チープ
いろはに
第一話
0
「……は行方不明となっているとのことで、警察は関係先を調査するなどして捜索を続けてい」
エンジンの停止と共に、カーラジオはぶつ切りになって途絶えた。
1
高牧桐一はコンビニのだだっ広い駐車場にひとり足を踏み下ろす。民家もまばらの田舎道、夜の十一時となっては、ガラス窓からあふれる店内の照明が眩しくてたまらない。初秋の高い空は濃紺に晴れ渡り、きっと飛行機からでも輝いて見えるに違いない。夜闇に慣れた目にがんがんと突き刺さるLEDに思わずしかめ面になりながら彼は自動ドアをくぐった。園内には、何か作業をしている店員が一人と、牛乳を籠に突っ込んだ薔薇柄のシャツの老婆が一人。昼夜同じの明るい入店音がかえって居心地の悪さを感じさせた。明日の朝食としばらくの道中の飲み物を、半額シールのくっついたおにぎり二個と小さいお茶をカゴに突っ込み、なにか他にいるものはなかったか、店内をぐるぐるぐるぐる物色している。もちろん、あんまり贅沢をする訳にはいかない。なんてったって金が無い。
高牧桐一は夜逃げの最中であった。
ご先祖様から賜った由緒正しきの巨額の借金に追われ、数か月借金取りに怯える日々の中計画を練り、ついさっき築七八年のボロボロにボロを重ねてもまだボロいアパートを出発した。日頃、法律のことを憂慮せずにはいられないほどに薄い壁を通って聞こえてきた、あの明朗な隣人の笑い声さえも、二度と聞けまいと思うと彼を感傷的な気分にさせる材料たりえるのであった。
レンタカーの後部座席には、少しの着替えと使い捨ての食器、安物の毛布など車の中で何とか暮らせそうな設備に加え、有事に備えてのシャベルやT字の雪下ろしといった道具一式を積み込んで、彼は全財産を車一台の形に整えた。そうしていざ出陣したはいいが、朝食を買うために立ち寄った高速道路前最後のコンビニで、事件は起こったのである。
2
コンビニ強盗が現れたのは、彼がちょうどパッケージに鼻を近づけて、車用消臭剤を吟味している時だった。もっと厳密に言うと、フローラルブーケか、シトラスグリーンかで悩んでいるとき、有線放送から垂れ流しにされている流行歌をバックに強盗はやってきた。歩く姿勢はあまりよくなかった。お手本のような強盗ルック。目出し帽に特徴の少ない灰色のスウェットで入ってきたものだから、彼が単に深夜にふらり立ち寄っただけの若者や、徹夜作業の合間を縫ってやってきた疲れた労働者ではない事だけは火を見るよりも明らかである。
こわごわと吸塵マットを踏みレジ前にたどり着いた強盗は、その足取りとは打って変わって、ことのほか威勢よく、黒々と重そうな拳銃を突きつけると、呆然と口を開く店員に模範通りの言葉を吐いたのだ。
「金をだぜ!」
ちょっと裏返ったヘンな声のせいで、ともすればコント番組を見ているかのように現実味がない。つい先ほどまで店員がレジ横のホットスナックの棚をいじくっていたために、強盗はレジを覗き込むようにして銃を突き出していて、傍目に見ると格好が悪い。
”金を出せ”の次に鈍い声でぎゃっ、と言ったのは銃口と相対する店員ではなく高牧だった。厄介に巻き込まれるのは勘弁だ。隙をついて逃げようとして、運悪く棚にぶつかってしまったらしく、正確にはどんがらがっしゃん商品が棚から落ちる音が一足先に響いた。
「何逃げようとしてんだ、通報したらただじゃおかねぇからな」
と、強盗が怒鳴った瞬間に、オレンジ色のボールが彼の顔面で弾ける。勇敢なホットスナック店員が防犯用のカラーボールを投げたのだった。野球場なら暴投だった。これで彼の勝算はゼロと言っても過言ではない。ここから逃げても捕まって終わりだ。現実味を帯びた希望を高牧が脳裏に浮かべた矢先、強盗は予想外の行動に出た。
