四歳だった頃。


 ある日の夕方の幼稚園の帰り。

 家の近い諒と香純かすみが一緒に帰ろうと手をつなぎ、昇降口を出て幼稚園の門に歩いていた時だった。

 母親を見つけたのか。嬉しそうに二人の脇を駆け抜けていったぽっちゃりめの女の子の足がもつれ、その場に転んでしまったのだが。


「わぁぁぁん! 痛いよぉぉぉ!」


 慌てて駆けつけた母親の前で、その場に座り込み泣きじゃくる女の子の痛々しい姿に、思わず妹の手を離し、諒は少女の母親に駆け寄ると。


「あの。これ」


 黄色い園児用の鞄から、自分の母に持たされていた絆創膏を彼女の母親に手渡そうとした。


「あら。ありがとう」


 そう言って絆創膏を受け取り頭をなでてくれた女性と、突然の諒の登場に泣き止み、じっとこちらを見る少女。

 母親の手が離れた後。


「気をつけてね」


 少女に笑顔でそう声を掛けると、そそくさと妹の元に戻りまた手を取り、そのまま二人は幼稚園を出て、家路に着いた。


* * * * *


 ……確かに、そんな細やかな記憶が思い出されたものの。


「あの子と関わったの、それっきりなんだけど……」


 以降、彼女と会話したり、行動した記憶はまったくない。

 しかも。今の萌絵の面影を感じる所など、髪の色がそれっぽかった事以外、全くある気がしなかった。


「それ、本人に聞かなかったの?」

「えっと……」


 当たり前過ぎる香純かすみの質問に、少し言い淀んだ諒は。


「明日、もう一度会って話すことにしたんだ」


 そう言うと、またもため息を漏らす。

 困った顔の兄を見て、彼女は怪訝そうな表情をする。


「告白されたんでしょ? 返事はしてないの?」

「うん。まあ」


 思わず尋ね返す香純かすみに、彼は歯切れ悪く返事をする。


「何で? 気に入らなかったの? それとも誰か別に好きな人──」

「いるわけないじゃん。お前だって知ってるだろ?」


 またも心の傷をえぐられたような、情けない顔をする兄を見て。


  ──そっか。いないんだ……。


 香純かすみは安堵とも、失意とも取れる複雑な顔をした。


「つまり。明日会って、話してから決めるって事?」

「そのつもり」

「どうして?」

「そりゃあ。俺、霧島さんの事何も知らないし。それに……」


 またもため息。

 そして。


「女の子と付き合うとか以前に、女友達すらまともにいなかったんだぞ。正直どうすりゃいいか分からなかっただけ」


 そう言ってベッドから立ち上がると、諒は気分を変えるべく、一度大きく背伸びをした。


「そろそろ風呂行ってくるから。お前も早く部屋に戻れよ」

「あ。うん」


 彼女の返事を聞くと、何時も通りの笑みを返した諒は、部屋のドアを開け廊下に出た後、階段を降りていく。


 離れていく足音を聞きながら。


「本当に……。おにい、告白されたんだ……」


 香純かすみは視線を落とし、憂鬱そうな顔で、そう弱々しく呟いた。

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