蒼海の碧血録

三笠 陣

序 茜色のミッドウェー

「霧島より信号! 『敵降爆、貴艦ニ向フ』!」


 飛龍艦橋に、緊張感を孕んだ叫びが響く。


「面舵十五度、機関最大戦速となせ!」


 飛龍航海長・長益少佐が間髪を容れず操舵員と機関部に指示を下した。舵輪が回され、基準排水量一万七〇〇〇トン、全長二二七メートルの船体が機関の唸りと共に速力を上げていく。


「対空戦闘、用意!」


 長航海長の指示と同時に、加来止男艦長もまた、命令を下す。その声には、目を血走らせるほどの緊張感と緊迫感を内に秘めた者たちの心を鎮めるような、どっしりとした安定感があった。


「上空の零戦隊、敵降爆に向かいます!」


 見張り員の歓呼の叫びが、艦橋に届く。

 高角砲座や機銃座では、配置についた乗員たちが飛龍を守らんとする十三機の零戦隊に歓声を送っていた。


「……」


「……」


「……」


 艦橋にいる誰もが、固唾を呑んで上空の敵急降下爆撃機の動きに神経を尖らせていた。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将の表情も、泰然としているように見えるが、どこか頬の筋肉が強ばっているように見える。

 一九四二年六月五日午後のミッドウェー沖の空は、嫌になるほどに晴れ渡っていた。

 その抜けるような蒼穹から舞い降りた敵の急降下爆撃機によって、帝国海軍第一航空艦隊はすでに赤城、加賀、蒼龍の三空母を炎上させられている。

 この飛龍が、一航艦に残された最後の空母なのだ。

 断じて、被弾させるわけにはいかなかった。

 見張り指揮官・吉田貞雄特務少尉を始めとする見張り員たちは、鬼気迫る表情で上空の敵機の動きを見守っている。

 飛龍では今、薄暮攻撃となる第三次攻撃隊の発進準備が進められていた。つまり、一発でも被弾すれば三空母と同じように搭載弾薬が誘爆してしまう危険性を秘めているのだ。

 すでに小林道雄大尉率いる第一次攻撃隊が一隻、友永丈市大尉率いる第二次攻撃隊がもう一隻、米空母を撃破している。

 第四駆逐隊が得た敵搭乗員捕虜への尋問結果により、アメリカ艦隊には三隻の空母がいるという。ここで飛龍が米軍の第三の空母を撃破出来れば、この海戦は引き分けに終わらせられる。

 故に、見張り員の報告の遅滞一つで飛龍の、帝国海軍の命運は決まってしまう。

 そのひりつくような責任感と緊張感と共に、見張り員は青い空を見過ぎてチカチカとする視界に堪えてなおも己が任務を継続していた。


「……」


「……」


「……」


 一方、高角砲座や機銃座につく乗員たちも、砲身や銃身の仰角を上げて上空を見据える。

 本来であれば、海戦が小康状態になった段階で戦闘配食が行われているはずであったが、上空を直掩していた零戦隊の一部が敵攻撃隊の接近を察知して接敵行動をとったため、急遽、戦闘配食は取りやめとなったのだ。

 そのため、飛龍乗員の誰もが腹を空かせた状態でそれぞれの配置についている。だが、一人として空腹を気にする者はいなかった。彼らの胸にはただ、何としても飛龍を守り切るのだという意識しかない。