顔面に受けたボールのせいで、何が何やらわからなくなった強盗は、偶然に天井を向いた銃のトリガーを引いてしまった。威圧でもなんでもなく、引いてしまったのである。蛍光灯の雨に降られて、高牧はまたもぎゃっ、と言った。
ゆっくりと、しかし威圧感のある足取りでこちらにやってきて、目出し帽の上からでもわかるほどに、くっきり眉間にしわを寄せて強盗は呟いた。
「逃げ切ったら三千万円」
「……一体、どういうことですか?」
強盗の両目と外に止めた車の間で激しく視線を反復させながら尋ねるが、答えは無く、代わりに腕を引っ張られ、店の外に連れて行かれた。ぴーぴーけたたましい警報音が鳴っているのは、ホットスナックコンビニ店員が通報したからではなく、シトラスグリーンの車用消臭剤が未会計のままゲートを通ったからだ。
「ちょっと、やめてくださいよ」
「俺を乗せて逃げろ。さもないと」
「さもないと」
「刺す。いいから早くしろ!」
そう言われて、いざ首元にひんやり銃を添えられては仕方がない。キーを回して高牧は車を発進させるほかなかった。コンビニの店員はきっと警察を呼ぶだろう。もう呼んだかもしれない。想定外の出来事が起こったせいか、高牧の思考は落ち着いて、派手に取り乱すことはなかった。ただ、一歩間違えば怪我をする状況を打開しようと、次の策を冷静に考える。その種の落ち着きではない。どう反応すべきかわからず、まるで上の空。驚き過ぎて驚くこともできないから、大事なことは何も考えていない。混乱に対し徹底的に逃げの姿勢を執った、思考停止の落ち着きであった。
3
車窓の景色はどんどん流れて、人気の無い道ばかり選んで車を走らせているうちに、薄気味悪い峠道にやってきた。パトカーのサイレンは聞こえない。さすがの強盗も腕を上げるのに疲れてきたようで、首元に当てられていた拳銃は腹の位置まで下げられていた。依然として毒にも薬にもならないことを考えながら、高牧ははたと気が付いた。
おにぎりとお茶の入っていたカゴは落としてきたのに、片手に持っていたから車の消臭剤だけは持ってきてしまった。ひょっとして、こういう事態でも万引きしたことになるのだろうか。お金を奪うつもりで来て、一銭も掴まず帰った、なんなら持ってきた鞄も置いてきた強盗よりも、腕を引っ張られて出てきた自分の方が盗んだ金額が大きいというのが少しおかしい。なにも盗んでいないのだから、強盗と呼ぶのも忍びない。さしずめコンビニお騒がせ、そう呼ぶべきではないのか。
「あの、そろそろ休憩させてもらえませんか」
真っ暗な林道、時刻は午前二時。コンビニを出発させられてからもう三時間も運転し続けている。おかしくなったついでににわかに元気の出てきた高牧は恐る恐る強盗の顔色を_目出し帽の真っ黒な地肌に、オレンジの塗料がべたべたとまとわりついている_うかがいながら、尋ねてみた。
「……今何時?」
「そうねだいたいね」
「ふざけてんのか」
「すみません、二時十分です。すこし、お腹が減ったし、なにより腰が痛くて。すみません」
強盗はきょろきょろ、サイドミラー、バックミラー、サイドミラー、最後に目視。まるで自動車学校の試験のように辺りをチェックしている。明かりは限られていて、周囲に人の気配もない。おんぼろの街灯が頼りなく明滅を繰り返しているだけだ。
「……まぁ、いいだろ。俺もそろそろ腰が痛いし」
「やった、次のカーブの向こうで止めますね」
