奈落に咲え、

硯哀爾

 あの人のことを考えると、胸の奥がじくりじくりとうずく。


 のは、いつからだろう? あの人を見る度に顔が熱くなって、心臓が飛び跳ねて、焦れったくて苦しくて怖くて、それなのに何処と無く幸福感を覚えるようになったのは、一体いつからなのだろう?

 考えても、考えても、答えなんて見付かりやしない。誰かに話せるようなことでもなかったし、自分の心が揺らいでいることを──とりわけ、勝手知ったる間柄の人々に知られたくはなかった。

 これは何?

 知らないままでいるのは、どうにも歯痒はがゆかった。誰かに問うことすら出来ない臆病者は、いにしえの言の葉に答えを求めた。

 絢爛なる絵巻物やおごそかな古典には、似たような事例が少なからず記されていた。だから、気付くまでにそう時間はかからなかった。


 これは、恋だ。


 その時のすとんと腑に落ちた感じは小気味良かったけれど、同時に不安を駆り立てるものでもあった。あの人との間でことなんて、どれもしたことがなかったのだから。

 歌なんて、下手くそだから送れない。管弦かんげんに触れたこともない。ねやへ誘うなんて、夢のまた夢。

 諦めようとは思えなかった。だからせめて、この未熟な恋心は、大事に大事に胸の内へしまっておくことにした。

 いつかきっと、形にするのだ。どのような形にして伝えるかはまだ決めていないけれど、それでも構わない。物を大事にすることは、昔から言い付けられている。ちょっとしたことで放り捨てることはないだろう。

 いつかきたるべき日のために。この恋心は、頑丈な箱に入れて、鍵をかけて、しまっておくのだ。暴れ出さないように。何処かへ行ってしまわないように。


──何があっても、忘れないために。

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