「艦尾左舷四十五度に敵編隊を確認!」


「霧島、榛名、撃ち方始めました!」


 飛龍を守るように取り囲む二隻の高速戦艦が、高角砲の発砲を開始する。張り詰めた静寂を破り、海上に砲声が木霊した。美しい青空に、黒煙の花が次々と咲いていく。

 それまで第二戦速二十四ノットで進んでいた飛龍の速力は、すでに三十ノットを超えていた。そして、緩く右舷方向への回頭を開始している。

 上空では零戦隊の迎撃を突破した敵機が、対空砲火の黒煙を縫って飛龍へと接近を続けていた。


「撃ち方始め!」


 そして加来艦長の鋭い号令と共に、飛龍もまた対空戦闘を開始する。

 高角砲が発砲炎を煌めかせ、機銃が唸りを上げる。その喧噪は、即座に艦全体を包み込んだ。

 そして、ついに見張り員が緊迫と共に叫ぶ。


「敵機、直上! 急降下!」


「面舵一杯、急げ!」


 長航海長は、刹那の時も挟まずにその叫びに応じた。舵輪が一気に回される。すでに右舷方向へ十五度の転舵を行っていた飛龍には、慣性がついている。三〇度へと深められた転舵角度にも、彼女はすぐに反応してくれた。

 遠心力によって艦は左舷へと傾き、その艦首が鋭く右へと振られていく。


「敵機、榛名にも急降下!」


 どうやら敵編隊は榛名へも攻撃を開始したらしい。しかし、榛名を案ずる余裕のある者など、飛龍には一人もいなかった。

 転舵による傾斜が深まる中で、高角砲や機銃に取り付いた乗員たちはそれでもなお敵機への照準を合わせようと格闘し、見張り員は敵機の爆弾投下の瞬間を見定めようと目を凝らす。