いくらか運転慣れしていても、暗く、先の分かりづらい夜の峠道を走るのには神経を使う。ここで願いが通ってよかった。胸をなでおろしながら、高牧は静かに車を走らせる。事故車が少なくないのだろう、カーブの巨大な警告看板を通り過ぎて、道の脇、少し路肩の膨らんでいる部分に車を着ける。しっかり端に寄せたから、運転席から不用心に足を踏み出すと、ともすれば坂を転げ落ちてしまいそうだ。
強盗は助手席から降りて、万歳三唱体を伸ばしている。足元に気を付けながら高牧も車を降りてそれに倣った。道路灯に虫が集ってばちりと弾けた。
「なぁ、お兄さん、着替えとか持ってたりしない?」
「Tシャツとかでもいいですか?ちょっと寒いかもしれないけど」
「それでいいや。ちょっと貸して」
後部座席の夜逃げ道具から新品のTシャツを取り出して手渡す。食品会社のポップなロゴが胸元にでかでかとプリントされているのを見て、強盗はまたもや、目出し帽の上からでもわかるくらいに深々、眉間にしわを寄せた。
「うわっ、だっせ」
「もらいものなんですよ、それ。まぁ、ダサいけど着てないやつですし、匂いがついてないですよ」
「お兄さん、なんでこんなに準備万端なワケ?旅行?」
「まぁ、そんなとこです。遠くに行こうと思って」
「ふぅん。どこ? 箱根とか?」
「箱根かぁ、いいですね。パーッと温泉旅館で贅沢したり」
「箱根じゃねぇのか」
「決めてはないんですけど、とにかく遠くに。九州なんかどうでしょ」
「別府か? どっちにしろ、一人旅にお邪魔して悪ぃね」
強盗が毛玉とオレンジ塗料のついた灰色のスウェットを脱いで、路肩に放り投げると、漫画のように転がって山の暗がりに見えなくなった。食品会社のポップなロゴと、頭部の物騒な目出し帽のコントラストに気分が悪くなりそうだ。
「その頭の奴、脱がないんですか?」
「アンタに顔が知られるだろ?」
「知ったって、どうするんですか……載ってる限り警察になんか行けないし。それにべたべたしてる」
「乗せてもらって降りた後、警察に行くだろ?」
「まさか口封じに」
「それもありだな」
「やめてくださいよ! 僕は、ほら、助手席にその姿で乗ってたら、目立つなぁって思っただけです」
「それは……確かに、一理ある」
「でしょう?傍から見てすぐに事件だって思われちゃう」
「アンタ、やけに協力的だね」
「命が惜しいので」
「勇敢だな」
「車が汚れそうで」
はッはッは、コメディドラマのガヤじみて、強盗は軽快に笑った。
「まぁ、それもそうだな」
「外すんですか?」
「いや、後部座席に乗ればいいだけさ。がっかりするなよ」
強盗は冗談で言ったつもりだろうが、多少の落胆も覚えていないと言ったら噓になる。顔さえ覚えていれば、仮に彼から逃げおおせるなり、送り届けて分かれるなりしたとして、いずれは取り調べに合うかもしれない。その際彼が一刻でも早く捕まるように、というのは方便に他ならない。覆面ヒーロー、着ぐるみ、スペシャルゲスト、往々にして謎に包まれたその正体が気になるように、たとえ相手が強盗であっても、覆面の下の素顔は知りたくなるものだ。つまりは、警察云々の為でなく、己の興味のためであった。
「後部座席、荷物も載ってるので狭いんですけど、大丈夫ですか?」
「片側に寄せればいいだろ」
「残念ですけどそういうわけには……って、あーあー」
強盗が乱雑に後部ドアを開いたので、立てかけていたシャベルや雪下ろしが倒れてきた。車に傷がついていないか心配だったが、暗いのでさっぱりわからない。後部座席は高牧の夜逃げ道具でいっぱいで、たとえ小さな子供でも快適に過ごすのは難しそうな狭さである。
