俺が生まれたのは備後国びんごのくにらしい。

 何分、生まれて数年で京に移り住んだものだから、現地のことはあまり覚えていない。強いて言うならば、海産物が美味かった気がする。

 当時、備後国には将軍が──かつて京にて幕府を開いた血族、足利将軍家の公方くぼう殿がおわせられた。第十五代将軍、足利義昭あしかがよしあき殿である。かの織田右府に京より追放され、毛利や渡辺、その他幕府に近しい氏族たちと共に備後を拠点とされた。

 そんな将軍閣下には、正室がおられなかった。代わりに、何人もの側室があられた。

 俺の血族──神母坂いげさか氏は将軍家にお仕えする一族で、母上は侍女として働いていた。父は病をこじらせて、俺が二つか三つの時に死んだ。顔は記憶にない。

 我らが氏族に対する信頼は厚かった。俺も将来は、将軍閣下にお仕えするものだと──そう、決められていたはずだった。俺が生まれて、二年程経つまでは。


八龍丸はちりょうまる、よく聞きなさい」


 それは、俺が四捨五入して十──正確には、五つか六つになるくらいの時分だったか。

 八龍丸というのは、俺の幼名だ。かの源氏八領げんじはちりょうのひとつにちなむとのことだった。元服すれば捨てる名ではあるが、勇ましい感じがするので密かに気に入っている。

 その頃、天花は既に俺と共に暮らしていたが、彼女は自室から出されることはあまりなく、俺が一方的に面識を持っているだけだった。母上が乳をやっていたから、乳兄弟のようなものだろうかと思った。この時代、もらい乳をするのはそう珍しいことではないから。


 やけに神妙な表情をした母上は、もう私を母と呼んではなりません──と口にした。


 俺は絶句した。母上が何をおっしゃっているのか、さっぱりわからなかった。

 母上は母上だ。俺の顔は父に似ているというけれど、それでも血を分けた親類であることはわかる。どうして、俺は母上に子として接してはならないのか。

 言葉をなくしている俺に、母上は抑揚のない声で言った。


「天花は、将軍閣下のお子なのです」


 ますます俺は混乱した。

 天花が、将軍閣下の子? ならば、何故あいつは俺と同じ屋敷で暮らしているのだろう。

 将軍閣下は、槇島まきしまにおわす。しかし俺たちは同じ山城ではあれど伏見に屋敷を構えており、度々太閤殿下──当時はまだ関白だったが──に仕える者たちが訪問することもあった。わば、俺たちに対する監視のようなものなのだろうと思っていた。

 将軍閣下のお子であるならば、閣下と同じ屋敷に住まうはず。だというのに、何故閣下の家臣の屋敷にいるというのか。

 俺は口答えしなかったが、表情に出ていたのだろう。母上は困ったように眉を寄せた。


「天花は、双子だったのです。……畜生腹、というのは、少々可哀想ですが……。ともかく、そういった生まれだから、閣下と同じ場所に置くことは出来ないのですよ」


 双子──一度に何人も子が生まれることは、獣のようだと言われ忌避される。俺はすぐに納得がいった。

 しかし、双子は先に生まれた方を殺すかとになっている。天花が親から引き離される理由はあるのだろうか、と俺は疑問を抱いた。


「……天花は、後から生まれた子です。本来ならば、あの子は足利の子として育てられるはずでしたが……事情があって、親の顔を知らずに此処で育てられています」


 やはり悟られたのだろう。母上は続ける。


「天花より先に生まれた子は、白子でした。閣下はこれを瑞兆とご判断なさられて、先に生まれた子を手元に置くと決められた。天花の世話は、神母坂が行うことになったのです」


 それじゃあ天花は俺の妹になるのですか──と問いかけると、母上はいいえ、と首を横に振った。


「閣下は、天花を普通の──天下の万民のように育てよとお命じになられました。ですから、あの子は神母坂に仕える使用人の子にしなければなりません。私があの子の母役を命じられたからには、神母坂であることをやめなければ」


 わかりますね、と母上は顔をしかめた。

 その時の俺は、全てを理解することなど出来なかった。ただ、母上がそうおっしゃるのならばと、特にそれ以上突っ掛かりはせずにうなずいた。そうすれば、母上が喜ぶと思った。

 それから、母上は天花の母として、そして神母坂に仕える使用人として振る舞うようになった。周囲の使用人たちにも事の次第を知らせたのか、皆すぐに順応し俺だけが神母坂の人間となった。

 母上を母上と呼ぶことはおろか、接する機会も激減した。

 それが正しいことだと、わかってはいる。天花は閣下のお子だ。たとえどのような生まれであろうと、閣下の命じた通りに守り、育てなくてはならない。父がおらず、母上一人で仕えているようなものだから、命令を下されれば即座に対応することが望まれる。そうしなければ、俺たちは生きていけなくなるから。

 天花は、母上を疑わなかった。一度も、そういった素振りを見せることはなかった。

 あれはお気楽で平和惚へいわぼけしているが、さとい娘でもある。母上も不安に思っていたようだが、天花は彼女のことをお母様、と呼んで慕っている。そして、俺にお母様がね、と我が物顔で話をする。


 違う。その女は、俺の母上だ。


 そう主張することも出来た。だが、母上を困らせたくはなかったし、何も知らない天花に現実を突き付けるのは酷だと思ったので、何も言わないでおいた。

 天花は無知だ。己のことを、何も知らない。俺たちがどのような関係かも知らぬまま、俺のことを若君、と呼びくっついてくる。屋敷の者たちが何故自分を避けるのかもわからず、自分を下に見ているのだと勘違いをして、俺を頼る。

 どうしようもない女だ。幸せ者にも程がある。


──あいつが妬ましいのなら、排除してしまえば良いだろう。


 その幸せそうな表情を見る度に、俺の胸にむ黒々としたもやのようなものが囁く。母上を奪ったあの娘が憎かろうと、俺をそそのかす。

 たしかに、俺は天花が妬ましかった。母上を奪い、それを知らないままのうのうと暮らしている。幼い頃は気に食わなくて、突き放したり冷たい物言いをしたりすることも少なくはなかった。

 しかし、それでも天花は俺を頼った。

 彼女には、味方が──否、彼女自身、認識している味方が少ない。屋敷の者たちは皆天花を守るために働いており、彼女のことを畏れ多く思っている。

 しかし、天花自身はそれを知らないのだ。それゆえに、使用人たちに嫌われ、避けられていると勘違いしている。

 そんな彼女は、俺をよすがにしようとする。俺は自分を嫌わないと思っているのだろうか。──いや、それとも。

 理由はわからないが、俺は天花にとって数少ないよるべであるらしい。そう思うと、天花を妬み羨み憎むよりも、憐れみにも似た感情を覚えた。

 可哀想な天花。偽りの母を慕い、味方を味方とも思えず、俺ばかりを頼る天花。

 俺は天花を妬まなくなった。何せ、天花は可哀想な女なのだ。俺がいなければ縮こまり、萎縮し、口を開くこともままならないあいつは、俺がどうにかしてやらねばならない。

 天花は──俺が守ってやらなくては。

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