「敵機、爆弾投下!」


 敵機の下部から切り離された小さな物体を、一人の見張り員の目は捉えていた。

 艦橋に、空気すら凍らせるような凄絶な緊張感が走る。

 対空砲火の轟音の合間に、爆弾が空気を切る音を聞いたような気がした。

 この時、七機の急降下爆撃機が飛龍目がけて爆弾を投下していた。

 滑らかな曲線を描く飛龍の航跡の中に、最初の爆弾が消えた。直後に、轟音と共に炸裂して水柱を立てる。


「……」


「……」


「……」


 山口司令官も加来艦長も、その他艦橋に詰める者たちも、祈るような気持ちで転舵を続ける飛龍の艦首を見つめている。

 飛龍の左舷側にも、水柱が林立する。崩れた水柱による飛沫が、飛行甲板を濡らしていく。

 呼吸することも忘れるような、短くも長い刹那の時。


「敵編隊、全機、退避していきます!」


 見張り員のその報告に、多くの者が安堵の息をついた。飛龍を直接襲った衝撃は、なかった。


「被害知らせ!」


 加来艦長は伝声管に取り付き、艦内各部に報告を求める。


「こちら機関長! 艦底部に若干の浸水あるも、戦闘航行に支障なし!」


 その報告を受け、加来艦長もようやく口元にわずかな笑みを浮かべる。

 第一航空艦隊最後の航空母艦は、なおも健在な姿を洋上に示し続けていたのだ。


  ◇◇◇


「ガッデム!」


 SBDドーントレス急降下爆撃機を操るギャラハー大尉は、悔しげに罵った。

 急降下爆撃を終えて上昇している彼の愛機からは、水柱の間から出現した無傷の敵空母が見えていた。飛行甲板前縁に描かれている日の丸が忌々しい。

 彼の率いるエンタープライズ隊七機は、ジャップに最後に残された空母への攻撃に失敗したのだ。

 こちらもヨークタウンを大破させられているとはいえ、三対四という劣勢をひっくり返して、今まさにこの戦争が始まって以来の完勝を収めようとしていた。

 これほどの好機は、恐らく今後、二度と訪れることはないであろう。

 そうした中での、攻撃の失敗。


「シャムウェイ大尉の方はどうだ?」


 大破したヨークタウンに所属していたシャムウェイ大尉率いる部隊は、ジャップの戦艦目がけて急降下爆撃を行った。

 せめて、そちらの攻撃は成功していれば……。


「……敵戦艦に、火災が発生している様子はありません。恐らくは、攻撃失敗かと」


 だが、後部座席からは力ない答えが返ってくる。


「ガッデム!」


 ギャラハーはもう一度罵り、神の仕打ちを呪うと共に、風防に思い切り己の拳を打ち付けた。


「ステビンス隊、敵空母への攻撃を開始しました!」


 そして、合衆国海軍に残された最後の急降下爆撃隊、ホーネット所属のエドガー・ステビンス予備大尉のドーントレス隊がジャップの空母に向けて急降下を開始した。

 すでに爆弾を投下してしまったギャラハーは、ただその攻撃を見守るしかない。

 急角度で降下していくホーネット隊を見つめながら、彼はただひたすらに神へと祈りを捧げていた。

 主よ、どうか我が合衆国に勝利を……。

 だが、勝利の女神はギャラハーらに残酷であった。

 さらに右へと転舵角度を深めた敵空母の左舷側海面に、水柱が林立する。敵空母からは、爆炎一つ上がらない。


「……」


 もはや罵り声を上げる気力もなく、ギャラハーは呆然とした表情のまま海上を見つめていた。

 午前中の戦いで、合衆国海軍はジャップの空母に先制攻撃を加え、一挙に三隻の空母を松明トーチのように炎上させた。神は合衆国に味方しているのだと、艦隊の誰もが思った。

 しかしわずか数時間で、勝利の女神は気分を変えてしまったらしい。

 ギャラハー大尉とシャムウェイ大尉は太陽を背にしての奇襲を狙ったものの、敵空母への攻撃を開始する前に零戦ジークに捕捉され、互いに攻撃を焦ってしまった面があった。

 ステビンス隊もまた、ジャップの上空直掩隊に攻撃を妨害されていた。

 それもまた、攻撃失敗の要因であろう。

 ギャラハーは手が白むほどに操縦桿を握りしめた。そして、苦渋に満ちた声で告げた。


「……やむを得ん。これより帰投する」


 三つのドーントレスの編隊は無念そうに翼を翻すと、自らの母艦の待つ方角へと去っていった。


  ◇◇◇


 太陽は、すでに傾いていた。

 その光に照らされている飛龍の甲板上に、発動機が奏でる轟音が幾重にも連なっていた。

 飛行甲板上には、すでに燃料と弾薬の補給を終えた機体が並べられている。集められた機数は、零戦が一〇機、九九艦爆が五機、九七艦攻が四機であった。

 これが飛龍の送り出せる、最後の攻撃隊であった。

 米空母を攻撃した第一次攻撃隊の小林道雄大尉の姿も、第二次攻撃隊を率いた友永丈市大尉の姿も、すでに飛龍にはない。