「トランクもいっぱいなのか?」
「えぇ、だからこっちに載せてるんです」
「ふぅん……大荷物なんだな、夜逃げみてぇ」
高牧は押し黙ってしまった。車の上で、頼りない街灯がバチっと弾ける。気持ちの悪い脂汗は背中を伝って流れ、シャツを少し湿らせた。
「もしや図星か? 夜逃げ。いやぁ、兄さん、やるねぇ」
「はは」
その言葉の真意を測りかねて、また嫌な汗が出た。言い難い不快感がはらわたに湧き出て、いっそう気持ちが悪かった。
「でも後ろの席、本当に狭いんだな、座れそうにない」
「あぁ、でしょうでしょう?ほら、だから」
「そんなに見たいのかよ」
強盗が頭のてっぺんを引っ張って、目出し帽を徐に脱ぎ始めた。ゆっくりと露わになったその顔は、とびぬけて美男と言うわけでもなければ、どうしようもなく醜いわけでもない凡庸な顔で、どういうわけか見覚えがあった。街中ですれ違った顔を覚えるほど高牧の記憶力は良くないし、同時にすれ違っただけで覚えられるほど彼の顔も特徴的ではない。ならば一体なぜ覚えているのか、高牧は運転席に座ったまま、記憶のなかの日常をシミュレーションし始めた。
毎朝六時に起きて、借金取りが来ないうちにコンビニへ出かけて、ご飯を買って、食べて、借金取りのいないうちに仕事に出る。職場、職場のトイレ、職場の隣の修理工場、清掃業者、どれも違う。家に帰る。借金取りがいる。逃げ回る。深夜になってどうにか家に帰る。眠る。六時に起きる。月木は燃えるゴミ。確かあの時はゴミ袋を片手に持っていた。私もこいつも。ドアを同じタイミングで開けてしまって、少し気まずい思いをしたのを覚えている。
コンビニ強盗は隣人に瓜二つの顔をしていたのだ。
「あの、私たち、何処かで顔を合わせたことはありませんか」
「なんだよ突然、ナンパみてぇな台詞言って」
「いえ、ないなら別に……」
「なに、俺たち会ったことあんの?」
「いえ、きっと私の勘違いです」
「なんだよ、気になるじゃねぇかよ、言えよ」
「あの、あなた、もしかしてT市のS町に住んでたり、します?」
コンビニ強盗は押し黙ってしまった。ガードレール向こうの暗がりで、鈴虫か何かが鳴いているのが聞こえる。どうしようもない沈黙を埋めようと、高牧は恐る恐る言葉を紡いだ。
「……緑色の鉄階段の、ボロアパート。名前はうぐいす荘。大家さんは向かいの家に住んでる婆さんで、名前は大和さん。あなたの部屋は203」
「アンタ、まさか、奴らの仲間じゃ」
「あってますか?」
「……俺を、見張ってたのか?」
強盗は眉根を寄せて、敵意と驚嘆の入り混じった顔をしていた。それから、おでこが急に重たくなったかのように、彼の眼は細く、険しくなっていった。無理もない、人質に取った相手に顔を見せて安全なのは、人質に名前を知られていない場合だ。顔と名前がすぐに結びつかなければ、まだすこし、たとえ五十歩百歩だとしても、警察にアタリを着けられるまで時間がかかる。そもそも人質に顔を見せるべきではないというのはここでは考えない。なぜならこのコンビニ強盗は少し頭が悪く、高牧は相手を言いくるめるのが少し上手かったため。そして、彼がもう目出し帽を脱いでしまったからだ。過ぎたことは戻らない。
「……私、隣りの202に住んでるんです。その、偶然、ですけど……」
「……そりゃ奇遇なもんで」
この時ばかりは、隣人、瀬田京平も、常日頃の洋画じみた明朗さを欠いて、ただ、気まずげに力なく笑うばかりであった。
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