 他の多くの搭乗員たちと同様に、ミッドウェーの空に散華したのだ。

 今や、飛龍に残された士官搭乗員は、零戦搭乗員の重松康弘大尉と、艦攻搭乗員の橋本敏男中尉しかいなかった。

 重松大尉は零戦隊を率いなければならないため、極めて異例のことであったが、実質的に第三次攻撃隊の指揮を執るのは、士官搭乗員の中では飛龍最年少の橋本中尉となった。


「小山一飛曹、傷の具合は大丈夫か?」


 搭乗員整列の号令がかけられる中、搭乗員待機室から飛行甲板へと向かう橋本は傍らの搭乗員に案ずるように声をかけた。

 橋本機の電信員である小山富雄一等飛行兵曹は先の出撃において、敵機の機銃掃射を受け負傷していた。


「問題ありません。それに、文宮の仇を討たねばなりませんから」


 橋本を心配させないためか、案じられたことをどこか不服そうにしている。


「そうか」だから、橋本もそれ以上何も言わなかった。「ならば今回も、頼むぞ」


「はっ! お任せ下さい、飛行士!」


 小山は、今日の戦闘で同期の文宮府知三飛曹を失っていた。だからこそ、彼の瞳には強い闘魂が宿っていた。橋本は、それを頼もしく思う。


「高橋一飛曹、今回も上手く飛ばしてくれよ」


「了解です、飛行士!」


 もう一人、橋本機の操縦員を務める高橋利男一飛曹が力強い返答と共に、ニヤリと不敵な笑みを返してきた。

 そんなペア(海軍では同じ機体に乗り込む者たちを、人数に関係なくこう呼ぶ)の姿を見て、橋本はこの攻撃も必ず成功させるのだと決意を新たにする。

 飛龍は、すでに風上へ向けて転舵を終えていた。飛行甲板前縁から、水蒸気が白くたなびいている。

 十九機合計三十二名の搭乗員が、飛行甲板に整列する。

 彼らの前には、二航戦司令官・山口多聞少将と飛龍艦長・加来止男大佐の姿があった。


「これが、恐らく飛龍最後の攻撃となろう」


 山口は、整列した搭乗員一人一人の顔を見ながら言った。その口調から、この司令官が並々ならぬ決意を抱いていることを、橋本たち搭乗員は悟らざるを得なかった。


「すでに十三試爆は敵空母への接触に成功している。諸君らはこの機体の誘導に従い、敵空母を目指せ」


 十三試爆は、後の二式艦偵である。蒼龍に搭載されていたこの機体は、蒼龍被弾後、飛龍に収容され、薄暮攻撃となる第三次攻撃隊の発進に先立って敵艦隊との接触を確保していた。


「すでに我々は、敵空母二隻を撃破している。そして情報によれば、米軍の空母は三隻ということである」


 山口は、数字の部分を特に強調した。搭乗員たちも、その意味をしっかりと理解していた。

 つまり、残る敵空母はあと一隻なのだ。

 山口は、なおも続けた。


「だからこそ、諸君らには最善を尽くして貰いたい。今や帝国海軍の命運は、諸君らの双肩にかかっていると言っても過言ではないのだ」


 二航戦司令官の訓示を、搭乗員は真剣な面持ちで聞いていた。誰もが、自分たちに与えられた使命の重大さを肌で感じ取っていたのだ。

 誰かがごくりと唾を飲み込む。


「そして諸君らには、生きてこの艦隊まで辿り着いてもらいたい。例えこの飛龍が沈もうとも、諸君ら搭乗員が健在である限り、帝国海軍母艦航空隊は何度でも蘇る。そして今日、この海戦で受けた雪辱を何倍にもして晴らして欲しい。そのためにこそ、例え私が戦死しようと、飛龍が沈もうと、諸君らだけは生きて生きて生き抜いて貰いたい。戦いは、今日で終わりではない。明日の帝国海軍のために、諸君らは必ず帰還せよ」


 激烈な調子の山口の訓示に、搭乗員たちは自然と背筋を伸ばした。

 第一航空艦隊は敵艦隊との夜戦を企図していると、搭乗員たちは休憩の合間に他の飛龍乗員が噂しているのを聞いていた。

 恐らく、この飛龍も他の艦と共に敵艦隊へと突撃するつもりなのだろう。

 搭乗員たちは、山口司令官の壮絶な覚悟に胸を打たれていた。


「小官からは以上だ」


 山口が下がるのと入れ替わりに、加来艦長が前に出た。


「小官もまた、山口司令官と気持ちを同じくするものである。諸君らの武運長久を祈る。以上! かかれ!」


 短く己の言葉を切った加来大佐が、号令を下す。

 そして、弾かれたように搭乗員たちが暖気運転を続ける機体へと駆けていった。

 やがて、一機、また一機と、飛龍第三次攻撃隊は茜色に染まりつつある空へと飛び立っていった。

 これが、真珠湾攻撃以来、多くの海を席巻してきた第一航空艦隊の放った、最後の攻撃となった。

 そして飛龍を飛び立った彼らは見事、米空母ホーネットへの攻撃に成功し、彼女に魚雷一、爆弾二を命中させている。

 飛龍は海戦の最後の瞬間に至るまで、航空母艦としての役目を全うしたのだった。

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